エメラルドタブレット(1)
優は濃紺のパーカーのフードと、何かと自分の趣味を押しつけてくる父親に決められたウルフレイヤーの黒髪を揺らし、オレンジの輝きに包まれた大谷町を駆けている。
勉強が苦手なうえに、極度のアガリ症。走ることだけが得意な優だが、本人は走ることを好ましく思っていない。それは自分に注目が集まることを心の底から嫌っているから。秀でた特技が一つだけあると、その他の駄目な部分に光が当たってしまう。
優は十日前の引っ越しの際に逃げ出した三毛猫のミケを探し歩いている。昼食を買いに寄った小さなスーパーの駐車場、車の中。猫というか動物全般に関心のない優の父親が不用意にケージを開けたせいで、パニック状態に陥っていたミケは窓から飛び出して行ってしまった。
中学生になったばかりの優とシングルファザーの父親は暗くなるまでミケを探し回ったが、見つけられなかった。
泣きながら転居先のアパートで一晩を過ごした優だったが、翌日から一人でミケの捜索を開始。三日後に中学生活が始まってからは放課後を使い、ミケの姿を追い求め続けている。
捜索開始から十一日めの夕方、優は父親に何度となく頼み込んだ結果の賜物である手作りチラシを手に持ち、佐藤という表札のかかった門の脇に立っていた。優の目の前には時期外れのクリスマス電飾をひっつけたポストがある。
「何を怖がってんだよ。迷い猫のチラシを入れるくらいなら大丈夫だろ。悪いことじゃないし、子供相手に怒るようなことじゃねえし」
やや訝しく思いながらも、優は唯一の肉親になった父親からの言葉を支えに勇気を振り絞ろうとしていた。
もし人が出てきたらどうしよう。お父さんはああ言っていたけど……怒られたら、どうしたらいいんだろう。
そんな思いが重くのしかかり、優はこの数分間、ポストの蓋に指をかけることすらもできていなかった。
深いため息を吐いた優だったが、重厚感のある黒塗りのドアが開くと、軍隊の行進のように背筋と指先を伸ばす。
「おーい、何か、用事?」
ドアの隙間から白髪混じりの髪を刈り上げた短髪の男性が顔を出している。
優は姿勢を正したままで硬直。手に持ったチラシの件を切り出そうとするが、口をもごもごするだけで一向に言葉にはならなかった。
他人の家の門前に立ち、用事すら言おうとしない。気弱そうな顔で線が細い少年とは言えど、警戒心を抱いたのだろうか、壮年男性の眉間に深い皺が寄る。
「……あのさ。用がないなら、そんなとこに立つんじゃないよ。ん?」
厳めしい表情に変わった男性を前に、ますますどうしたら良いかわからなくなった優は、今にも声をあげて泣き出しそうな顔を地面に向けていた。
男性は優が持つ手作りチラシに目を留め、怪訝な顔で優を見る。
「なに、チラシ配りのアルバイト? 何歳? まだ小学生くらいじゃない?」
「……あっ! ……あのっ」
ようやく出たのは、声変わりしたばかりの、自分でもまだ聞き慣れていない声。そこまでを言い、優はその場から全力疾走で逃げ出した。
壮年男性用から自分の姿を覆い隠してくれるコインランドリーの裏手に回り込み、口から飛び出しかねないほどの激しい動悸に包まれた心臓を落ち着かせるべく、優は深呼吸を何度となく繰り返す。
握りしめたチラシに塗られたインクは汗で滲んでいた。
数分をかけて呼吸を整えたころには優の背中を冷たい汗の筋が通っていた。
手はもう大丈夫だが、両膝の震えはまだ止まらない。滲んで読みづらくなったチラシを丸めて青色ジーンズのポケットに突っ込み、優はウエストポーチに収められた残り四十九枚のチラシを一瞥。
猛吹雪を耐える動物のように背中を丸めて考える。
やっぱり、お父さんの言葉はいい加減だったんだ。チラシを受け取った人は迷惑に決まっているし、投函しても読まれない可能性のほうが高いし。チラシ自体は僕が言い出したことだけど。
テキトーでチャランポラン。でも、時々可愛いヒト。
三年前の春に膵臓ガンで亡くなった優の母親による父親の評。優は“チャランポラン”の意味を正確に把握していなかったが、それでも良い意味を持たない表現であることはわかる。
優の両親である後藤秀一と鈴木昭美は中学からの大恋愛の末に結ばれた。長年連れ添っていた母親からそう断言される父親の性格を鑑みると、チラシ以上の助力は期待できそうにもなかった。
「はあ……」
いっぽうの優はと言うと。自分がものすごく情けない性格であり、一般的に見ても“意気地なし”であることを痛いほどに理解していた。
四年生の時に催された林間学校の班決めの時も、一年半前の合唱コンクールも。ついこの前の卒業式の登壇もそう。
人前に出る恐怖と緊張感で上手く立ち回れなかったせいで、周りの人に迷惑をかけたエピソードは枚挙に暇がない。
……今日はもう家に帰ろう。ため息を吐いて踵を返し、体を夕日に向けた優だったが、その足がピタリと止まる。
「……ミケ」
髪型と同じように父親の趣味で決めたスポーツブランドもののスニーカーを見つめ、優は愛猫の名を呼ぶ。
引っ込み思案で、極度の怖がり。対人恐怖症と表現しても差し支えない性格の優には、当然と言うべきか、友達と呼べる存在が欠けている。
小学六年時のクラスメイトから陰で「人形」と呼ばれていたことは本人も認識していたが、だからといって内外に向けて何かの行動を起こす勇気もない。
ただひたすらに図書館で借りてきた本を読むだけの学校生活。時々、こんな自分にも優しかった母親を思い出してはさめざめと泣いてしまう。
それでも、母親の死をきっかけに転校した大谷町第三小学校での日々は、前の学校での無視という名の苛めと比較すれば決して辛いものではなかった。
そんな優は小説家になる夢を抱いている。サラリーマンなどの一般的な職業と比較した場合、小説家は自分一人で完遂できる仕事の割合が高い。だから、小説家になりたいと思うようになっていた。
自宅でも本と共に孤独な時間を長く過ごす優だが、優がどれだけ無口であろうとも、構わなくても、ミケだけはいつも傍にいてくれる。これは当然だが、人形などと呼ぶことも絶対にない。
見送りと出迎え、お風呂から時には大きなほうのトイレに至るまで、ミケはなにも言わずに優の傍で寝ていた。
喉を触れば心地よい振動が伝わる。
人間と動物の間に友情が成立するかどうか。これは誰にも立証できないテーマだが、少なくとも優に関しては二年前に家族の仲間入りをしたミケへの友情を強く感じている。
もういちど、優は口の開いたウエストポーチから覗くチラシを見る。知っている場所も、知らない場所も、何日も歩いたけど、ミケは見つからなかった。
どこにいってしまったんだろう。誰かに保護されたのかな。ーーそれとも。
「保健所」
呟き、優はコインランドリーの店内に掛けられたLLサイズのピザに近い大きさの時計で時間を確認。十七時二十分。 もう保健所は閉まっている時間だった。
どうしてもっと早くに思いつかなかったんだろうか。その理由を考えたとき、優の脳裏に幼少期を共に長く過ごしたシベリアンハスキーの姿が浮かぶ。
そうだ、僕は思い出したくないから無意識に避けていたんだ。理解のある誰かに引き取られたと聞いたけどーー無意識に触れた優の左耳たぶは、あの頃と変わらずに少し欠けていた。
小さい頃から何一つ変わっていない自分の情けなさに、優の心はより深くへ沈んでいってしまう。
コインランドリーの利用を終えた客がうつむく優を怪訝な顔で一瞥するが、声はかけずに立ち去っていく。
優はやがて諦めたような顔で決心、嘘のようなオレンジ色に包まれた国道十八号線からひとつ脇道に逸れた通りを頼りない足どりで歩き出した。