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一人百物語

柏手

作者: 犬猫夜行
掲載日:2026/07/18


某電鉄会社の整備士をしていた私の弟の先輩に、岩田さんという人がいた。

岩田さんは社員のうちでも最古参の年配者で、後輩にとっては頼りになる“オヤジ”だったが、スジが通らないとなると相手が会社の偉いさんであってもズケズケとものをいう人だった。

口の横っちょにタバコをくわえ、とぼけた、しかし目は全く笑っていない手強い表情で、頑として最後までゆずる事はなかった。


ある日の定時も過ぎてあたりが暗くなった頃、弟が広い車庫敷地内を歩いていると、車庫のひとつの前に人影があった。

庫内には明かりも点いておらず、もう作業はしていない。

何だろうと見ていると、人影は車庫の中に入って行った。

「おい、誰かいるのか?」

と弟は声をかけながら、真っ暗な車庫の中を覗いた。

庫内には人の気配がする様に思えた。

オークション等で鉄道マニアに高値で売り付けようと、車両の部品や付属品を盗みに入る者がたまにいる。

弟はそういった輩かと思った。

「おい!」

車庫の暗闇に向かって、再び呼びかけた。すると

「どした?」

と後ろで声がした。

見れば、そこには岩田さんがいた。

「ああ、お疲れ様です。いや、こっちの車庫に誰かが入って行ったみたいで」

弟は庫内を指さした。

「また“電車もの”を盗みに来たのかと思って。事務所に連絡しますか?」

「いや、そこはいいよ」

その弟に岩田さんは言った。

「そこはいい。そこに入ってる車両な。事故車両だよ。ほら、昨日夕方入って来てただろ。……飛び込みだって」

岩田さんは入庫している車両のひとつを指さした。

「他の班がとりあえず洗浄だけしたらしいけど。でもまだちょっとにおいがするだろ」

そう言われて弟はにおいを嗅いだ。

言われてみれば、あたりの空気には何やら生臭いにおいが漂っていた。

それは人身事故を起こした車両にいつもまとわりついているにおいだった。

「ちょっとこっち来な」

岩田さんは弟に手招きすると、自分の横に立たせた。

そして庫内をじいっと見つめると、岩田さんは一度両腕を左右に大きくひろげてから


ぱぁぁん


と柏手をうった。

すると。


ずわぁぁっ


と二人の前の空気が裂けた気配を感じた。

まるで昔の名作映画の某シーンの様に、海ではなく目の前の空気が。

弟が見ているなかで、岩田さんは間をおいて三度手を打ち鳴らした。

暗がりの中を柏手の音がびぃぃん、と響き、そのたびに岩田さんの正面から車庫の中まで空気が裂けて、事故車両の周りの空気を切り裂いている様に見えた。

「これでいいかな」

岩田さんはうんうんと一人で頷いた。

自分の目の前で起った事が、ただそう見えたと思っているだけなのか、それとも本当にそうなっていたのかわからず、弟はただ驚くばかりだった。

「い、今の…?」

「うん」

岩田さんは笑った。

「気配、消えたろ?案外効くんだ」

言われてみれば、車庫の中でした何者かの気配は消えていた。

「お前も今度やってみな。気合い入れないと駄目だけど。俺も先輩に教えてもらったんだ。こういうのはただの儀式とかまじないじゃなくて、効く時は効くんだ」


以後、事故車両の周りにおかしな気配があると、弟は柏手をうつようになった。

が、岩田さんの様な絶大な効果は無いようだった。

“力のある柏手”をうつには何かやり方かコツがあるんですか、と聞くと、岩田さんはそんなものは無い、と笑っていた。

ただ、気合いを入れないと負けちまうんだ、と言っていた。

効果の程は年季によるものなのか、個人の持っている何かの力の影響によるものなのか。

いまだわからない。


しかし岩田さんはもういない。

生まれて来るのを楽しみにしていた初孫に会いに行く途中、自動車事故で亡くなった。

が、皆は言うのだった。

あの岩田さんの事、どうして自分がそんな最後を迎えなければならなかったのか、今頃あちらの世界で閻魔様と対峙しているのかも、と。

あの、口の横っちょにタバコをくわえ、とぼけた、しかし目は全く笑っていない手強い表情で。






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