臨界のアルゴリズムと、崩落のトリガー
蓮の部屋の遮光カーテンの隙間から、容赦のない朝の光が差し込んでいた。
目覚めると同時に、胸元と心臓の真上にじくじくと残る、昨日の「深夜の調律」の痕が激しい痛みを訴えかけてくる。制服のブラウスに腕を通すだけで、生地の摩擦が傷口を刺激し、脳の奥へとダイレクトに蓮の排熱が送り込まれてくる感覚。
手首、首筋、鎖骨、そして胸元。
私の身体はもう、外の人間には決して見せられない不穏な赤紫色のログ(傷痕)で埋め尽くされようとしていた。
「……柚留」
背後から、まだ少し眠気の残る、けれどひどく甘く歪んだ声が私を呼んだ。
振り返ると、ベッドの中から蓮がその翡翠色の瞳を細めて私をじっと見つめていた。彼の黒髪は乱れ、鎖骨の辺りには、私が昨日の熱狂の中で無意識に爪を立てた赤い線が何本も走っている。
「蓮……もう行かないと。朝の風紀委員の見回り、遅れちゃうよ」
「そんなものはどうでもいい。……橘や神条が、またお前に近づくかもしれないと思うだけで、僕は頭が狂いそうになるんだ」
蓮はベッドから起き上がると、音もなく私に近づき、背後から私の腰を強く抱きすくめた。彼の高い体温が、制服越しに私の背中へと伝わってくる。
「いい? 柚留。今日は絶対に僕の視界から外れるな。僕の許可なく、他の男と一言も話すな。お前のその声も、その視線も、すべて僕だけのものだ」
「うん……分かってるよ、蓮。私は蓮のドールだから……」
私はいつものように、彼の偏執的な支配を受け入れる。
その歪んだ言葉に、私のシステムは最も深い安心を覚えるのだ。
しかし、学校の校門を潜った瞬間、私たちの構築した完璧な防壁を根底から揺るがす、最悪の不和音が待ち受けていた。
「——ちょっと、一之瀬くん。生徒会室まで来てもらおうか。風紀委員長による、一般生徒への暴力行為、およびハラスメントの疑いがある」
一限目の授業が始まる直前、朝の喧騒に包まれた廊下。
私たちの行く手を阻むように現れたのは、生徒会長の神条 律先輩と、その後ろに控える複数の生徒会役員たちだった。神条先輩の銀縁眼鏡が、廊下の蛍光灯を浴びて冷酷に光っている。
「……何の、ことでしょうか」
蓮の声から、一瞬にして温度が消えた。
彼は私を自分の背後に隠すように一歩前に出たが、その右手は、昨日神条先輩の胸ぐらを掴んだ時の傷がまだ癒えておらず、白い包帯からじわりと血が滲み始めていた。
「しらばっくれるな。昨日、君が生徒会室で僕に対して行った暴力行為、および書類の破損。すべて防犯カメラのログ(記録)と、僕の胸元に残る君の指の痕が証明している」
神条先輩は冷酷に口元を歪め、ポケットから一枚のプリントを取り出した。そこには、昨日蓮が私を連れ去る際、全校生徒の前で私の手首を強引に掴んで引きずり回している瞬間の写真が、鮮明に印刷されていた。
「風紀を司る人間が、校内で最も野蛮な行為を働いている。これは重大な規定違反だ。一之瀬くん、君には今日から一週間の『自宅謹慎』と、風紀委員長の『役職停止』を言い渡す」
「っ……!!」
周囲の生徒たちから、どよめきが沸き起こる。
「一之瀬くんが?」「椎名さんに乱暴してたの……?」という、無機質なノイズが廊下を埋め尽くしていく。
「蓮は……蓮は悪くありません! 私が、私が勝手に……っ!」
私が思わず声を上げた瞬間、神条先輩は私の言葉を冷酷に遮った。
「椎名さん、君が彼を庇う必要はない。君は彼に脅されているんだろう? 君のその襟元……昨日僕が見た『傷』が、何よりの証拠だ。生徒会は、君をあの異常者から完全に『隔離』し、保護する」
「神条……っ!!」
蓮が激昂し、神条先輩に向かって拳を突き出そうとしたその瞬間。
「そこまでにしな、一之瀬」
後ろから、サッカー部の橘 蒼汰が、複数の体育部員を引き連れて蓮の両腕を背後から強引に組み伏せた。
「放せ……っ! 放せ、橘……っ!!」
蓮は狂ったように暴れたが、数人の体育部員による物理的な拘束を崩すことはできない。彼の翡翠色の瞳は、完全に理性を失った漆黒へと染まり、全身から狂暴なアドレナリンが陽炎のように立ち上っている。
「一之瀬、お前はもう終わりだ。椎名さんは、俺たちが守るからよ」
橘は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、蓮を廊下の壁へと押し付けた。
「柚留……! 柚留ーーっ!!」
蓮の、引き裂かれるような絶叫が廊下に響き渡る。
私は生徒会役員たちに両脇を抱えられ、蓮から無理やり引き離されていく。遠ざかっていく蓮の姿を見つめながら、私の心の中の防壁が、音を立てて完全に崩壊していくのを感じていた。
蓮のいない世界なんて、私にとっては呼吸の仕方も分からない、ただの冷たい暗闇でしかないのに。
放課後、新校舎の最上階にある、完全に隔離された「特別生徒会室」。
冷房が異常なほどに効いたその部屋で、私は一人、豪華な応接用ソファに座らされていた。
窓の外は、燃えるような夕日が学校全体を血の色へと染め上げている。
「ガチャリ」とドアが開き、銀縁眼鏡を光らせた神条先輩が、二つの紅茶のカップを持って入ってきた。
「気分はどうだい、椎名さん。あの異常な幼馴染から解放されて、少しはシステムが正常に戻ったかな?」
先輩は私の対面に座ると、優雅に紅茶を啜った。
「一之瀬蓮の君に対する執着は、もはや愛ではない。ただのバグ(精神病)だ。君という完璧な女神を、自分の部屋の暗闇に閉じ込めておきたいだけの、哀れな捕食者さ。……だが安心していい。これからは、僕が君をこの生徒会室で、最も合理的で、最も美しい形で『管理』してあげる」
「……私は」
私は俯いたまま、制服の長袖の奥で、蓮に噛まれた手首の傷を自傷するように強く、強く爪で掻きむしった。皮膚が破れ、赤い血がじわりと滲み出す。その痛みだけが、私が蓮のドールであるという唯一の証明だった。
「私は、蓮のいない世界なんて、いらない……」
「頑なだね。けれど、そのバグもすぐに修正されるさ。一之瀬くんはもう、君に近づくことすらできないのだから」
神条先輩が立ち上がり、私の顎を指先で乱暴に持ち上げようとした、その時だった。
「——誰が、近づけないって?」
ピリピリとした、鼓膜を突き破るような電子アラートの音が、校舎全体に響き渡った。
非常ベルのけたたましい不和音とともに、特別生徒会室の電子ロックが、内側から強制的に解除される。
重い鉄扉が「ドカン!」と内側へ蹴り開けられ、そこに立っていたのは、制服を血と汗で泥泥に汚し、前髪を完全に乱した、一之瀬蓮だった。
「一之瀬……!? 君は自宅謹慎のはず……っ!」
神条先輩の眼鏡の奥の瞳が、初めて本気の驚愕と恐怖で歪む。
「謹慎? そんなくだらないルールが、僕を止める防壁になるとでも思ったんですか、生徒会長」
蓮の翡翠色の瞳は、完全に理性を焼き切った「純黒」に染まっていた。彼の右手からは、橘たちとの乱闘で裂けたのか、生々しい血がポタポタと床の絨毯に滴り落ち、不気味な黒いシミを作っていく。彼は一歩ごとに、床を血で汚しながら、真っ直ぐに神条先輩へと近づいていった。
「警備員を……っ!」
神条先輩がインターホンへ手を伸ばそうとした瞬間、蓮は先輩の右腕を真横から強引に掴み取り、そのまま大型の木製デスクへと叩きつけた。
「ガシャン!!!」「っ……あぁっ!?」
デスクの上のパソコンや書類、紅茶のカップが凄まじい音を立てて床へ散らばり、神条先輩の身体がデスクの上に組み伏せられる。蓮は血の滴る右手で、先輩の首ぐらを骨が軋むほどの力で締め上げた。
「先輩。あなたがどれだけ優秀な管理者だろうと、僕の柚留をハッキングすることは絶対にできない。……次、彼女の肌にその汚い視線を向けたら、この学校の全システムごと、あなたを完全に消去してやる」
「……っ、狂って、いる……」
神条先輩は顔を青白くさせながらも、必死に蓮の腕を振り払おうとする。
蓮は先輩をゴミのように床へ突き放すと、私の手首を掴み、今度こそ誰の手も届かない、学校の最奥にある「旧館・天文台の密室」へと私を強引に引きずり込んだ。
「ガチャン!」「カチャリ」
重い鉄扉が閉められ、トリプルロックの鍵が掛けられる。
天窓から差し込む、血のように赤い夕日だけが、蓮の乱れた黒髪と、その濁りきった瞳を妖しく照らし出していた。逃げ場のない、完全な二人の密室。
「柚留……、柚留、柚留……っ!!」
蓮は私の言葉を聞く前に、私の身体を天体望遠鏡の横にある、古い革製のソファへと激しく押し倒した。
「ドン!」と鈍い衝撃が私の背中に走り、蓮の重い、そして狂暴なほどの熱を持った身体が私の上に覆いかぶさる。
「蓮……っ、手が、血が凄いよ……っ!」
「うるさい! お前が、あの男の部屋にいた……あいつの洗剤の匂いが、お前の制服に移っている……っ! 汚い、汚すぎる……! 全て僕の熱で、僕の血で、書き換えなければいけないのに……っ!!」
蓮の呼吸は完全に熱暴走を起こしており、彼の指先が私の制服のブラウスの襟元へと伸び、残っていた全てのボタンを乱暴に引き千切った。
ブチブチと音を立てて布地が裂け、灼熱の空気の中に、私の白い肌と、これまでに彼が刻みつけてきた全ての赤紫色のログが、生々しく曝け出された。
「蓮、待って……あ、っ……!!」
蓮は私の叫びを自分の唇で強引に塞いだ。
「ん、んん……っ! む……っ」
深く、激しく、互いの舌が絡み合い、呼吸の主導権を完全に奪われる。彼の口内からは、激しい怒りのせいで噛み切った血の味がした。掴まれた両手首からは、彼の右手から溢れ出た赤い血が私の肌へと移り、ドロドロとした熱い液体が腕を伝ってソファへと染み込んでいく。
蓮は唇を離すと、激しい息を吐きながら、私の胸元、昨日よりもさらに深い、心臓の真上の一番柔らかい皮膚へと、飢えた獣のようにその鋭い犬歯を深く、深く突き立てた。
「あ、ああっ……! 嗚呼……っ!!」
天文台の冷たい床に響き渡る、私の小さな悲鳴。
けれど、その痛みの向こう側から、頭が真っ白になるほどの甘い、ドロドロとした快感が溢れ出し、私の理性を完全に破壊していく。蓮の引き締まった身体が、私の身体を完全に固定し、彼の手が私の制服のスカートを強引に捲り上げ、細い太ももの肉を、指の形が残るほどの力で強く、強く掐りあげた。
「痛がれ、柚留。その痛みが、お前が僕の所有物であることの証明だ。他の誰にも、お前のこの熱を見せさせない……」
蓮は噛みついたまま、私の肌にじわりと滲み出た血と汗を、愛おしそうに何度も何度も舌先で舐めとった。彼の熱い舌が傷口に触れるたび、私の身体は小さく跳ね、口から「あ、んっ……蓮、蓮ぇ……」という、女神の仮面を完全に剥ぎ取られた、淫らで、哀れな悲鳴が漏れ続ける。
外からは、まだ非常ベルのけたたましい音が遠くで鳴り響いている。
学校中が私たちのバグ(暴走)によって大混乱に陥っているというのに、この最果ての天文台の中だけは、世界で一番不条理で、一番濃密な、二人だけの絶対的な拘束の空間だった。
「……もう、誰にも見せない。誰にも触れさせない。明日から、お前を僕の部屋の地下に閉じ込めて、僕のコードだけで完全に上書きしてあげる」
蓮は私の耳元でそう囁くと、手首の、視線の、そして首筋の傷跡をなぞるように、何度も、何度も、排熱を焼き付けるようなキスと標記を繰り返した。
痛みの向こう側で、私はこの少年の狂気に完全に調律されていくのを感じていた。
全校生徒が憧れる「高嶺の花」は、この暗闇の中で、一人の少年のためだけに、甘い蜜を滴らせて完全に飼い慣らされていく。
「うん……いいよ、蓮……。私を、あんたの部屋に、ずっと……閉じ込めて……」
夕闇が完全に天文台を支配し、赤から黒へと世界が書き換えられていく中で。
私たちは、誰にも言えない白日の下のアラートをやり過ごし、深夜よりもなお深い、二度と引き返せない越境の底へと、互いのすべてをログインさせ続けていた。
二人の狂った同期は、もう、誰にも止めることはできない。




