不滅のビーコン、あるいは黎明のリブート
ザザーン、と遠くで波がコンクリートを洗う音が、夜明け前の冷たい霧の中に響いていた。
鉄錆の匂いが立ち込める廃信號塔の最上階。
割れたガラス窓から滑り込んでくる風は、一年前の地下變電室の熱を完全に冷ますほどに冷たかった。蓮は血の滲む手で、塔の内部に放置されていた旧式の船舶用無線端末と、持ち出してきたポータブルサーバーを太い有線ケーブルで力任せに繋ぎ合わせた。
「——ここが、僕たちの最後の発信所だ」
モニターの淡い緑色の光が、蓮の乱れた黒髪と、鋭く尖った翡翠色の瞳を美しく、そして妖しく照らし出す。一年の隔離、そして二度の暴走を経て、彼の執念はもはや世界そのものをハッキングする領域に達していた。
「蓮……外のノイズ、もう止まったよ。世界が、すごく静か……」
私は蓮の風紀委員の制服を羽織り、冷え切った指先で自分の胸元をそっと押さえた。
セーラー服の下、心臓の真上にあるあの赤紫色の「標記」は、もう激しく脈打つこともなく、ただ私の体温の一部として、皮膚の奥深くに静かに馴染んでいた。大人の作った「完璧な日常」はもうどこにもない。ここにあるのは、ただ呼吸を重ねる私と蓮、二人だけの現実だけだった。
「当たり前だ。地上(世界)の追跡網は、僕たちの放ったウイルスで完全に処理されたからね。……さあ、柚留。最後の調律の時間だ」
蓮はキーボードを叩く手を止め、ゆっくりと私に向き直った。その瞳には、一ミリの揺らぎもない、純黒の愛執が渦巻いていた。
「お前というシステムを、この世界の誰にも解読できない暗號で、永遠にロックしてあげる」
蓮の沙啞れた声が、風の吹き抜ける信號塔の空間に木霊した。
彼は私の身体を、埃を被った無線コントロールデスクの上へと強引に押し倒した。ドン! と古い鉄製のデスクが鈍い音を立てて軋み、彼の引き締まった身体が、逃げ場のない空間の中で私を完全にホールドする。
「蓮……もう大人は来ないよ。そんなに急いで上書き(ハック)しなくても、私は逃げない……」
「逃がさない! お前を僕の檻から一歩だって出すわけにいかないんだ……っ! あの神条や大人たちが、またお前を『高嶺の花』という抜け殻に戻そうとするかもしれない……っ。それが、狂おしいほどに恐ろしい……っ! お前の皮膚の、魂のすべてを、僕の熱で完全に満たし尽くしてやる……っ!!」
蓮の呼吸は完全に限界を迎えていた。彼は私の着用していた制服の襟元を、血まみれの右手で再び乱暴に引き千切った。
ブチブチと布地が裂け、窓から差し込む青白い夜明けの光の中に、私の白い肌と、じくじくと熱を放つあの心臓の真上の傷痕が、生々しく全て曝け出される。
「蓮、あ、っ……!!」
蓮は私の叫びを自分の唇で強引に塞いだ。
「ん、んん……っ! む……っ」
深く、激しく、一年の空白とこれまでの逃亡のすべてをぶつけるような、狂おしい口づけ。
呼吸の主導権を完全に奪われ、絡み合う舌からは、濃厚な鉄の味がこれでもかと広がっていく。掴まれた両手首からは、彼の傷口から溢れ出た赤い血が私の肌へと移り、ドロドロとした熱い液体が腕を伝って鉄のデスクへと染み込んでいく。
蓮は唇を離すと、激しい息を吐きながら、私の胸元、最も柔らかい皮膚へと、飢えた獣のようにその鋭い犬歯を深く、深く、骨に届くほどの力で突き立てた。
「あ、ああっ……! 嗚呼……っ!!」
古い信號塔の壁に響き渡る、私の小さな悲鳴。
けれど、その強烈な痛みの向向こう側から、頭の中をドロドロに溶かすような甘い快感が溢れ出し、私の理性を完全に破壊していく。蓮の身体が私の身体をデスクにめり込ませるように強く圧迫し、彼の手が私のドレスの裾を強引に引き裂き、細い太ももの肉を、指の形が残るほどの力で強く、強く掴みあげた。
「痛がれ、柚留。その痛みが、お前が僕だけのドールであることの、消えない最終ログだ。世界がどれだけアップデートされようと、この傷痕の暗号は誰にも解読できない……」
蓮は噛みついたまま、私の肌にじわりと滲み出た血と汗を、愛おしそうに何度も何度も舌先で貪るように舐めとった。
彼の熱い舌が傷口に触れるたび、私の身体は小さく跳ね、口から「あ、んっ……蓮、蓮ぇ……」という、哀れな悲鳴が漏れ続ける。
地上では、神条たちが必死に私たちの手がかりを捜索しているかもしれない。
それなのに、この薄暗くて、熱気が抜けない信號塔の最上階だけは、世界で一番不條理で、一番濃密な、二人だけの絶対的な拘束空間だった。
蓮は何度も、何度も、私の首筋や胸元に、新しい排熱を焼き付けるようなキスと標記を繰り返した。
「うん……いいよ、蓮……。私を、あんたのコードで、全部めちゃくちゃにして……っ」
水平線から昇る太陽の赤い光が二人の影を大きく床に歪ませる中で。
私たちは、誰にも言えない白日の下のアラートをやり過ごし、二度と引き返せない越境の底へと、互いのすべてをログインさせ続けていた。
水平線から、真っ赤な太陽がゆっくりと姿を現した。
信號塔のモニターには、街全体の追跡システムが完全に沈黙したことを示す、美しいグリーンのステータスが表示されている。
【 SYSTEM_STATUS : SHUTDOWN_SUCCESSFUL. 】
【 NO_TRACKING_LOG_FOUND. 】
「——終わったよ、柚留。僕たちの勝ちだ」
蓮は私を後ろから抱きしめ、私の首筋の傷痕に優しく口づけを落とした。
彼の翡翠色の瞳は、かつてのような暴走のトゲを失い、どこまでも深く、穏やかな「純黒」の愛へと調律されていた。
「うん……。もう、誰も私たちを見つけられないね」
蓮がコンソールのエンターキーを静かに叩くと、信號塔の巨大なアンテナから、街へ向けて最後のダミーデータが送信された。それは、椎名柚留と一之瀬蓮という二人の人間が、この世界から「完全に消滅した」という偽りのログ。
大人の作った社会、神条の包囲網、そして翠鳳高校という名のシステム。
そのすべてを置き去りにして、私たちは名実ともに世界からログアウトした。これからは、誰も知らない場所で、誰も解読できない二人の暗号だけを重ね合わせて生きていく。
朝日に照らされた海は、どこまでも青く、静かだった。
私たちは互いの手を、離れないように、二度とほどけないように深くロックし合いながら、新しい黎明のなかへと歩き出した。
二人の狂った連鎖は、もう、誰にも止めることはできない。
——永続するバグのように、私たちの愛は、永遠にログインし続ける。




