妹が「寒い辺境も傷のある旦那様も嫌」と言うので身代わりで嫁ぎました。今さら代わってと言われても、もう遅いです
「寒い辺境なんて嫌よ。傷のある方と暮らすなんて、わたくしには無理」
妹のセリーナは、泣きそうな顔ではなく、怒った顔でそう言った。
ロウエル伯爵家の応接室。
父と母が向かいの長椅子に座り、私はその隣で膝の上に手を重ねていた。
テーブルの上には、北のノルヴァルト辺境伯家から届いた婚姻書類が置かれている。
もともと、花嫁候補は妹のセリーナだった。
王都でも評判の美貌を持つ妹と、王国北境を守る若き辺境伯グレイ・ノルヴァルト様。
家格の釣り合いも悪くなく、父はその縁談をずいぶん誇らしげに受けていた。
けれど、妹は婚姻書類に署名する直前になって拒んだ。
「北境は、一年の半分が雪なのでしょう?」
「そう聞いている」
父が苦い顔で答える。
「しかも、グレイ様は戦で頬に傷を負われたとか。わたくし、そんな怖い方の妻になんてなれませんわ」
「セリーナ」
母がたしなめるように名を呼んだ。
けれどその声は弱い。
本気で叱るつもりはないのだろう。
「わたくしには無理です。ミリアお姉様なら、きっと我慢できますわ」
その瞬間、部屋の視線が私へ向いた。
父。
母。
妹。
三人とも、ほとんど同じ目をしていた。
お前なら我慢できるだろう。
お前なら文句を言わないだろう。
お前なら、家のために受け入れるだろう。
私は、その目に見覚えがあった。
妹が舞踏会用のドレスを破いた時も。
母が急な茶会を入れた時も。
父が親戚の子どもを一月だけ預かると言い出した時も。
最後に回ってくるのは、いつも私だった。
「ミリア」
父が低く言う。
「この縁談を、家として断るわけにはいかない」
「はい」
「ノルヴァルト辺境伯家は王国北境の要だ。失礼があってはならない」
「はい」
「幸い、正式な婚姻書への署名はまだだ。花嫁候補変更届を王都婚姻局へ提出すれば、手続き上の問題はない」
父はそこで、少しだけ声を和らげた。
「お前が行ってくれないか」
お願いの形をしていた。
けれど、それが命令に近いことを、私はよく知っていた。
「お父様」
私は静かに訊いた。
「私が嫁ぐのであれば、正式な花嫁として、でしょうか」
「もちろんだ」
「妹の代わりに、仮に置かれるわけではなく」
「当然だ。婚姻書にはお前の名を記す」
「王都婚姻局への変更届にも」
「お前の名を記す」
父は少し苛立ったように答えた。
「そこを疑う必要があるのか」
「あります」
私は即答した。
父の眉が寄る。
母は不安げに扇を握り、セリーナは不満そうに唇を尖らせた。
「身代わりと正式な妻は違います」
私は言った。
「私が嫁ぐのであれば、私は最初からノルヴァルト辺境伯夫人です。セリーナが後から気を変えたとしても、交代はできません」
「そんなこと、誰も考えておらん」
「今は、そうでしょう」
私がそう返すと、部屋が少し静かになった。
こういう確認をすると、私はいつも冷たいと言われる。
可愛げがないとも。
けれど、可愛げで婚姻書類は守れない。
だから確認するしかなかった。
「では、お受けします」
私はテーブルの上の書類へ視線を落とした。
「ロウエル伯爵家の長女ミリアとして、ノルヴァルト辺境伯グレイ様へ嫁ぎます」
セリーナが、ほっとしたように息を吐いた。
その息の軽さに、胸の奥が少しだけ冷えた。
妹にとって、私の人生は本当に軽いものなのだと思う。
寒い辺境。
傷のある夫。
不安な結婚。
それらは、姉なら持っていける荷物なのだろう。
「お姉様なら大丈夫ですわ」
セリーナは明るく言った。
「昔から、我慢するのがお得意ですもの」
「ええ」
私は微笑んだ。
「でも、我慢できることと、いつまでも我慢することは違うわ」
セリーナは意味が分からない顔をした。
父も、母も、聞かなかったことにした。
それでよかった。
この家に、私の言葉を最後まで聞く人はもともといなかった。
北へ向かう馬車の中で、私は初めて本当に寒さを知った。
王都の冬も冷える。
けれど、北境の冷え方は違った。
窓の隙間から入る風が、ただ肌を撫でるのではなく、骨へ直接触れてくるようだった。
侍女として同行してくれたのは、実家の古参ではなく、ノルヴァルト家から迎えに来た女性だった。
名をリサという。
短く切った栗色の髪に、日に焼けた頬。
王都の侍女のような優雅さはないが、手つきは確かだった。
「奥様、その外套では城門までに凍えます」
「奥様?」
「婚姻書はもう受理されております」
リサは当然のように言った。
「我々にとって、あなたはノルヴァルト辺境伯夫人です」
「……そう」
私は少しだけ目を伏せた。
実家では、最後まで「ミリア」だった。
家の都合で北へ送られる娘。
妹の代わりに寒い場所へ行く姉。
けれど、ノルヴァルト家の侍女は、最初から私を夫人と呼んだ。
それだけで、少しだけ息がしやすくなるのは不思議だった。
リサは私の薄い外套を見て、小さくため息をついた。
「王都の外套は見た目が綺麗ですね」
「寒さには向かない?」
「はい。飾るにはよいと思います」
あまりにも率直で、私は思わず笑ってしまった。
「では、何を着ればよいの?」
「まず、こちらを」
リサが差し出したのは、厚い毛織の肩掛けだった。
色は灰色。
刺繍も宝石飾りもない。
けれど、肩へかけた瞬間、身体がふっと温まった。
「軽いのに、温かいわ」
「ノルヴァルトの白銀羊の毛です。見た目は地味ですが、風を通しません」
「素敵ね」
「地味ではなく?」
「役に立つものは、たいてい素敵よ」
リサは少しだけ目を瞬いた。
それから、ほんのわずかに笑った。
「奥様は、王都の方にしては変わっていらっしゃいますね」
「たぶん、王都でもそう言われていたわ」
私は窓の外を見た。
白い雪原がどこまでも続いている。
王都の庭園のように整えられた美しさではない。
冷たい。
広い。
厳しい。
けれど、嘘がなかった。
私はその景色を、少しだけ美しいと思った。
ノルヴァルト城は、華やかな城ではなかった。
黒い石で造られた低く広い城で、塔は高すぎず、壁は厚い。
雪と風を受け止めるための城なのだと、一目で分かる。
門をくぐると、兵たちが整列していた。
派手な歓迎ではない。
けれど全員が背筋を伸ばし、私が馬車から降りるまで、誰一人として目を逸らさなかった。
その中央に、グレイ・ノルヴァルト辺境伯が立っていた。
背が高い。
黒髪。
灰色の目。
左頬から顎へかけて、古い傷跡が走っている。
たしかに、王都の令嬢が舞踏会で思い描くような甘い貴公子ではない。
けれど、怖いとは思わなかった。
傷より先に、彼の目が私を見ていたからだ。
品定めではなく。
哀れみでもなく。
寒さで震えていないかを確かめる目だった。
「ミリア・ロウエル嬢」
「はい」
「いや」
彼はすぐに言い直した。
「ミリア・ノルヴァルト夫人、と呼ぶべきだな」
「まだ、慣れません」
「私もだ」
意外な返事だった。
彼は表情をあまり動かさないまま、少しだけ手を差し出した。
「寒いだろう。まず中へ」
「ご挨拶は」
「凍えながらする挨拶に、よいものは少ない」
それは、ひどく実用的な言葉だった。
私はその手を取った。
手袋越しでも、彼の手が温かいのが分かった。
大広間には、大きな暖炉があった。
炎が赤々と燃え、壁には北の獣を描いた古い織物がかかっている。
使用人たちは一斉に礼をした。
その礼は堅苦しいが、嫌な緊張はなかった。
私が部屋の中央へ進むと、グレイ様が隣に立つ。
「みな、聞いてくれ」
彼の声は低く、よく通った。
「本日より、ミリアは正式なノルヴァルト辺境伯夫人だ。客ではない。預かりものでもない。私の妻として扱うように」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
客ではない。
預かりものでもない。
その言葉を、私は実家で一度も聞いたことがなかった。
使用人たちが、もう一度礼をする。
その中には年配の家政婦も、若い下働きも、兵もいた。
誰も、妹の代わりに来た女という目をしていなかった。
少なくとも、グレイ様の言葉がある限りは。
その夜。
私たちは夫婦として初めて向かい合った。
場所は寝室ではなく、小さな応接室だった。
暖炉の火が静かに燃えている。
テーブルには温かな薬草茶が置かれていた。
「ミリア」
グレイ様は、少し不器用に私の名を呼んだ。
「はい」
「君がこの婚姻を望んでいなかったことは、分かっている」
「……そう見えますか」
「少なくとも、妹君が拒んだ縁談を君が受けたとは聞いている」
私は小さく息を吐いた。
隠されてはいないらしい。
それなら、話が早かった。
「はい。妹が嫌がりました」
「傷のある夫と、寒い辺境が理由か」
「だいたい、その通りです」
「正直だな」
「嘘をついても、すぐ分かるかと思いまして」
グレイ様の口元が、わずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
「嫌なら、離縁の道を用意する」
「え?」
「この婚姻は正式なものだ。だが、君がこの地で暮らせないなら、王都へ戻る道は作る。名誉を傷つけずに済むよう、私の側の都合として整える」
私は言葉を失った。
そんなことを言われるとは思っていなかった。
「なぜですか」
「妻を迎えることと、人質を置くことは違う」
「私は、人質だったのでしょうか」
「少なくとも、君の家ではそう扱われていたように聞こえる」
静かな声だった。
同情ではない。
ただ、事実を見たうえでそう言っている声だった。
「だが」
彼は続けた。
「ここにいる間は、客ではなく妻として扱う。君にも、この家のことを知る権利がある。嫌なことは嫌と言っていい。分からないことは分からないと言っていい」
「私が、役に立たなくても?」
「役に立つために来たのではないだろう」
その言葉に、胸の奥が大きく揺れた。
私は役に立つために育てられた。
家で。
妹のために。
父と母のために。
誰かの穴を埋めるために。
だから、役に立つために来たのではないと言われると、どうしてよいか分からなくなる。
「……私は」
声が少しだけ震えた。
「何をすればよいのでしょう」
「まず眠れ」
「はい?」
「長旅で疲れている。北の冬は、疲れた身体では耐えにくい」
「それは、夫人としての最初の仕事ですか」
「そうだ」
グレイ様は真面目な顔で頷いた。
「自分を壊さないことも、夫人の務めだ」
私は、今度こそ少し笑ってしまった。
グレイ様は不思議そうに私を見る。
私は首を振る。
「いえ。正しいと思っただけです」
「なら、よかった」
「明日から、この家のことを教えてください」
「分かった」
「逃げるかどうかは、それから考えます」
「それでいい」
彼は静かに頷いた。
その返事が、ひどくありがたかった。
残れとも、愛せとも、妻らしくしろとも言われなかった。
ただ、考える時間を与えられた。
私にとって、それは初めての贈り物に近かった。
北の暮らしは、甘くなかった。
朝、窓の内側に氷の花が咲く。
廊下は暖炉の近く以外、驚くほど冷える。
洗った髪は完全に乾かしてから眠らないと、翌朝には頭痛で起き上がれなくなる。
王都から持ってきた絹の寝衣は、一晩で役立たずだと分かった。
リサは遠慮なく言った。
「奥様、それは寝衣というより飾りです」
「ええ。私も今、そう思ったわ」
「北の寝衣を用意します」
「お願い」
私は、自分が知らないことを笑われるのではないかと身構えていた。
けれど、ノルヴァルト家の人々は笑わなかった。
知らないなら教える。
寒いなら着せる。
滑るなら靴を替える。
ただそれだけだった。
それが、どれほど楽なことか、私は少しずつ知っていった。
家政婦のグレタは、厳しい女性だった。
白髪をきっちりまとめ、声は低く、無駄な愛想はない。
けれど、私が台所の保存棚を見たいと言うと、少しだけ目を細めただけで案内してくれた。
「王都の奥様は、こういうところを嫌がるかと思っておりました」
「私は、食べ物がどう冬を越すのか知りたいのです」
「食べ物が?」
「はい」
私は棚に並ぶ干し肉、乾燥茸、塩漬け野菜、蜂蜜漬けの小さな果実を見た。
「人が冬を越すのは、食べ物が冬を越すからでしょう?」
グレタは一瞬だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ頷く。
「その通りでございます」
「教えてくださいますか」
「覚える気がおありなら」
厳しい返事だった。
でも、拒絶ではなかった。
私は、北の保存食を覚えた。
塩を強くしすぎれば春に飽きる。
乾燥茸は炉の近くに置くと香りが飛ぶ。
豆は凍らせてはいけない。
干し林檎は子どもに人気があるが、熱のある子には甘すぎる。
どれも華やかな知識ではない。
けれど、人が生きるための知識だった。
次に覚えたのは、靴だった。
北では、靴が命を守る。
王都の舞踏靴とはまるで違う。
底の厚さ。
紐の締め方。
雪を払う場所。
濡れた靴を乾かす順番。
どれかを間違えると、足が冷えて歩けなくなる。
ある日、城下の小さな礼拝堂を訪れた時、私は子どもたちの足元を見た。
ほとんどの子は、厚い冬靴を履いている。
けれど、紐が緩い子が何人かいた。
小さな子どもには、硬い紐をきちんと結ぶのが難しいのだろう。
一人の男の子が、雪の上で転びかけた。
姉らしい少女が慌てて支える。
「リサ」
「はい」
「子ども用の靴紐は、もう少し掴みやすくできないかしら」
「太くしますか」
「太くすると乾きにくい?」
「はい」
「では、先だけ色糸で巻いたらどうかしら。指をかける場所が分かるように」
リサが少し考える。
「できると思います」
「家に余り糸はある?」
「あります。王都の飾り糸ほど綺麗ではありませんが」
「綺麗でなくてもいいわ。見つけやすければ」
その夜、私は余り糸で靴紐の先を巻いた。
赤。
青。
緑。
左右で同じ色にすれば、小さな子にも揃えやすい。
実家では、私の針仕事は地味だと言われていた。
セリーナのドレスを飾る刺繍には向かないと。
けれど、北の子どもの靴紐には役に立った。
数日後、礼拝堂の前で、あの男の子が自分で靴紐を結んでいた。
赤い糸の先をぎゅっと掴み、少し不格好に結ぶ。
転ばずに立ち上がる。
その顔が得意げで、私は胸の奥が温かくなった。
「奥様!」
彼は私を見つけると、靴を見せるように足を上げた。
「赤、結べた!」
「上手ね」
「転ばない!」
「それは何よりだわ」
隣で、グレイ様がじっと見ていた。
城へ戻る道で、彼は静かに言う。
「君は、よく見ているな」
「靴紐をですか」
「靴紐だけではない」
「実家では、細かいことばかり気にすると言われていました」
「北では、細かいことを気にしないと凍える」
私は彼を見た。
グレイ様はいつものように真面目な顔をしている。
けれど、言葉の奥に確かな評価があった。
「それは、褒め言葉でしょうか」
「もちろん」
「では、ありがとうございます」
私は少しだけ笑った。
北へ来てから、自分の地味さを恥じる時間が少しずつ減っている。
それが嬉しかった。
グレイ様から初めてもらった贈り物は、宝石ではなかった。
雪靴だった。
「これは?」
「君の靴だ」
「私の?」
「昨日、南の階段で滑りかけていた」
「見ていらしたのですか」
「見ていた」
彼は当然のように答えた。
「靴底が王都仕様だ。北の石には合わない」
差し出された靴は、黒い革に白銀羊の毛が内側へ張られたものだった。
縫い目は堅く、底には滑り止めの細工がある。
飾りは少ない。
けれど、丁寧に作られている。
「贈り物の順番として、靴はどうなのだろうか」
グレイ様が真面目に言う。
どうやら、そこは少し気にしていたらしい。
私は靴を抱え、首を振った。
「正しいと思います」
「本当に?」
「はい。指輪より先に、歩ける靴をくださる方なのだと思いました」
グレイ様は、少しだけ目を見開いた。
それから、頬の傷を歪めるようにして笑った。
初めて見る笑みだった。
怖くなかった。
むしろ、その傷ごと温かいと思った。
「そうか」
「はい」
「では、次は手袋にする」
「実用的ですね」
「北なので」
「好きです。そういうところ」
口にしてから、私は自分の言葉に少し驚いた。
グレイ様も、驚いたようだった。
二人でしばらく黙る。
暖炉の薪が、小さく弾けた。
「……手袋は、良いものを用意する」
彼が低く言う。
少しだけ耳が赤い。
私は目を伏せ、靴を抱えた。
「楽しみにしています」
その夜、私はもらった雪靴を寝台の横に置いた。
宝石箱ではなく、靴。
けれど、今まで受け取ったどんな飾りよりも、私には大切なものに見えた。
この人は、私がどこに立つかより、私が転ばずに歩けるかを見てくれる。
それはたぶん、愛という言葉より先に私が欲しかったものだった。
冬の終わり、ノルヴァルト領の毛織物が王都へ送られた。
白銀羊の厚い肩掛け。
子ども用の手袋。
靴紐の先に色糸を巻いた冬靴。
もともとは領内で使うための工夫だったが、王都の施療院や孤児院でも使えるのではないかと、グレイ様が王宮へ献上する品の中に加えたのだ。
「私の思いつきなど、王都へ出してよいのでしょうか」
「良いものは出す」
「でも、ただの靴紐です」
「ただの靴紐で転ばない子が増えるなら、出す価値がある」
グレイ様の判断はいつも単純だった。
単純だが、軽くはない。
人が温かいか。
歩けるか。
食べられるか。
生きられるか。
そこから目を逸らさない。
春の初め、王都から書状が届いた。
北境の冬支度品が王妃殿下の目に留まり、ノルヴァルト家へ感謝状が下されたという。
とくに子ども用の冬靴は、王都の救貧施設でも採用を検討したいと書かれていた。
グレイ様はその書状を読み、私へ差し出した。
「君の工夫だ」
「ノルヴァルトの職人たちが作ったものです」
「最初に見たのは君だ」
「でも、形にしたのは皆です」
「だから、皆を褒める」
彼は言った。
「そして、君も褒める」
「……慣れておりません」
「では、慣れるといい」
そんなやり取りをしていると、リサが横でこっそり笑っていた。
グレタでさえ、口元を少しだけ緩めていた。
私は恥ずかしくなって書状へ目を落とす。
胸の奥が、暖炉の火のように温かかった。
この家は、私に我慢だけを求めなかった。
知らないことを教えてくれた。
失敗しても笑わず、できたことは見てくれた。
そして、私が何かを差し出すと、それを誰かのために使ってくれた。
いつの間にか私は、北の寒さを嫌いではなくなっていた。
セリーナがノルヴァルト城へ来たのは、雪解け祭の前日だった。
馬車は王都仕様で、車輪は雪解けの泥に深く沈み、御者はひどく疲れた顔をしていた。
妹は薄い毛皮の外套をまとい、玄関広間へ入るなり震えた。
「寒いわ」
第一声がそれだった。
私は階段の上から妹を見下ろしていた。
隣にはグレイ様。
その下には、父と母もいる。
どうやら、三人揃って来たらしい。
「ようこそ、ノルヴァルトへ」
私がそう言うと、セリーナはぱっと顔を上げた。
一瞬、彼女の目が私の外套に留まる。
白銀羊の深い青の外套。
袖口には、北の職人が刺した銀糸の小さな雪花。
派手ではない。
けれど、王都ではまず見ないほど上質なものだった。
「お姉様……ずいぶん、立派な装いですのね」
「寒いから」
「そういう意味ではなく」
セリーナは不満そうに言った。
彼女の視線は、次にグレイ様へ向かった。
傷のある辺境伯。
寒い北の夫。
そう呼んで嫌がった相手を、妹は初めて正面から見た。
グレイ様は礼装姿だった。
黒い軍礼服に、銀の留め具。
頬の傷は隠していない。
けれど、その傷は彼を損なうものではなかった。
北境を守ってきた証のように、静かにそこにある。
セリーナの目が変わるのを、私は見た。
怖いものを見る目ではない。
惜しいものを見つけた目だった。
「グレイ様」
父が一歩進み出た。
「突然の訪問、失礼いたします」
「ロウエル伯爵。先触れは受け取っている」
「それならば話が早い」
父はほっとしたように言った。
「本日は、ミリアのことで参りました」
「ミリアの?」
「はい」
父は私を見た。
その目は、昔と同じだった。
お前なら分かるだろう。
お前なら受け入れるだろう。
そういう目。
「ミリアは、この厳しい北でよく務めました。家としても、姉の働きを誇りに思っております」
「そうですか」
「ですが、本来この縁談はセリーナに来たものです」
広間の空気が、少しだけ冷えた。
外よりも冷たい沈黙だった。
「お父様」
私は静かに言った。
「本来、とは何でしょう」
「候補の話だ」
「候補は候補です。署名したのは私です」
「もちろん、分かっている。だが、事情が変わったのだ」
父は少し焦ったように続けた。
「王都で、ノルヴァルト家の評判が非常に高まっている。王妃殿下からも感謝状が下された。北の毛織物も、今後は王都で大きく扱われるだろう」
「それで?」
「家として、より華やかな夫人が必要になるのではないかと」
セリーナがそこで一歩前へ出た。
「お姉様は、地味なことがお得意ですもの」
彼女は微笑んだ。
「北での冬支度や使用人たちのお世話は、本当に大変だったでしょう? でも、王都とのお付き合いが増えるなら、これからはわたくしの方が向いていると思うの」
「それで、どうするつもりなの」
「お姉様は十分頑張ったわ」
セリーナは、まるで褒めているかのように言った。
「ここからは、わたくしと代わってくださればいいの」
あまりにも予想通りで、私は驚かなかった。
寒い辺境は嫌。
傷のある夫は嫌。
そう言って私に押しつけた妹は、今度は価値が見えてから同じ席を欲しがっている。
「代わる、とは」
グレイ様の声が低く響いた。
セリーナは少しだけ頬を赤くする。
たぶん、彼に見られていると思ったのだろう。
「もちろん、形式上のことは整えていただく必要がありますけれど」
妹は言った。
「もともと、わたくしが花嫁候補だったのです。王都の社交も、わたくしの方が慣れていますし」
「形式上のこと、とは何だ」
「離縁と再婚ですわ」
セリーナは簡単に言った。
まるで、外套を掛け替えるような軽さだった。
「ミリアお姉様なら、分かってくださいます。昔から、家のために我慢してくださったもの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった何かが静かに切れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、もう十分だと思った。
「セリーナ」
私は階段を下りた。
一段ずつ。
ゆっくりと。
「あなたは、まだ私がここで我慢していると思っているの?」
「え?」
「寒い場所で、傷のある夫の隣で、家のために耐えているのだと」
「違うの?」
「違うわ」
私ははっきりと言った。
「ここは、私の家です」
セリーナの顔が固まる。
父も母も、驚いたように私を見る。
たぶん三人とも、私がそんな言い方をするとは思っていなかったのだろう。
「私は確かに、あなたの代わりに嫁ぎました」
私は続けた。
「でも、婚姻書に署名したのは私です。王都婚姻局に提出された花嫁変更届にも、私の名があります。ノルヴァルトの使用人たちが夫人と呼んだのも、私です」
「でも」
「あなたが嫌がった寒さの中で、私は暮らしました」
セリーナの唇が震える。
けれど私は止めなかった。
「雪靴の履き方を覚えました。保存食の扱いを教わりました。子どもたちの靴紐を見ました。城下の礼拝堂で、北の春を待つ人たちの顔を見ました」
「そんな地味なこと」
「ええ。あなたが嫌がった地味なことよ」
私は妹をまっすぐに見る。
「でも、その地味なことの上に、この家は立っているの」
セリーナは何も言えなかった。
父が代わりに口を開く。
「ミリア、感情的になるな」
「感情的なのは、お父様です」
「何?」
「今になってノルヴァルト家の価値を見て、娘を取り替えようとしている」
私は父を見る。
「それは交渉ではありません。侮辱です」
父の顔が赤くなった。
けれど、グレイ様が一歩前へ出たことで、その怒りはすぐに引っ込んだ。
「ロウエル伯爵」
グレイ様の声は静かだった。
静かだからこそ、広間の隅まで届いた。
「確認しよう。あなたは、王都婚姻局へ提出した花嫁変更届が仮のものだったと主張するのか」
「い、いや、そうでは」
「では、ミリアとの婚姻が正式なものだったことは認めるのだな」
「もちろんです」
「その正式な婚姻を、ノルヴァルト家の評価が上がったから取り替えたいと言っているのか」
父は黙った。
母が青ざめる。
セリーナはようやく、自分たちが何を言っているのか少しだけ理解した顔になった。
「妻は外套ではない」
グレイ様は言った。
「寒くなったから替え、暖かくなったから戻すものではない」
その一言が、広間に重く落ちた。
私は隣で息を吸った。
妻は外套ではない。
そんな当たり前の言葉が、どうしてこんなに胸に響くのだろう。
「私の妻は、ミリアだ」
グレイ様は続ける。
「王都婚姻局の書類にも、ノルヴァルト家の記録にも、北境の者たちの認識にも、そうある」
「ですが」
セリーナが震える声で言った。
「わたくしの方が、王都では」
「王都で誰が華やかかは、私の妻を決める理由にならない」
「でも、わたくしが最初の候補で」
「候補を降りたのは君だ」
短い言葉だった。
それで十分だった。
「寒い辺境が嫌だと言った。傷のある夫が嫌だと言った。ならば、君の選択はそこで終わっている」
「そんな」
「そして、ミリアは選んだ」
グレイ様は私を見た。
「最初は望まぬ形だったとしても、この地で暮らし、知り、関わり、残ることを選んだ」
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
選んだ。
そう。
私はいつの間にか、ここに残ることを選んでいた。
押しつけられた場所ではなく。
逃げられない場所でもなく。
自分が歩くと決めた場所として。
「グレイ様」
父が、最後の望みに縋るように言う。
「どうか、家同士の関係を考えて」
「考えている」
「でしたら」
「だからこそ、今後ロウエル伯爵家との取引紹介は当面控える」
父の顔から血の気が引いた。
「なっ」
「ノルヴァルト家の妻を軽んじる家を、北境の商人や職人へ紹介することはできない」
「それは困ります」
「そうだろうな」
「我が家は、王都で北の毛織物を扱う準備を」
「必要ない」
グレイ様は淡々と言った。
「ノルヴァルトの毛織物は、すでに王妃宮と正式な窓口を持った。あなた方の仲介は不要だ」
父は完全に言葉を失った。
母は扇で口元を押さえ、セリーナは呆然としている。
「お姉様」
妹は、最後に私を見た。
「どうして」
また、その言葉だった。
「どうして、お姉様ばかり」
私はしばらく妹を見ていた。
昔なら、その言葉に傷ついたのだと思う。
今も、痛みがまったくないわけではない。
けれど、それはもう私が譲る理由にはならなかった。
「セリーナ」
私は静かに言った。
「あなたが欲しくなったのは、評価された後のノルヴァルト辺境伯夫人の席でしょう」
「……」
「でも私は、評価される前のこの家で暮らしたの」
妹の目が揺れる。
「寒さも、傷も、地味な仕事も、あなたが嫌がったものを全部見た。その上で、ここを選んだ」
「でも、寒いのは嫌でしょう」
「苦手よ」
私は少しだけ笑った。
「でも、嫌いなものと大切なものを比べて、大切なものを選ぶことはできるの」
セリーナは何も言えなかった。
それでよかった。
たぶん、この子にはまだ分からない。
美しい席が美しく見えるのは、その席を守っている人たちがいるからだ。
暖かな部屋が暖かいのは、誰かが薪を割り、保存食を整え、靴の雪を払っているからだ。
それを見ようとしないまま欲しがっても、その席は長く持たない。
ロウエル伯爵家の一行は、その日のうちに城を出た。
雪解け道は悪い。
けれど、グレイ様は最低限の礼を尽くし、護衛と暖かな外套をつけた。
追い返すのではない。
ただ、線を引いて帰す。
そのやり方が、彼らしかった。
夜。
私は城壁の上にいた。
雪解けの風はまだ冷たい。
けれど、真冬ほどではない。
遠くの森では、雪の下から黒い土が少しずつ見え始めている。
北の春は遅い。
遅いけれど、ちゃんと来る。
「寒くないか」
グレイ様が隣へ来た。
この人は、本当によくそれを訊く。
「少し」
「中へ戻るか」
「もう少しだけ、ここにいたいです」
そう答えると、彼は何も言わず、自分の外套の片側を私の肩へかけた。
温かい。
それだけで、自然に息がほどける。
「今日は、嫌な思いをさせた」
彼が言った。
「いいえ」
「怒っているか」
「少し」
「私に?」
「いいえ。昔の私にです」
私は城下の灯りを見下ろした。
「どうしてあの家で、あんなに長く便利な娘でいようとしたのかと思って」
「それは、君が悪いわけではない」
「分かっています」
私は小さく頷いた。
「でも、分かるまで時間がかかりました」
「なら、今分かったならいい」
「そうですね」
私たちはしばらく黙っていた。
風が吹く。
遠くで犬が吠える。
城下の煙突から、細い煙が立ち上っている。
「ミリア」
グレイ様が低く呼んだ。
「はい」
「この婚姻は、始まり方が君にとって不本意だった」
「はい」
「だから、改めて聞きたい」
彼は私の前へ立った。
頬の傷が、月明かりの下で静かに見える。
私はもう、その傷を怖いと思わない。
むしろ、彼がこの地を守ってきた時間の一部だと思う。
「この先も、ノルヴァルトにいるか」
「それは、妻としての確認ですか」
「それもある」
彼は少しだけ言葉を探した。
「だが、それだけではない。君自身に聞いている」
「私自身に」
「家のためでも、妹の代わりでも、我慢でもなく」
グレイ様は、まっすぐ私を見る。
「君は、ここにいたいか」
胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
この人はいつも、最後にはそこを訊いてくれる。
私がどうしたいか。
私が選ぶのか。
それを、当たり前のように大切にしてくれる。
「はい」
私は答えた。
「ここにいたいです」
グレイ様の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「本当に?」
「はい」
「寒いぞ」
「知っています」
「春は遅い」
「知っています」
「私は、王都の貴公子のような気の利いた言葉はあまり言えない」
「それも知っています」
私は少しだけ笑った。
「でも、歩ける靴をくださいます」
「それは必要だからだ」
「必要なものを見てくださる方が、私は好きです」
グレイ様は黙った。
耳が、少し赤い。
私はその赤さに気づかないふりをした。
「雪解け祭のあと」
彼は低く言った。
「もう一度、夫婦の誓いを立てたい」
「私たちは、もう夫婦です」
「ああ」
彼は頷いた。
「だが、最初の式は慌ただしかった。君が選んだ式ではなかった。だから今度は、君がここにいると選んだ形で、誓いたい」
その言葉に、目の奥が熱くなった。
実家で署名した婚姻書。
北へ向かう寒い馬車。
初めて呼ばれた奥様という言葉。
雪靴。
赤い靴紐。
暖炉。
すべてが一度に胸へ戻ってくる。
「では」
私は言った。
「雪解け祭の日に」
「ああ」
「でも、豪華な宝石はいりません」
「そうなのか」
「はい」
私は少し考えてから、微笑んだ。
「新しい手袋がいいです」
グレイ様は一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。
「分かった。良いものを用意する」
「実用的なものを」
「北なので」
「ええ。北なので」
二人で笑った。
風は冷たい。
けれど、隣は温かかった。
雪解け祭の日、私は深い青の外套と、新しい手袋を身につけて城下へ出た。
手袋は、白銀羊の毛で織られたものだった。
手首には、小さな銀糸の雪花。
掌の内側には、滑らないよう細かな革が縫いつけられている。
美しくて、役に立つ。
いかにもグレイ様らしい贈り物だった。
礼拝堂の前には、領民たちが集まっていた。
子どもたちが走り回る。
赤い靴紐の男の子もいた。
彼は私を見つけると、得意げに片足を上げた。
「奥様! まだ転んでない!」
「すばらしいわ」
「春も履く!」
「雪がなくなったら、春の靴に替えましょうね」
男の子は少し残念そうにしたが、姉に手を引かれて駆けていった。
その姿を見て、私は笑った。
笑えるようになったのだと思った。
誰かのために我慢している笑顔ではなく。
ここにいて、ここで見たものを好きだと思える笑顔。
グレイ様が隣に立つ。
礼拝堂の鐘が鳴る。
大きな鐘ではない。
王都の神殿のように華やかでもない。
けれど、雪解けの空へまっすぐ響く音だった。
「ミリア」
グレイ様が手を差し出した。
私はその手を取る。
手袋越しでも、温かい。
「寒いか」
「少し」
「なら、火のそばへ行くか」
「いいえ」
私は首を振った。
「今日は、あなたの隣に立ちます」
グレイ様は、ほんの少しだけ目を細めた。
それから、私の手を握り返す。
「では、私が風よけになる」
「実用的ですね」
「北なので」
私は笑った。
北の春は遅い。
雪はまだ屋根の端に残っている。
風も冷たい。
それでも、ここはもう私にとって、押しつけられた場所ではなかった。
妹が嫌がった寒い辺境。
傷のある夫。
地味な暮らし。
そのすべての中で、私は自分の居場所を見つけた。
今さら代わってと言われても、もう遅い。
ここは我慢している場所ではない。
私が選んだ家なのだから。
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