漆黒歌劇
「この世は全て台本どおりの脚本どおり、とは誰が云ったかの」
凛とした声が木霊する。
高くもなく、低くも無い心地よい声音であった。
聞く者を惹きつけ魅了する磁力ある響きであった。
灰色のビルの屋上。
ネオンの洪水を眼下に見下ろしてその人物はいた。
ビルの下から吹き上げる風で、長い黒髪が揺れる。
その顔には何の表情も浮かんでいない。
それは女だった。
年のころは二十半ばといったところか。
腰元まで伸びた長く美しい黒――否、光すら捉える闇色の髪の中、白い顔が浮かんでいる。
切れ長の双眸は深遠の如き漆黒。
高く整った鼻梁の下には、鮮血色の唇が妖しく薄い微笑を浮かべている。
女を表現する言葉があるのならば、ただ一言。
美しい。
だが。
それは、異貌であった。
魔性の美と称すべき類のものだ。
その美貌は、危険を孕み。
その艶香は、人を狂わせ。
その妖艶は、魔すら魅了する。
ヒトではありえない、ヒトならざる、美しい女だ。
そして、女が誰に云うでもなく、淡々と続ける。
「人は絶え間なく過ぎ行き、どんなに栄華を極めようと、やがて死に肉体は土に返るのが道理。そは一睡の夢。後に、残るのは想いのみ。じゃが、それすらも時の流れに消えていく運命……なんとも儚いのう、人とは」
髪と同じく闇色の服を身に纏い、女は屋上の手すりに腰をかけていた。
強い風が吹いて、女のぞろりと長い黒いスカートがはためく。
スカートが捲れて白い足が見え隠れするが、女は気にしない。
どうせ、誰も見てはいないのだ。
「都市は、想いの根源。記憶の根底。混沌と狂気。人は一人では何も生み出せぬが、多く集まれば、巨大な凶夢すら地上に具現化できる。我らにはできぬ事じゃ。――のぅ、そうは思わぬか?」
漆黒の女が問いかける。
「さて、どうでしょうかね。私は貴女ほど長い時間を生きている訳でも、ヒトの力を評価している訳ではないので」
いつの間にか、女の後方にただずんでいた男が、そう応える。上背はそれほどでもなかったが、肉付きがよくふっくらとした印象を受ける男であった。女性受けしそうな中性的な容貌をしていたが、その顔にも何の表情も浮かんでいない。
まるで能の仮面でも被ったかのように、抜け落ちた感情。
完全なる無情。
それもまた異貌と云えた。
「貴様らしい答えじゃの。じゃが、少しは考えたほうがよいぞ。思考を惜しむと馬鹿になるからの」
気分を害した様子もなく、女は僅かに笑みを深める。
「私にとって世界は、個人が持つモノなんですよ。世界なんて、共有するものではありませんし。話し語ったところで、無駄に詩的になるだけです」
「汝は詩が嫌いかえ?」
「世界はそれほど美しくも、醜くもありません。世界は、どこまで行っても世界でしかありませんから」
男――瀬尾の言葉に、女が愉しそうに喉を鳴らす。
「汝と我らは姿こそ似ていながら、全く異なる。じゃが、それを知らぬ者からみれば、我らは同じ人間と括られよう。汝の物言いは、物事の本質に通ずるのぅ」
「そう感じているのですか?」
「そうじゃ」
瀬尾の問いに、女は簡潔に応え、手すりに座ったまま振り返った。
「……で。 汝は、我に何用かあって来たのかないか?」
「是」
瀬尾の返答に、ふふんと鼻を鳴らし、女が続きを促す。
「ならば聞こう。言葉を許す。存分に云うが良い」
「少しばかり、貴女のお時間をお借りしたいのです。私と『あの方』の為に――」
「ほう、汝は光主殿について、何か知ったかえ?」
「多少は――しかし、まだまだ触り程度です。『あの方』の手掛かりは、未だ皆無に等しい」
「そうか。ふむ、そうじゃろうな。ならば――よかろう。我の永久を汝に一時、預けようではないか」
女は双眸を細め、瀬尾に応じる。
「して、瀬尾。汝は我に何を以って報いるのじゃ?」
「無為ならざる時を以って――」
クスリと女が笑い、高らかに謳う。
「我が悠久に色彩を与えてみせるがよい、瀬尾!」