第8話「不器用」
イーリスは、もういた。
カイが屋台の裏の横穴から出てきた時、安全地帯の丸太の上に、外套を被った小さな影が座っていた。膝を抱えて、じっと屋台の方を見ている。
横穴はカイの寝床だ。安全地帯の奥、他の冒険者が気にも留めない狭い隙間を、5年かけて住めるように整えた。寝袋と仕込み台と、干した食材を吊るす棚がある。ダンジョンに屋台を出す前から、ここはカイの台所だった。
「……早いな」
「別に。たまたま」
カイは屋台の板を開けて、火を起こした。
「昨日より早いぞ。まだ夜明け前だ」
「料理をしているとこ見たいって言ったでしょ」
「本格的な料理ができるのは準備が終わってからだ。まずは仕込みだぞ」
「仕込みから見る」
イーリスは丸太から降りて、屋台の横に立った。カイの手元が見える位置だ。金色の瞳がカイの手元を追っている。
カイはまな板を出した。
「今日は岩窟茸の汁物と、肉だな。汁物は茸と火竜草。肉は」
カイは横穴に戻って、棚から干し肉を一塊り取ってきた。赤黒い肉が乾いて縮んでいる。三十層付近の岩牛の腿肉を、薄く切って塩を振って、岩の隙間で風に当てて干したものだ。
「こいつを炙って出す。あと」
保存袋に手を入れた。奥から布に包まれた穀物の粒を取り出す。小粒で、乾いた琥珀色をしている。
「深層の洞窟米だ。四十層付近で見つけた。炊くと粘りが出て何にでも合う」
「そんなのも持ってるの」
「ダンジョンに潜っていれば、色々溜まる」
カイは鍋にもう一つ水を張って、洞窟米を浸した。残りの火竜草は一本だから、これで使い切りだ。明日は三十層に採りに行かないと。
「三十層なら、あたしの方が詳しい」
「そうなのか」
「……行ってもいい。案内する」
「助かる。じゃあ明日、一緒に行こう」
イーリスの耳が赤くなった。外套を深く被り直す。
カイは岩窟茸を籠から取り出して、まな板の上に並べていた。
「茸は切り方で味が変わる。繊維に沿って裂くと香りが出る。包丁で断つと歯応えが残る。今日は汁物だから、手で裂く」
指で茸の繊維を探って、するっと裂いた。白い断面から、茸の香りが立った。
イーリスの鼻が動いた。
「今、裂いた瞬間に匂いが変わった」
「分かるか。細胞が壊れると中の香りが出るんだ。包丁で切ると断面が潰れて匂いが逃げる。手で裂くと繊維に沿って割れるから、中の香りが残る」
「……知ってる。でも自分でやったことはない」
カイは茸をもう一つ取り出して、イーリスの前に置いた。
「やってみるか」
イーリスの指が止まった。カイを見上げた。
「……いいの」
「いいもなにも、裂くだけだ」
イーリスは茸を手に取った。両手で持って、繊維の方向を確認する。鼻を近づけて、匂いを嗅いだ。
「ここ。ここに沿って裂けばいい」
指に力を入れた。
ぐしゃっ。
茸が潰れた。繊維どころか、原型をとどめていない。白い破片がまな板の上に散らばった。
イーリスは自分の手を見下ろした。
「……力加減が、分からない」
「もう一個やってみろ」
カイは新しい茸を渡した。イーリスは今度は慎重に、指先だけで持った。そっと力を入れる。
ぐにゃっ。
今度は潰れなかったが、繊維の方向を無視して千切れた。断面がぐちゃぐちゃだ。香りが飛んでいる。
イーリスの眉間に皺が寄った。
「方向は分かってる。力の入れ方が分からない。あたしの手は、ちゃんと動かない」
三個目。また失敗した。今度は力が弱すぎて、茸が裂けずに指の間で滑った。
「頭では全部分かってるのに」
イーリスの声が小さくなった。角の根元がかっと熱くなった。怒りの熱だ。自分自身への。
カイは黙って見ていた。
カイは包丁を置いて、イーリスの横に立った。
「手を出せ」
「え」
「茸を持て。そのまま」
イーリスが茸を持った。カイはその手の上に、自分の手を重ねた。
イーリスの手が固まった。背中がばさっと動いた。
「力を抜け。俺が動かす。感覚だけ覚えろ」
カイの指がイーリスの指を導いた。茸の繊維に沿って、ほんの少しだけ力をかける。引くのではなく、開くように。
すっ、と茸が裂けた。
白い断面が現れて、茸の香りがふわっと広がった。完璧な裂き方だった。
イーリスは裂けた茸を見下ろしていた。目が大きく開いている。
「……今の、覚えた。指の圧力と、方向と、速さ」
「もう一回やってみるか。今度は一人で」
カイが手を離した。イーリスは新しい茸を持った。
目を閉じた。さっきの感覚を思い出している。指先に残っている、カイの手の動き。
目を開けて、裂いた。
半分成功した。繊維には沿えたが、途中で力が入りすぎて断面が少し潰れた。
「七十点」
「……七十点」
「悪くない。初日にしては上出来だ」
イーリスは裂けた茸を見つめていた。潰れた断面と、きれいに裂けた断面が半分ずつ。
「……明日も教えて」
「いいぞ。毎日やれば上手くなる」
「毎日」
角の根元から薄く湯気が立った。一瞬だけ、肩の後ろで、翼が小さく動いた。
カイは茸を鍋に入れ始めた。イーリスが裂いた分も、潰れた分も、全部入れた。
「え、あたしが潰したやつも使うの」
「汁物だからな。潰れたやつは出汁が早く出る。裂いたやつは食感が残る。両方入れると深みが出る」
「……わざと?」
「結果的にそうなった。料理はそういうもんだ。失敗が全部無駄になるわけじゃない」
イーリスは黙った。肩がふるっと震えた。
鍋に鉱泉水を張って、火にかけた。岩窟茸の欠片がゆっくり沈んでいく。潰れた茸から先に白い濁りが出始めた。出汁が出ている。
火竜草の根を最後の一本、薄く刻んで加えた。赤い破片が湯の中で揺れて、透き通った水がうっすら琥珀色に変わっていく。茸の旨味と火竜草の辛味が鍋の中で出会う瞬間、匂いが変わった。
甘い茸の香りの奥に、ぴりっとした辛味が差す。湯気が立ちのぼるたびに、その匂いが安全地帯に広がった。
イーリスの鼻が動いた。「……きれいに裂いた方の茸は、まだ出汁が出てない」
「そう。あっちは後から効いてくる。食べた時に歯応えと一緒に、じわっと旨味が来る。二段階の味になるんだ」
汁物を弱火に落として、カイは隣の鍋を見た。洞窟米が水を吸って、ふっくらし始めている。
「飯が炊けるまであと少しだな」
干し肉をまな板に載せた。包丁で薄く削ぐ。乾いた肉が刃に当たって、ぱりっと音がする。赤黒い薄切りを火竜草の脂で軽く炙る。じゅう、と音がした瞬間、干し肉の凝縮された旨味の匂いが弾けた。
イーリスの鼻がひくりと動いた。
「……いい匂い」
「干し肉は炙ると脂が戻るんだ。生の肉とは違う旨味がある」
炙った肉を皿に並べていく。岩塩をほんの少しだけ振った。
洞窟米が炊けた。蓋を開けると、穀物の甘い湯気が立った。粒が透き通って、もちっとした光沢がある。
「さて、握るか」
カイは手を水で濡らして、炊いた米を手のひらに載せた。軽く握る。三角でも丸でもない、手のひらの形そのままだ。岩塩を指先に取って、表面にまぶした。
体が覚えている。握って、塩を振る。それだけで完成する食べ物。名前は出てこない。
六つ握った。
「カイさーん! おはようございます!」
ルーク達が通路から走ってきた。四人揃っている。
「おはよう。今日は汁物だ」
「うわ、いい匂い! ……あれ」
トビーが屋台の横を見た。
イーリスが立っている。手に茸の欠片がついている。まな板の上にはイーリスが裂いた茸が残っていた。
「あの子、手伝ってるの?」
「少し教えた。茸の裂き方を」
ミラの目が光った。手帳を取り出す。
「カイさん。弟子ですか」
「弟子じゃない!」
イーリスが叫んだ。外套を深く被り直した。
「弟子じゃない。ちょっと興味があるみたいだから、裂き方を見せただけだ」
トビーがルークの袖を引いた。小声で。
「ルーク。カイさんの横に女の子が立ってて、一緒に料理してるの、あれ何」
「……分からない。でもなんか、いい雰囲気だった」
「だよね。俺もそう思った」
「聞こえてるわよ」
イーリスの声が低い。声に力がこもっている。
「よし、いい頃合いだ」
カイは皿を並べた。一人ずつの前に、三つ。
汁物。岩窟茸と火竜草の汁。透き通った琥珀色の液体に、白い茸の欠片が浮いている。
干し肉の炙り。赤黒い薄切りが皿の上に扇状に並んで、表面に岩塩の粒が光っている。
握り飯。洞窟米を手で握って、塩をまぶしたもの。もちっとした表面が湯気を立てている。
「え」トビーが固まった。「え、定食? ダンジョンで定食?」
「飯屋だからな」
トビーが干し肉を一切れ口に入れた。噛んだ瞬間、乾いていた肉から旨味が溢れ出した。
「なにこれ! 干し肉ってこんな味するの!? 俺が知ってる干し肉と全然違う!」
「干し方が違うんだ。風通しと温度と時間を合わせれば、肉の旨味が凝縮される」
ルークは握り飯を手に取った。塩の粒が指に触れる。一口かじった。
穀物の甘さが口に広がった。噛むともちっとした粘りがあって、噛むたびに味が出る。汁物を一口飲む。茸の出汁が米の甘さと合わさって、口の中が温かくなった。
「……うまい。なんでダンジョンの中でこんなもんが食えるんだ」
「五年分の仕込みだ」
カイはさらっと言った。
ミラは汁物を飲みながら手帳に書いている。「火属性。茸の旨味成分が二段階で溶出。潰し裂きと繊維裂きの混合による時間差効果。干し肉=魔力の凝縮? 要検証。穀物は未分析」
エリカは一口飲んで、目を閉じた。「……温かい。体の中が、整っていく感じがする」
イーリスは椀を両手で包んで、匂いを嗅いだ。目を閉じる。湯気が顔に当たっている。
一口。
飲み込んで、椀を見下ろした。
「……あたしが潰したやつ、ちゃんと出汁になってる」
「言っただろ。無駄にはならない」
イーリスは黙って、二口目を飲んだ。三口目。四口目。
「……ん」
椀の底をのぞいた。空だった。
「……もう一杯」
カイの顔が明るくなった。
全員が食べ終わった頃、ルークがカイの前に来た。少し緊張した顔をしている。
「カイさん。一つ、お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「妹が……病気で。もう長いこと寝込んでて。薬は飲んでるんですけど、食欲がなくて、ほとんど食べられなくて」
ルークの手が握られていた。
「カイさんの料理を、持ち帰ってもいいですか。妹に食べさせたくて」
カイは手を止めた。
「どんな病気だ」
「深層熱って言われました。体の中の魔力が乱れて、熱が下がらないって。深層の素材から作る薬が効くらしいんですけど、高くて」
カイの眉が動いた。
「食欲がない。熱が下がらない。魔力が乱れてる」
「ルーク。明日、妹さんの好きな味を教えてくれ」
「好きな味?」
「甘いのが好きか、しょっぱいのが好きか。酸っぱいのは平気か。食感は柔らかい方がいいか。食べられる量はどのくらいか」
ルークの目が少し潤んだ。
「……はい。明日、ちゃんと聞いてきます」
「おう。その子に合うもん作ってやるから」
ルーク達が帰った後、イーリスがまだいた。
「帰らないのか」
「……あの剣使いの妹。深層熱って言ってた」
「ああ」
「あれ、竜人族にもある。魔力の循環が止まるやつ」
カイはイーリスを見た。イーリスは少し考えている顔をしていた。
「食べ物で治るかは知らない。でも、あなたの料理なら」
言葉が途中で止まった。イーリスは自分の手を見下ろした。さっき茸を裂いた手。まだ指先に、カイの手の感触が残っている。
「……明日、三十層の案内する。火竜草だけじゃなくて、もう一つ。あたしが知ってる素材がある」
「どんな素材だ?」
「岩の壁に生えてる灰色の木。幹を傷つけると白い汁が出る。あたしたちは体の調子が悪い時にあれを舐める」
カイの目が変わった。
「白い汁。粘り気はあるか」
「ある。とろっとしてる」
「脂肪分は」
「……たぶんある。舌にまとわりつく感じ」
カイの頭の中で、何かが繋がった。白い汁。粘り気。脂肪分。舌にまとわりつく。
どこかで嗅いだことがある匂いだ。白い湯気。甘い匂い。穀物を煮込んだ、あの匂い。名前は出てこない。でも鼻が覚えている。
「イーリス。明日、それを採りに行こう」
「……うん」
イーリスは立ち上がった。
「じゃあ、明日は早く来る」
「今日も十分早かったぞ」
「もっと早く来る」
イーリスは歩き出した。通路の角を曲がる直前に、振り返った。
「カイ」
「ん?」
「あたしが裂いた茸。ちゃんと美味しかった」
それだけ言って、通路の闇に消えた。
カイは鍋を洗いながら、明日の仕入れを考えた。
三十層の岩壁に生える灰色の木。白い汁。体の調子が悪い時に竜人族が舐める。
それを使って、ルークの妹のための料理を作る。
鍋を拭く手が止まった。白い汁。粘り気。脂肪分。頭の中で、もう鍋が火にかかっている。




