第7話「一番美味いやつ」
夜明け前に目が覚めた。
カイは寝袋の中で天井を見上げた。十五層の安全地帯は天井が低くて、魔石灯の淡い光が岩肌を照らしている。
一番美味いと思うやつ。
イーリスの声が、頭の中で繰り返している。
昨日からずっとだ。寝る前も、寝ている間も、たぶんずっと考えていた。一番美味いと思うやつ。一番。美味い。やつ。
カイは寝袋から出た。
「一番美味いもの、か」
口に出してみると、余計に難しい。
一番美味いものは、食べる人によって変わる。疲れた体には温かいスープが一番だし、暑い日には冷たい刺身が一番になる。「一番」なんて本当は存在しない。
でも、あの子は「あなたが一番美味いと思うやつ」と言った。
あなたが。
つまり、カイ自身が一番美味いと思うものを出せ、ということだ。
カイは屋台の前にしゃがんで、両手を膝に置いた。目を閉じた。
白い板場。木の香り。蒸気。包丁を握る手。覚えがある。あの時、何が一番好きだったか。
浮かんだのは、魚だった。
焼いた魚。ただ、焼いただけの魚。塩だけで、余計なものは何もなくて、皮がぱりっとして、身がふわっとしていて、箸を入れた瞬間に脂がじゅわっと滲む。
保存袋を開ければ、深層の熟成肉も、香辛料も、甘根もある。手の込んだ料理はいくらでも作れる。でも、一番美味いもの。自分が一番好きなもの。
あれだ。
カイは立ち上がった。
「二十層に行くか。朝一番の地底魚を、塩だけで焼く」
背負い籠を担いで、安全地帯を出た。
まだ冒険者が少ない時間帯だ。通路は静かで、カイの足音だけが響く。十六層、十七層、十八層。水の匂いが近づいてくる。十九層を抜けて二十層の地下湖に着いたのは、出発から四十分後だった。
水面が青白く光っている。湖底の鉱石が放つ魔力の光だ。水の匂いが濃い。地上の川とは違う、鉱物と苔の混ざった冷たい匂い。その光を縫うように、銀色の影が泳いでいる。
カイは水辺にしゃがんだ。
朝の地底魚は、夜通し深いところで休んでいた分、身が締まっている。脂の乗りは昼のものより落ちるが、代わりに弾力が強い。焼き物にするなら、朝の魚が一番いい。
じっと水面を見つめた。呼吸を落とす。指先を水に浸した。
銀色の影が近づいた。
カイの手が動いた。水しぶきが上がって、指の間に魚が収まっていた。素早くもう二匹、三匹。一匹ずつ尾を掴んで、身の張り方を確かめる。
「よし。今日は四匹もらうか」
帰りに、昨日残した火竜草の根を一本と、岩窟茸の欠片を籠に加えた。火竜草の搾り汁を焼き魚にかける。前にやったことはないが、頭の中では完成している。あの辛味が魚の脂を引き立てるはずだ。
十五層に戻ったのは、出発から一時間半後だった。
朝の安全地帯は静かだ。誰もいない。
カイは屋台を開いて、まな板を出した。
まず鱗を落とす。包丁の背で尾から頭へ、手早く擦る。銀色の鱗が飛んで、まな板の上に散った。鉱泉水でぬめりを洗い流してから、三枚に下ろす。背骨に沿って包丁を入れると、透き通った白い身が現れた。真ん中にうっすら赤みが差している。締まった身が、包丁を押し返すような弾力を持っていた。
皮はつけたままにする。焼いた時にぱりっとした食感が出るし、身を守る蓋にもなる。
岩塩を指先で砕いて、両面に振った。多すぎず、少なすぎず。魚の大きさと脂の量で、塩の量は変わる。カイの指は、考えるより先に正しい量を掴んでいた。
火竜草の根を石の上で潰して、汁を搾る。赤い液体が小皿に溜まった。ぴりっとした辛味の匂い。これを仕上げに数滴だけかける。
岩窟茸は薄く削って、軽く火であぶった。添え物だ。焼き魚の横に置くと、茸の香ばしさが魚の脂と混ざる。
準備が整った。あとは焼くだけ。
「焼くのは、あの子が来てからだ。焼きたてを食わせたい」
カイは火を落として、待った。
足音が聞こえたのは、それから三十分も経たない頃だった。
通路の奥から、外套を被った小さな影が歩いてくる。
イーリスだった。
昨日と同じ外套。銀色の髪が隙間から覗いている。カイの屋台を見つけた瞬間、足が少しだけ速くなった。
「おはよう。早いな」
「……別に。たまたま起きてただけ」
「三十層から、たまたま起きて十五層まで来たのか」
「うるさい」
イーリスは昨日と同じ丸太に座った。
「今日は何」
「地底魚の塩焼き。朝一番に二十層まで行って、一番いいやつを捕ってきた。塩だけで焼く。俺が一番美味いと思うやつだ」
「塩だけ?」
「塩だけだ。いい魚は塩だけが一番うまい」
「……朝一番って、何時に起きたの」
「夜明け前。焼き物にするなら朝の魚がいいんだ。夜通し深いところで休んでた分、身が締まってて、火を入れた時に崩れない」
イーリスは黙った。夜明け前に起きて、二十層まで魚を捕りに行って帰ってきた。あたしが「一番美味いやつ」と言ったから。
「……バカじゃないの」
「よく言われる」
カイは笑って、火を起こした。
炭が赤く熾きるまで待つ。炎ではなく熾火で焼く。じわじわと、均一に。これが塩焼きの全てだ。
「何か気になるのか?」
イーリスが丸太から身を乗り出していた。金色の瞳がカイの手元を追っている。
「……匂い」
「匂い?」
「塩が魚に染みていく匂い。脂が温まり始めた匂い。今、皮の下の脂が動き始めた」
カイの手が止まった。
魚はまだ焼いていない。塩を振って寝かせただけだ。なのに、塩が浸透して脂の質が変わり始めていることを、匂いだけで読み取っている。
「……お前、すごい鼻してるな」
「別に普通」
普通ではない。カイは魚に目を戻した。この子の前では、ごまかしが利かない。
カイは魚を網に載せた。
熾火の上に置いた瞬間、じゅっと音がした。皮の表面の水分が飛んで、脂が熱に反応する音。白い煙が細く立ちのぼった。
三十秒。皮の端が縮み始める。
一分。脂が皮の下で溶けて、身との間に薄い層を作る。ここからが勝負だ。火が強すぎれば皮が焦げて脂が流れ落ちる。弱すぎれば身がべたつく。
カイは火と魚の距離を、指一本分だけ離した。
皮がゆっくり色づいていく。薄い金色から、深い飴色へ。匂いが変わった。生臭さが消えて、焼けた皮の香ばしさが立つ。その下から、脂が熱で甘くなった匂いが押し上げてくる。岩塩の塩味が脂と出会って丸く変わる瞬間の香り。
イーリスの喉が、小さく鳴った。
カイは魚をひっくり返した。身の側を下にする。ここは短い。火が通りすぎると身がパサつく。皮で蓋をしていた分、中にはまだ半生の柔らかさが残っている。その境目を、数十秒で仕上げる。
「今だ」
魚を網から引き上げた。木の皿に載せる。
火竜草の搾り汁を、三滴だけ落とした。赤い雫が焼けた皮の上で弾けて、辛味の香りが魚の脂と混ざる。岩窟茸の削り節を横に添えた。
塩焼きの地底魚。皮は飴色でぱりっと張っていて、身は白く、中心だけがうっすら透き通っている。火竜草の赤い雫が三つ、皮の上で光っていた。
「地底魚の塩焼き、火竜草添え。食え」
イーリスの前に皿を置いた。
イーリスは皿を見下ろした。箸を入れた。皮がぱりっと割れて、中から白い身が覗いた。
一口。
イーリスは思わず目を閉じた。
噛んだ瞬間に中の身がほどけて、旨味が口中に弾けた。ふわっとした白身の間から、脂が溢れる。塩味が脂を引き締めて、その奥から魚そのものの甘みが広がった。飲み込む直前に、火竜草の辛味が舌の奥を叩く。脂の甘みと辛味が一瞬だけ重なって、消えた。
消えた後に、魚の旨味だけが静かに残っている。
イーリスは目を閉じたまま、動かなかった。
翼が小刻みに揺れていた。角の根元から湯気が立ち、甘い焦げた匂いが広がった。
カイは待った。
十秒。二十秒。
「どうだ?」
イーリスは目を開けなかった。
口が開いて、閉じた。もう一度開いた。唇が動いたが、声にならなかった。
カイは少し困った顔をした。
「イーリス?」
イーリスの目が開いた。箸が動いて身をほぐして、岩窟茸も一緒に口に入れた。
ゆっくり噛んで、飲み込んだ。
「……なんで」
金色の瞳が濡れ、声がかすれていた。
「なんで、塩だけなのに、こんな」
言葉が続かなかった。
カイは、今度は翻訳しなかった。
代わりに、皿をイーリスの方に少しだけ押した。
「全部食え。お前のために焼いた」
イーリスの指先が止まった。
カイはふとイーリスを見て、首を傾げた。
「お前、頭のあたりが赤くないか。熱でもあるのか」
「ない! 暑いだけ!」
イーリスは外套を深く被り直した。両手で頭を押さえている。耳まで赤い。
残りの魚を、一口ずつ食べた。皮も残さなかった。
皿が空になった。
イーリスはそのまま屋台の隅に座っていた。帰る気配がない。カイは残りの魚の下処理を続けた。鱗を落として、塩を振って、並べておく。イーリスはその手元をじっと見ていた。包丁の動き、塩の量、指先の力加減。飽きる様子がなかった。
昼前に、ルーク達が来た。
「カイさーん!」
四人揃っている。
「おはようございます! 今日は……うわ、いい匂い」
トビーが鼻を鳴らした。
「魚を焼いた? え、もう終わったの?」
「イーリスの分だけ朝に焼いた。お前らの分はこれから焼くぞ」
ミラが手帳を取り出した。
「カイさん。今日も二十層まで魚を捕りに行ったんですか」
「ああ。夜明け前に出た」
ミラの手が止まった。
「夜明け前に。単独で。二十層まで」
「焼き物にするなら朝の魚が」
「聞きました。聞いた上で確認してます」
ミラは手帳に書き殴っている。トビーがルークの袖を引いた。
「ルーク、カイさんまた普通じゃないことしてるよ」
「知ってる」
ルークは苦笑した。もう驚くのにも慣れてきた。慣れてきたことが、たぶん一番おかしい。
カイは二匹目の地底魚をまな板に載せた。朝のうちに多めに捕ってきている。
カイは四人分の焼き魚を次々と仕上げていった。全て同じ塩焼きだが、焼き加減が一匹ずつ違う。身の厚さと脂の量に合わせて、火の距離と時間を変えている。
トビーが一口食べた瞬間、目を見開いた。
「うんっま! え、これ塩だけ? 嘘でしょ!」
「嘘じゃない。塩だけだ」
「塩だけでこんなことになる? 皮がぱりぱりで、中がふわふわで、口の中で溶けるんだけど!」
トビーは箸が止まらなかった。三口で半分なくなった。
ルークは黙って食べていた。噛むたびに、目を閉じた。魚の脂が口に広がるたび、体の芯が温まっていく。焼き魚一つで、こんなに安心できるのか。
「……美味い、です」
「おう。食え食え」
ミラは食べながら手帳を開いていた。一口食べて、書いて、また食べて、書く。
「火竜草の搾り汁。三滴。魚の脂質との反応で辛味が甘みに変化する。岩窟茸の削り節が香りの層を追加。単純な塩焼きに見えて、三種の素材の相乗効果が」
「ミラ、食べてから書きなよ」
「食べながら書かないと忘れるんです」
エリカは無言で完食していた。空の皿を見下ろして、一言。
「体が軽い」
全員が食べ終わった頃、重い足音が聞こえた。
ヴァルダだった。片手に大剣、もう片方の手に革袋を提げている。深層の依頼帰りらしく、鎧に焦げ跡がついていた。
「おう、ヴァルダさん。ちょうど焼き魚があるぞ」
「もらう」
ヴァルダは丸太に座った。カイが残りの一匹を焼いて出す。ヴァルダは黙って食べ、黙って皿を空にした。
「……美味いな」
それだけ言って、革袋の栓を抜いた。
「約束の酒だ。十年物の地底麦酒」
琥珀色の液体を、木の杯に注ぐ。麦の香りが安全地帯に広がった。
「カイ。お前も飲め」
「もらうよ」
カイは杯を傾けた。一口含んで、舌の上で転がす。
「苦味が丸い。後味に甘みが来る。こいつに合わせるなら」
岩窟茸を厚めに切って、火竜草の脂で炒めた。酒を少し振って蓋をする。蒸し焼きだ。一分で蓋を取ると、茸の汁と酒と脂が混ざった香りが弾けた。
ヴァルダが茸を一切れ、口に放り込んだ。噛んだ瞬間、目を閉じた。
「……合う」
「だろ?」
ルーク達は酒は飲めないが、つまみの茸は争うように食べた。イーリスは杯の匂いだけ嗅いで返した。「酒は好きじゃない。ご飯がいい」
ヴァルダが二杯目を飲みながら、言った。
「カイ」
「ん?」
「お前の包丁さばき、見てて思ったんだが」
ヴァルダの目が、笑っていなかった。
「あの動き、ただの料理人のものじゃないな」
酒場の空気が、ほんの少しだけ変わった。ルーク達は気づかなかったが、イーリスの耳が動いた。
カイは杯を傾けた。表情は変わらなかった。
「料理人の動きだよ。毎日包丁握ってれば、誰でもああなる」
「そうか」
ヴァルダは杯を空けた。それ以上は聞かなかった。
ルーク達が帰り、ヴァルダも立ち上がった。
「明日も来る。酒はまた持ってくる」
「助かる。今度はもう少し辛いつまみを用意するよ」
ヴァルダが去っていく。大剣を背負った背中が通路の奥に消えた。
イーリスは、まだいた。
「帰らないのか?」
「……もうちょっといる」
カイは何も言わずに、鍋を洗い始めた。
イーリスは丸太の上で膝を抱えて、カイの背中を見ていた。
朝の焼き魚の味が、まだ口の中にある。塩と、魚と、あの赤い雫の辛味。それだけなのに、今まで食べたどんな料理より深かった。
いつもなら「悪くない」くらいは言える。でも今日は、口を開けても何も出てこなかった。
味じゃない何かが、混ざっていた気がする。
お前のために焼いた、とあの男は言った。
「……バカ」
小さく呟いて、立ち上がった。
「帰る」
「おう。また明日な」
「……明日は、もっと早く来る」
カイは手を止めて、振り返った。
「なんで?」
「料理しているとこ、最初から見たいから」
それだけ言って、イーリスは歩き出した。今度は走らなかった。普通の速さで、通路の闇に消えていった。
カイは鍋を洗った。
「あの子の舌に合うものを作りたいな。火の属性が好きそうだから、次は炙りを試すか」
通路の向こうで、イーリスの足音が遠ざかっていく。
足音はいつもより、ゆっくりだった。




