第3話「薄造り」
十五層の安全地帯に戻ると、カイは既に屋台の前に立っていた。
ルーク達より先に出発して、五つの階層を一人で下りてきたはずだ。なのに息一つ乱れていない。エプロンのひもを締め直して、籠から魚を取り出している。額に汗一つない。まるで近所の市場から帰ってきたみたいな顔をしている。
「おう、早かったな。ちょっと待ってろ」
カイは屋台の台の上に清潔な布を広げ、三匹の地底魚を並べた。白い鱗が、安全地帯の魔石灯の光を反射してうっすら虹色に光っている。ルークが覗き込むと、魚はまだ尾びれを動かしていた。二十層から持ち帰って、まだ生きている。
ミラが手帳を開いた。今度は、最初から見逃さない。
「まずは水で締める」
カイが水筒の蓋を開けた瞬間、冷たい空気がふわっと広がった。ただの水ではない。二十層の洞窟で汲んできた鉱泉水だ。透明で、鼻を近づけるとかすかに鉱石の匂いがする。
魚の表面を水で流しながら、包丁の背で鱗を落としていく。尾から頭に向かって、短く速い手つきで白い鱗が飛んだ。次にぬめりを指の腹で丁寧に落とす。カイの手は速いのに雑ではなかった。魚の身を一度も強く押していない。鱗を取りながら、指先で身の弾力を確かめている。料理人の手だった。
「鮮度が落ちるのは、ここからだ。手の体温で身が緩む。だから速くやる」
独り言のように呟きながら、カイが包丁を取り出した。
屋台に備え付けの、一本の包丁。刃渡りは長い。細身で、反りが少ない。柄は使い込まれて木目の色が変わっている。刃が魔石灯の光を受けて、青白く光った。
ミラの【分析眼】が、包丁に焦点を合わせた瞬間、息を呑んだ。
魔力が流れている。
カイの手から、刃に向かって、ごく微量の魔力が注がれていた。刃の分子構造を整えるかのような、繊細な流れ。ミラは目を疑った。これは意図的な魔法なのか、それとも無意識なのか。カイの表情からは何も読み取れなかった。
ルークの横で、トビーが唾を飲み込んだ。
「かつら剥き」
カイが呟いた。ルーク達には意味の分からない言葉だ。だがカイの声は、どこか遠くを見ているように響いた。
包丁が魚の皮に触れた。刃が皮と身の間に滑り込む。一切の抵抗なく、まるで紙を一枚めくるように、皮がするりと剥がれた。
ルークは目を見開いた。
皮の下から現れた身は、半透明の白だった。脂が薄い膜のように光を通している。濡れた絹のような光沢があった。
「次は引く」
カイの手が動いた。
包丁を身の端に当てて、手前に引く。一回の動作で、薄い一枚が切り出される。その動きは剣で言えば「抜き打ち」に近い。
薄い。
灯りが透けるほど、薄い。
カイは切り出した一枚を、木の皿の上にそっと置いた。指先が身に触れる時間は一瞬だけ。体温を移さないようにしている。そしてまた一枚、また一枚。同じ厚さ、同じ角度で、身を薄くそぎ取っていく。包丁を引くたびに、すっ、すっ、と細い音が鳴った。
「あの」
トビーが声を出した。顔色が変だった。
「何やってるんですか、それ」
「薄造り」
「いや、名前じゃなくて。なんで透けてるんですか、それ」
「透けるくらい薄く切った方が、舌の上で溶けるんだ。厚く切ると食感が残りすぎる。この魚は脂がいいから、薄い方が旨味が広がる」
トビーが一歩下がった。
「え、待ってください。それ生ですよね。生で食うんですか? マジで?」
「マジだよ」
「いやいやいや。ダンジョンの魚ですよ? 生で食ったら腹壊すって、うちの親父が」
「処理をちゃんとやれば大丈夫だ。水で締めた時点で、残留魔力はほとんど抜けてる」
「ほとんど!? 全部じゃなくて!?」
「残った分は切り方で整える。だから薄く切るんだ」
トビーがルークを見たが、ルークは黙って首を横に振った。聞くな、という顔だ。
カイは当然のように切り続けている。目は魚から離れない。指先で次に切る位置を確かめながら、包丁を引き続ける。
ミラは手帳に書く手が追いつかなかった。
【分析眼】で見たものが、信じられない。カイが包丁を引くたびに、切断面の魔力構造が整列していく。食材の中にある水属性の魔力が、切り方によって方向を揃えられている。
ミラのペンが紙を引っ掻いた。「魔力付与)」「切断角度=魔力方向」「水属性整列」。ペンを持つ指が震えていた。
皿の上に、花が咲いた。
白い身が円を描いて並んでいる。中心から外に向かって、花びらのように。半透明の白が重なり合って、光を受けるたびに色が変わる。淡い虹が皿の上で揺れていた。
「きれい」
エリカが呟いた。声が小さかったのに、全員の耳に届いた。
カイは小さな器に、黄金色の液体を注いだ。
「タレ。十層で採れる柑橘の絞り汁に、鉱泉水を少し。塩はこの階層の岩塩を削った」
器から柑橘の鋭い香りが立ち上った。甘さはない。酸味と塩味だけ。鼻の奥がすっと抜ける、きれいな香りだった。
カイは横穴から洞窟米を持ってきて、握り飯を四つ並べた。魚のあらで取った汁も椀に注ぐ。
「刺身と握り飯とあら汁。食い方を教える。刺身は一枚つまんで、タレにちょっとだけ浸けろ。浸けすぎるな。魚の味が死ぬ」
ルークが最初に手を伸ばした。
薄い一枚をつまむ。指先に伝わる冷たさに、少し驚いた。タレに端だけ浸す。口に入れた。
「っ……!」
噛もうとしたのに、もう身がない。舌に乗せただけで薄い膜が崩れて、脂が口の中に散った。甘い。魚なのに甘い。柑橘がそこにぴりっと刺さって、甘さを一瞬で締める。
飲み込んだ。何を飲み込んだのか分からなかった。一枚が、もう消えていた。
ルークは言葉を失った。
「なんだこれ」
やっと出た声は、かすれていた。
トビーが二枚目を口に放り込んで、目を見開いた。
「うまいっ…!これは、なんだ、こう、口の中で花が咲いて、それが雪みたいに溶けて」
「花? 雪?」ミラが眉を寄せた。「脂の融点が体温で液化して、唾液と乳化することで舌の受容体に」
「ミラ、それ全然おいしそうじゃない」
「……事実を言っただけ」
カイが包丁を拭く手を止めて、笑った。子供みたいに嬉しそうに。
「うまいだろ」
それだけだった。花も雪も融点もない。ただ、うまいだろ。ルークはなぜか、その一言が一番しっくり来た。
「うまいとかそういう次元じゃない」トビーが三枚目に手を伸ばしながら言った。声が裏返っている。「なんで。なんでダンジョンの魚がこんな味になるんだ。ダンジョンの魚って苦いって聞いたのに」
「処理の問題だ。残留魔力が苦味になるんだけど、ちゃんと水で締めて、切り方を変えれば、魔力が整って苦味が消える。むしろ魔力が旨味に変わる」
カイは首を傾げた。
トビーが握り飯に手を伸ばした。一口かじる。
「うまっ。なにこれ、この米もちもちしてる。刺身の後にこれ食うと、口の中がちょうどよくなる」
ルークがあら汁をすすった。魚の骨と頭から出た白い出汁が、じんわりと体に染みていく。刺身の冷たさの後に、温かい汁が腹に落ちる。
「……カイさん、これ全部合わせて一つの食事なんですね」
「当たり前だろ。刺身だけじゃ腹が膨れない」
ミラは三枚目の刺身を口に運びながら、【分析眼】を全開にした。手帳を書く手が止まっていた。書くより先に、もう一枚食べたかった。
見えた。
食べた瞬間、体内の魔力が反応している。水属性の魔力が消化器官を通じて血流に乗り、全身に広がっていく。前回の土属性とは明らかに違う。筋力ではなく、魔力そのものの流れが滑らかになっている。魔法の発動速度が上がる。詠唱が短くなる。
「エリカ」
ミラは小声で呼んだ。ミラの【分析眼】は魔力構造を見る目だ。だが食べた後に体の中で何が起きているかは、見えない。
エリカは既にルークの肩に手を置いていた。【聖癒】の副次効果。触れた相手の体の中を、手のひらから読み取る。筋力、魔力の流れ、炎症、疲労。ヒーラーの触診だった。
「……魔力循環速度が、上がってます。筋力じゃない。今度は魔力の流れそのものが速くなってる」
淡々とした報告だった。だがエリカの手は、わずかに震えていた。
「前回と違う効果?」
「はい。前回は筋力と回復速度。今回は魔力の循環と、発動の速さ」
ミラの手帳に、新しい行が加わった。
「土属性=身体強化系。水属性=魔力強化系。属性で効果が変わる」
ルークは四枚目を食べながら聞いていた。理屈は分からない。でも、体が軽いのは分かる。指先の感覚がいつもより鋭い。剣を握ったら、きっと昨日より速く振れる。
「カイさん」
「ん?」
カイは残りの魚の処理をしながら振り返った。切った身のあらを丁寧に集めている。骨も頭も、一つも捨てない。
「これ、いくらですか」
「銀貨一枚」
「安い」
「安いか? 魚三匹で四人前だから、原価を考えたら妥当だと思うんだけど」
カイは首を傾げた。本気で不思議そうな顔をしている。
トビーが天を仰いだ。
「カイさん、ちょっといいですか。計算しますよ。まず二十層までの往復、冒険者に護衛を頼んだら最低でも金貨二枚。魚三匹の相場が銀貨五枚。あの包丁の技術、もし職人に弟子入りして学ぶなら十年分の修行代。合計で」
「トビー」
「待ってルーク、まだ終わってない。そこに食べた後の体の変化を魔法薬換算すると」
「トビー、もういい」
「一人あたり金貨五枚でも安いんだよ! なのに銀貨一枚! うちの親父が聞いたら泣くぞ!」
カイは困ったように頭をかいた。
「いや、魚は自分で採ったから原価ゼロだし、技術って言っても包丁で切っただけだし」
トビーが膝から崩れ落ちた。この人は本気で原価計算をしている。自分の技術にゼロの値段をつけている。
「カイさん」
「なんだ」
「明日も、来ていいですか」
カイの顔が、また明るくなった。昨日と同じだ。客が来ると言ってくれた時の、あの顔。
「もちろん。明日は、煮付けを出そうと思ってる。残りの一匹で出汁を取って、もう一匹を煮る。骨からいい出汁が出るんだ」
カイの声は、明日の料理の話をしている時が一番楽しそうだった。
四人は顔を見合わせて、笑った。
理由は後回しでいい。この飯が食えるなら、また来る。
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四人が去った後、カイは一人で皿を洗っていた。
水場で木の皿をすすぎながら、鼻歌を漏らしている。魚のあらを鍋に入れて、明日の出汁の仕込みを始めた。
手を動かしながら、独り言。
「あの剣使いの子、昨日より顔色いいな。でも利き腕の握力が落ちてきてるだろうな。器を受け取る時の手が、少し重かった」
煮付けにしたのはそのためだ。骨の出汁は関節にいい。
安全地帯の入口で、トビーが振り返った。小声で言った。
「あの屋台の周り、十メートルくらい、虫一匹いなかったぞ」
ルークの足が止まった。
「気のせいだろ」
「気のせいじゃない。【鷹眼】で見た。安全地帯の結界の外側にも、あの人の周りだけ、何もいなかった」
誰も何も言わなかった。
ミラが手帳を閉じた。指先が白くなるほど、強く握っていた。
「明日、もう一回食べよう。三回分のデータがあれば、もう少し見えてくるはず」
「賛成」ルークが頷いた。「カイさんのことは、俺たちだけの秘密な。変に噂になったら、あの人が困るかもしれない」
全員が、迷わず頷いた。
考えてみれば、あの屋台はいつも空いている。ルーク達以外の客を見たことがない。匂いは安全地帯中に届いているのに、他の冒険者は遠巻きに見ているだけだ。ダンジョンの中で見知らぬ男が作った安すぎる飯。普通は怪しんで近づかない。
ルーク達が毎日通っているのを見て、ちらほらと食べに来る者が出始めてはいた。だが不思議なことに、食べた者は誰も周りに広めなかった。あの味を知ったら、他人に教えたくなくなる。席が埋まったら自分が食えなくなる。
カイの屋台が繁盛しない理由は、料理がまずいからではない。美味すぎるからだ。
十五層の安全地帯に、柑橘の香りだけが残っていた。




