第2話「二十層の地底魚」
ルークの一撃が、リザードマンの鱗を断ち切った。
嘘だろ、と思った。自分の剣が、自分の力が、それをやったのだとすぐには信じられなかった。
十八層。Fランクの冒険者が足を踏み入れるには、少なくとも三つは無謀な判断が必要な階層だ。
ルークたちのパーティ「夜明けの灯」は、結成して三ヶ月の駆け出しだった。
ルーク・フェルデン、十八歳。リーダーで前衛。固有スキル【剣閃】は一撃の爆発力に優れるが、持続力がない。農家の長男で、病気の妹の治療費を稼ぐために冒険者になった。真っ直ぐで、嘘が下手で、仲間の前で見栄を張るのが精一杯の、普通の少年だ。
トビー・ガルト、十九歳。中衛の斥候。固有スキル【鷹眼】で罠や敵を見つける。商家の三男で、跡を継げず飛び出してきた。口が軽くて大げさだが、物の価値を見抜く目がある。パーティのムードメーカー。
ミラ・アーヴェント、十七歳。後衛の魔法使い。固有スキル【分析眼】は、見たものの魔力構成を可視化する。食材でも武器でもモンスターでも、目を向ければ魔力の流れが見える。魔法学院を中退している。「戦闘に使えない」と蔑まれたスキルを抱えて、それでも冒険者になった。冷静で、理知的で、負けず嫌い。
エリカ・ブラント、十八歳。後衛の治療師。固有スキル【聖癒】は回復魔法の才能。触れた相手の体の中を感じ取る副次効果がある。ミラが「ものを見る目」なら、エリカは「人に触れる手」だ。筋力や魔力の変化、炎症や疲労の蓄積を、手のひらから読み取る。孤児院育ちで、「誰かの役に立てること」だけが自分の居場所を作れると信じている。穏やかだが、芯が強い。
四人ともFランク。十層から十五層を行き来するのが精一杯の日々だった。
それが昨日、十五層の安全地帯であの飯屋のスープを食って、全員の調子がおかしくなった。良いほうに。
「調子がいいから、もうちょっと行こうぜ」とトビーが言い、「データ的にも私たちの状態は通常より良好です」とミラが言い、エリカが黙って頷いた。
そのまま十六層、十七層と抜けて、今朝、十八層に到達した。
普通なら死んでいる。
リザードマンはDランク相当のモンスターだ。鱗は硬く、動きは速い。Fランクのパーティが正面からぶつかって勝てる相手ではない。
なのに、ルークの剣はその鱗を切った。手応えが軽かった。まるで厚い革を裂くような感触で、本来なら弾かれるはずの刃が真っ直ぐ通った。
「ルーク、すごい! 一撃だよ一撃!」
トビーが叫ぶ。両手を頭の上で組んで、小刻みに跳ねている。ルークは自分の剣を見下ろした。刃に血がついている。確かに、切った。
「おかしい」
ミラが呟いた。杖を構えたまま、リザードマンの死骸を見ている。空いた手が手帳の角をなぞっていた。
「おかしいって何が」
「ルーク、あなたの【剣閃】の出力が昨日から二倍近い。筋力の増幅も異常。これ、普通じゃない」
ミラの【分析眼】は、味方の状態も見ることができる。数値として。
「俺は別に何もしてないぞ」
「分かってる。だから、おかしいの」
ミラは手帳を取り出した。昨日から書き始めた、新しいページ。そこには「カイの食堂」とだけ書いてある。その文字の下に、もう何行もの走り書きが詰まっていた。
「あのスープだと思う」
エリカが静かに言った。
三人が振り向いた。エリカは自分の手のひらを見ていた。昨日から、仲間の体に触れるたびに同じ違和感がある。筋力が底上げされている。魔力の回復が速い。理由は分からない。だけど、始まりの時間は特定できる。
「昨日の昼。あのスープを飲んだ後から」
沈黙が落ちた。
「あの三枚の銅貨のスープが?」トビーが信じられないという顔をした。「あの、森茸の? たった三枚で? 俺たちが街のポーション屋で強化薬買ったら銀貨五枚はするぞ!」
「トビー、声が大きい」
「だって! 銅貨三枚だぞ三枚! ありえないだろ!」
「断定はできない」ミラが手帳に書き込みながら言った。ペンの先が紙を強く押している。「でも、時間的に一致する。あのスープを飲んだ直後から、全員のステータスが変動してる。偶然にしては、条件が揃いすぎてる」
「ミラ、数値的にはどのくらい変わってるの?」ルークが聞いた。
「ルークの筋力が三割増し。私の魔力回復も二割は上がってる。トビーの索敵範囲も広がってる。一杯のスープでこれは、普通じゃない」
「こわっ」トビーが首をすくめた。「じゃあ何、あのおじさん実はとんでもない人なの?」
「おじさんって言うな。三十代だろ、たぶん」
「……あの人、自分で効果に気づいてない感じだった」エリカが小さく言った。「栄養バランスがいいから、って」
「それが一番おかしいのよ」ミラがペンを止めた。「あの効果を出せる人が、それを自覚してないなんて」
ミラがルークの肩に触れた。手帳に数字を書き込んで、眉を寄せた。
「ルーク、さっきより筋力が落ちてる」
「え?」
「三割増しだったのが、今は二割くらい。効果が減ってきてる」
全員の顔が変わった。
「え、待って。それって大丈夫なやつ?」トビーの声が少し上ずった。「ドーピングとかじゃないよな? 効果が切れた後に反動で体ぶっ壊れるとか、ないよな?」
「分からない」ミラが正直に言った。「前例がないから」
「こわっ……」
「ただ、エリカ。みんなの体に異常は?」
「ない」エリカが首を振った。「むしろ体の中は整ってる。変な負荷はかかってない。少なくとも今は」
「今は、ね」トビーが唸った。「つまり、いつか切れるってこと?」
「分からない。いつ切れるか、どこまで落ちるか、データが足りない」ミラは手帳を睨んでいた。「ただ、十八層でこのまま効果がゼロになったら」
言わなくても分かった。Fランクの四人が十八層に取り残される。
「戻ろう」ルークが言った。「十五層まで」
あの猫背の男。穏やかな声。エプロン姿。Fランクの飯屋。あのスープの茸の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
「もう一回食べに行こう」
「え?」
「今日も食べてみて、同じことが起きたら確定だろ。カイさんのところに行こう」
「賛成! 効果とか関係なく普通にまた食いたい!」トビーが手を上げた。
「私も。調べたいことがある」ミラが手帳を閉じた。
エリカは静かに頷いた。
ルークの提案に、全員が揃った。
---
同じ頃、カイは二十層にいた。
湿った空気が首筋に張りつく。天井から落ちた水滴が肩を叩いた。冷たい。洞窟の壁面を流れる地下水が、青白い苔の光を反射している。水面が揺れるたびに、天井に光の模様が走った。
カイはその中を、鼻歌まじりに歩いていた。
「この辺だな。水の匂いが変わった」
鉄っぽい鉱水の匂いが消えて、代わりに冷たい石と苔の匂いが鼻に届いた。清流の近くでしか嗅げない匂いだ。
立ち止まったのは、地下水脈が小さな池を作っている場所だった。天井から垂れる鍾乳石の間を、透明な水が流れ落ちている。水が落ちるたびに小さな音が響いて、洞窟の奥に吸い込まれていく。
水面に、魚影が見えた。
「いたいた」
カイはしゃがみ込んで水面を覗いた。体長三十センチほどの白い魚。目は退化して小さく、代わりにヒゲが長い。地底魚だ。
普通の冒険者なら、この魚を見ても「素材アイテム」としか思わない。ギルドに持ち帰れば、鱗が触媒として売れる。身は捨てる。ダンジョンの魚介は残留魔力が強く、普通に調理すると苦くて食べられない。
カイにとっては、宝の山だった。
「いい色してるな。鱗が透けてる。脂が乗ってる証拠だ」
指先で水面をそっと触れた。水温を確かめる。冷たい。これなら身が締まっているはずだ。
産卵前の個体。身に脂がたっぷり乗っていて、皮と身の間にゼラチン質が挟まっている。頭の中に、調理法が次々と浮かんでくる。
薄造り。
皮を引いて、身を薄く、光が透けるほど薄くそぎ切りにする。それを冷たい水で締めて、皿に花のように並べる。タレは柑橘系の果汁に、この階層の鉱泉水を少し混ぜて。あの脂の乗り方なら、舌に触れた瞬間とろける。そこに柑橘を合わせたら——。
「よし」
カイは靴を脱いだ。エプロンの裾をたくし上げて、池に足を入れる。水は冷たかったが、気にならなかった。足の裏に小石の感触。水面がカイのふくらはぎの周りで輪を作った。
地底魚が一斉に逃げる。カイの足が水に触れた瞬間、魚たちは波紋の反対方向へ散った。
だが、カイは慌てなかった。
水の中で足を止め、静かに立った。呼吸を整える。水面の揺れが収まるのを待つ。一分、二分。洞窟の中に水の滴る音だけが響いている。魚たちが警戒を解いて、ゆっくりと戻ってくる。白いひれが、カイの足首のすぐそばをかすめた。
手が、水中に沈んだ。
戻ってきた時には白い魚が握られていた。暴れる魚の急所を、左手の親指で正確に押さえる。一瞬で動きが止まった。
「いい脂の乗りだ」
持ち上げた魚の腹を、指の腹でそっと撫でた。ぷりっとした弾力。脂の乗りは申し分ない。鱗の隙間から透けて見える身は、薄桃色に近い白だった。
「二匹目」
カイは魚を背負い籠に入れて、再び水中で静止した。
だから気づいていない。池の底に潜んでいた何かが、カイが水に足を入れた瞬間に音もなく逃げ出したことに。
三匹目の魚を籠に入れたところで、カイは満足げに池から上がった。足を布で拭いて、靴を履き直す。
「三匹あれば十分だな。一匹は薄造り、一匹は煮付け、もう一匹は出汁に使おう」
背負い籠を担いで、来た道を戻り始めた。十五層の安全地帯まで、五つの階層を一人で歩く。籠の中で魚が時々跳ねた。
「元気がいいな」
笑って、そのまま歩き続けた。
---
十八層の通路に、人影があった。
前方から、誰かが歩いてくる。単独で。十八層を。
「嘘だろ」
トビーが声を上げた。
見覚えのある猫背。エプロン。背中に籠を背負っている。そこから、魚の白い尾びれが覗いていた。ぴくり、と尾が動く。生きている。
「あれ、お前ら」
カイが片手を上げた。昨日と同じ、穏やかな声。手のひらがすこし濡れていて、鱗が一枚くっついていた。
「なんでここにいるんだ? 十五層にいたじゃないか」
「それはこっちの台詞ですよ!」ルークが叫んだ。「ここ十八層ですよ!? Fランクが単独で!」
「ああ、二十層まで魚を採りに行ってきた」
「にじゅっ」トビーの声が裏返った。「に、二十層!?」
「うん。地底魚を採りに」
「いや『うん』じゃなくて! 二十層って、Dランク推奨の! 俺たち四人でこの十八層でもひいひい言ってるのに!」
「そうなのか? この辺はそんなに危なくないと思うけど」
「危なくない!?」トビーがルークの肩を掴んだ。「ルーク、この人やっぱりおかしい!」
「分かってる。分かってるから落ち着け」
カイは背中の籠を軽く揺すった。白い魚が三匹、きちんと並んでいる。鱗が苔の青白い光を受けて、淡く光っていた。
「二十層」ミラが絶句した。手帳を持つ手が止まっている。
「うん。地底魚。今が旬でさ。産卵前のやつは脂が乗ってて最高なんだ」
カイは嬉しそうに笑った。魚の話をする時だけ、目の輝きが一段上がる。
二十層に単独で行って帰ってきた。Fランクの飯屋が。魚を、採りに。
トビーが口をぱくぱくさせた。エリカはカイの足元を見ていた。靴の裏が少し濡れている。水場に入った痕だ。戦闘の痕跡は、どこにもない。
「……傷、一つもない」エリカが呟いた。
「え? ああ、別に何も出なかったよ。今日は静かだった」
四人の間に、また同じ沈黙が落ちた。
「お前ら、このあと十五層の安全地帯に戻るか? 戻るなら、今日は刺身出すぞ」
「刺身? それ、何ですか?」
ルークが首を傾げた。聞いたことのない言葉だった。
カイの目が変わった。さっきまでの穏やかな目が、一瞬でキラキラした子供みたいな目になった。
「刺身っていうのはな、魚を薄く切って、生で食うんだ」
「生で?」
「そう、生。火を通さない。その代わり、切り方がすべてだ。薄く、光が透けるくらい薄くそぎ切りにする。そうすると舌にのせた瞬間、脂がじわっと溶け出す。そこに柑橘の汁をちょっと垂らしてな」
カイの声がどんどん速くなる。手が勝手に動いて、包丁を引く動きをしている。
「待ってください。ダンジョンの魚って、生で食えるんですか? 残留魔力で苦いって聞きましたけど」
「普通はな。でも切り方と、下処理で魔力の流れを整えてやれば、むしろ地上の魚より美味い。鮮度がいいからな」
「魔力の流れを……切り方で?」ミラが手帳に何か書き殴った。
「さっき採ったばかりだから、鮮度は最高だ。口に入れた瞬間、脂が溶けるぞ」
カイが言った「脂が溶ける」という言葉に、ルークの腹が小さく鳴った。昨日のスープの味を、体が覚えている。
「カイさん、もうその話だけで腹が減ってきました」
ルークはミラと目を合わせた。ミラは小さく頷いた。手帳を握る手に力が入っている。
「行きます」
「よし。じゃあ先に戻って準備してるから。急がなくていいぞ、ゆっくり安全に来い」
カイは手を振って、先に歩き出した。十八層の通路を、何の警戒もなく。背中を完全にさらして。背負い籠から魚の尾がぴょこぴょこ揺れている。
その背中を見送りながら、トビーが小声で言った。
「……なあ」
「うん」
「あの人が歩いてきた通路、俺たちが来た時と静けさが違わなかったか」
四人は顔を見合わせた。ミラの手帳のページが、また一つ増えた。
誰も口にしなかった。
ルークは首を振った。考えても仕方がない。今は、あの刺身とやらを食べに行こう。
「よし、戻るぞ。カイさんが待ってる」
四人は足を速めた。十八層の薄暗い通路が、やけに短く感じた。




