第14話「磯の匂い」
布が肩にかかっていた。
イーリスは目を開けた。視界がぼやけている。屋台の柱が近い。背中が痛い。翼が両方とも広がったまま地面に垂れていて、畳もうとしたら体が重かった。
「……なんで、あたし」
記憶が途切れている。酒を飲んだ。二杯目の後がない。
カイが屋台の奥で鍋に火をつけていた。朝の仕込みだ。粥の準備。火穂麦の殻を剥く手が、淀みなく動いている。
「起きたか。水を飲め」
水筒を差し出された。イーリスは受け取って、半分くらい一気に飲んだ。冷たい鉱泉水が喉を通って、頭が少しだけ晴れた。
布を畳んだ。自分の匂いがついている。いつの間にかけてもらったのか。聞く気にはなれなかった。
「……帰る」
「ああ。気をつけてな」
イーリスは立ち上がって、通路の方に歩いていった。翼をぎゅっと畳んでいる。背中が小さかった。
カイは鍋に目を戻した。粒が鉱泉水の中で揺れている。石乳樹の樹液を足す。
「竜人族は酒に強いって言ってたけどな」
誰にも聞こえない声で言って、火加減を調整した。
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リナの粥を仕上げたのは昼前だった。岩貝の汁を四滴。洞苔の粉をひとつまみ。白い粥の上に深緑の粒が散って、磯の香りが一瞬だけ立つ。
昨日と同じ配合だ。リナが磯の香りを嫌がらなかったら、このまま続ける。
ルークが来たのは、粥に蓋をしたすぐ後だった。
四人だった。
ルーク、ミラ、トビー、エリカ。夜明けの灯の全員が揃っている。最後に四人で来たのはいつだったか。
「カイさん」
ルークの声がいつもと違った。高くも低くもない。ただ、震えている。
「どうした」
「妹が、歩いたんです」
カイの手が止まった。
「昨日の夜です。あの粥を食べさせて、朝起きたら、妹が布団から出てたんです。自分で。立ってたんです。まだ、ふらふらで、すぐ座り込んだんですけど」
ルークの目が赤い。まばたきの回数が多い。
「あの子、ずっと寝たきりだったんです。半年。手も足も動かなくて。それが、自分で立って、歩いたんです」
トビーが珍しく黙っている。エリカが、ルークの背中にそっと手を添えていた。
「ありがとう、ございます」
ルークが頭を下げた。声が掠れた。
カイは蓋をした器をルークに渡した。
「そうか。よかった」
それだけだった。表情もあまり変わらない。ただ、渡す手が丁寧だった。いつもより少しだけ、器を持つ指先に力が入っていた。
「今日の粥は昨日と同じ配合だ。磯っぽい香りがするけど、嫌がらなかったんだな」
「はい。全部食べました。『美味しい。もっとたべたい』って」
「そうか。じゃあこのまま続ける」
洞苔の粉は残り少ない。補充は十六層。岩貝もあと七つ。火穂麦は五本。リナの分を優先すると、イーリスの練習用がなくなる。二十二層に行かないと。
「カイさん」
ミラだった。手帳を開いている。
「昨日リナちゃんに粥を渡した時、器から残り香がしたので分析眼で見ました」
「ああ」
「前の粥と構造が違います。魔力の層が一つ増えてる。穀物と樹液の二層だったのが、三層になっています。新しい層は……水の属性? 海に近い何か」
「洞苔だ。十六層の壁に生えてる苔を乾燥させて粉にした」
ミラのペンが走った。「第三層=水属性(洞苔由来)。穀物×樹液×苔で三属性バランス」。
エリカが一歩前に出た。
「あの、私も報告が。昨日リナちゃんの足に触れたんですけど、筋繊維の修復が進んでます。硬くなってた筋肉が、ほんの少し柔らかくなってました」
「筋肉か」
「はい。深層熱は魔力の循環不全で筋肉が硬直するんです。粥で循環が戻り始めたから、筋肉も治ってきたんだと思います」
カイは腕を組んだ。リナの体の中で、粥がやっていることの輪郭が見え始めている。魔力の循環を整えて、固まった筋肉をほぐして、体が自分で動き出す力を取り戻す。
「まだ足りない」
「え?」
「粥だけだと、治るのに時間がかかる。もっと直接的に筋肉に届く料理がいる」
カイの目が棚に向いた。火穂麦の穂が五本並んでいる。赤い穂が魔石灯の光を受けている。
「お前ら飯、食ってけ」
カイは横穴から干し肉と洞窟米を出してきた。握り飯を四つ握って、干し肉を炙り、岩貝の汁を温めた。いつもの定食だ。
四人が食べている間に、カイは新しいことを始めた。
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火穂麦の穂を一本取った。四本はリナの粥用に残す。
殻を剥いて粒を取り出す。白い粒が十二個。これを石の上に並べた。
包丁の腹で叩いた。硬い粒が割れて、中から粉が散った。もう一度叩く。粉になった。白い粉が石の上に広がる。
指ですくって舐めた。穀物の甘さ。火穂麦の粒を丸ごと食べた時より、粉の方が甘みが強い。殻の渋みが消えて、中の味だけが残っている。
水を少し加えた。練る。粘りが出てきた。
石乳樹の樹液を足した。粘りが一段変わった。手にまとわりつく感触。弾力がある。引っ張ると伸びる。
粉を練って、薄く伸ばして、切る。細く、均等に。茹でると透き通る。器に盛って、熱い出汁をかける。湯気が立つ。名前は出てこない。でも覚えている。
まな板の上に生地を置いた。包丁の背で薄く伸ばす。手の平より少し大きい楕円形。厚さは小指の爪の半分。
包丁を持ち替えた。
すっ、すっ、すっ。
均等な幅で、生地が細く切れていく。白い線が並んだ。
鍋の鉱泉水が沸いている。
切った生地を落とした。白い線が湯の中で踊って、ゆっくり透き通っていく。粉の白さが消えて、半透明になる。表面に石乳樹の樹液の光沢が出る。
一本つまんで食べた。
つるっ、と滑った。歯に当たると弾力がある。噛むと穀物の甘さが口に広がって、樹液の脂が舌の上を滑る。飲み込んだ後、喉の奥にほんのり温かさが残る。
「……いけるな」
棚の奥から地底魚の骨出汁を出した。昨日の残りだ。鍋で温めると、魚の脂の甘い匂いが立つ。
出汁を器に張った。茹で上がった麺を箸で持ち上げて、出汁の中に落とす。白い麺が黄金色の出汁に沈む。表面に脂の膜が張って、湯気がゆらゆらと立ちのぼった。
洞苔の粉を指先でひとつまみ。麺の上に散らす。磯の香りが、魚の出汁と混ざった。
「食ってみろ」
四つの器を並べた。
トビーが最初に箸をつけた。麺を持ち上げて、目を丸くした。
「なにこれ、伸びてる。紐? 食べ物?」
口に入れた。
「つるっつる! え、なにこの食感。歯に当たるけど切れない。噛んだら甘い。うまっ。出汁と合う。なにこれ!」
ルークが黙って食べている。一口、二口、三口。箸が止まらない。
「……カイさん、これ火穂麦ですか」
「粉にして練って切った。茹でると形が変わる」
「火穂麦って粥にしか使えないと思ってました」
「粒で食う以外の方法があるってだけだ」
ミラが麺を一本つまんで、分析眼で見ている。ペンを持つ手が震えていた。
「バフ構造が粥と違う。粥は魔力が拡散して体全体に回るけど、これは……集中してる。練り込まれた分、魔力の密度が高い。粥が全身浸透型なら、これは一点集中型」
エリカがルークの肩に触れた。
「ルーク、今あなたの腕の筋力値が上がってます。食べてからまだ三分くらいなのに」
「え? いや確かに、なんかめちゃくちゃ調子いいんだけど」
「それカイさんの飯のせいだって言ってるでしょ」
ミラの声が少し呆れていた。このやりとりは何回目だろう。
カイは器を片付けながら考えていた。練り込むと魔力が集中する。粥より直接的に筋肉に届くかもしれない。
でも、麺は噛まないと飲み込めない。リナにはまだ無理だ。あの子の噛む力は戻っていない。粥なら飲み込めるが、麺の弾力は今のリナには重すぎる。
もっと柔らかい形にできないか。粉を練って、蒸したら。丸めて、蒸気で火を通したら、もっと柔らかくなるんじゃないか。噛まなくても舌で潰せるくらいの。
棚の火穂麦を見た。残り四本。リナの粥と、蒸す実験。両方はできない。二十二層に行かないと。
「カイさん」
ルークが空の器を持って立っていた。
「また来ます。妹の分の粥、明日もお願いします」
「ああ。磯の香り、嫌がらなかったんだな」
「好きみたいです。『海のにおい』って言ってました」
カイの手が止まった。
海の匂い。ダンジョンの苔の匂いを嗅いで「海」と言った十二歳。子供の鼻は正直だ。洞苔には水の属性がある。磯の香りはそこから来ている。
「いい鼻してるな」
「え?」
「なんでもない。明日も同じ粥を持ってこい」
ルーク達が帰っていった。四人の背中が通路の向こうに消えた。
カイは棚を拭いた。リナの紙が見えた。その横に、火穂麦の穂が四本。
蒸す形を試したい。でも火穂麦が足りない。
二十二層。イーリスに声をかけておこう。あいつの鼻があると食材が見つかりやすい。
明日の粥を仕込みながら、手が勝手に粉を練る動きを繰り返していた。




