第13話「酒と熟成肉」
洞苔が乾いていた。
屋台の棚の隅に吊るしておいた緑色の塊が、一晩で縮んで硬くなっている。カイは指先で触った。ぱりっ、と薄い欠片が剥がれた。鼻に近づけると、磯に似た香りが凝縮されている。
「よし」
石臼の代わりに包丁の腹で押し潰す。乾燥した苔は簡単に粉になった。深い緑色の粉が、まな板の上に小さな山を作る。
指先につけて舐めた。
塩気と、海の底みたいな匂い。重たい旨味が舌の奥に残る。これを粥の仕上げに散らしたら、穀物の甘さに深い味わいが加わるはずだ。
火穂麦の殻を剥く。昨日採った七本のうち二本を使う。残りはイーリスの練習用だ。殻の赤い筋に沿って爪を入れると、ぱきっと音がして中から白い粒が転がり出る。この殻だけを割って中身を傷つけない加減は、もう手が覚えている。
鍋に鉱泉水を張って、粒を入れる。石乳樹の樹液を足す。白い液体が水に溶けると、鍋の中がうっすら濁った。
火をつけた。
あとは待つだけだ。弱火のまま、粒がほどけるまで。
棚のリナの紙が見えた。今日の粥は岩貝の汁を三滴から四滴に増やす。そこに洞苔の粉を仕上げに少しだけ。穀物の優しさの奥に、磯の香りがほんの一瞬だけ顔を出す。そういう粥にしたい。
鍋がことこと言い始めた。湯気が立ち上る。粒の角が丸くなっていく匂いが鼻に届く。
「……いい匂い」
イーリスが来ていた。屋台の端に座って、膝を抱えている。翼を畳んで、鍋を見ている。
「早いな」
「別に。匂いがしたから」
十五層分の距離を匂いで嗅ぎつけてくるわけがないが、カイはそういうものだと思っている。イーリスの鼻は普通じゃない。
「今日のは洞苔の粉を試す。やってみるか」
イーリスが立ち上がった。棚から火穂麦の穂を一本取る。殻に爪を当てて、息を吐いて、割った。
粒が無傷で転がり出た。
「七割だったのが八割になってるな」
「数えてるの」
「料理人の癖だ」
イーリスが二本目に手を伸ばす。殻を割る手つきが前より迷わなくなっている。力を入れすぎて粒を潰す回数が減った。教えたのは「息を吐きながら」だけだ。あとはイーリスが勝手に学んでいる。
「火はあたしがやる」
「いいぞ。弱火な」
イーリスが練習用の小鍋に粒を入れて、樹液を足して、火をつけた。そしてじっと鍋を見ている。手を出さない。前は一分も待てなかった。今はちゃんと待てるようになった。
カイの鍋がとろりとしてきた。岩貝を一つ割って、汁を四滴。
粥の表面に小さな波紋が広がって、消えた。
匂いが変わった。穀物の甘さの下に、貝の出汁が沈む。
仕上げに洞苔の粉を親指と人差し指でひとつまみ。粥の上に散らすと、白い表面に深緑の点が浮かんだ。
磯の香りが一瞬だけ立った。すぐに穀物の湯気に溶けて消える。
「完成だ」
カイは匙ですくって口に入れた。
穀物が舌の上でほどけて、樹液の脂が口の中を滑る。そこに岩貝の塩気が来て、最後に洞苔の旨味が喉の奥で残る。四つの味が順番に来て、消える時は一緒だ。
「……うまいな」
自分の料理に「うまい」と言うのは珍しい。でも、これはうまい。リナが食べたら、体の冷たいところがもう少し温まるはずだ。根拠はないが、そういう粥になっている。
イーリスが鼻を動かした。
「前のと違う。味の奥に何かいる」
「洞苔の粉だ。お前が十六層で見つけたやつ」
イーリスの角の根元がほんのり熱を持った。甘い匂いがかすかに漂う。自分が見つけた食材がカイの料理に入った。それだけのことに、体温が上がった。
「食ってみるか」
「……もらう」
イーリスが匙を受け取って、粥を口に入れた。目を閉じた。
「甘いのに、海みたいなのが来る」
「そう。それが洞苔だ」
「あたしの鍋にも入れていい?」
「いいぞ。ひとつまみだけな」
イーリスが自分の練習粥に洞苔の粉を散らした。カイの真似をして、親指と人差し指でひとつまみ。分量は正確だった。鼻がいいから、匂いの変化で量を測れるのかもしれない。
ルークが来たのは昼前だった。
「カイさん、今日もお願いします」
「できてるぞ。気をつけて運べよ」
蓋をした器をルークに渡す。
「今日のは新しい食材を入れてある。少し苔の塩気がするかもしれない。リナが嫌がったら外せるから、教えてくれ」
「分かりました。いつもありがとうございます」
ルークの背中を見送った。
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ヴァルダが来たのは、魔石灯が橙色に変わる頃だった。
片手に革袋を提げている。中で液体が揺れる音がした。
「持ってきたぞ。地底麦酒の十年物だ」
「開けていいか」
「そのために持ってきた」
カイが革袋の栓を抜くと、甘い香りが広がった。穀物を発酵させて、長い時間が丸くした匂い。色は琥珀色で、光を透かすと金に近い。
「いい色してる」
料理人の目で酒を見ている。酒そのものが好きなわけじゃない。この香りに何を合わせるかを考えている。
「つまみを作る。少し待ってくれ」
カイは屋台の奥から革の袋を取り出した。使い込まれた茶色い革袋で、口が紐で縛ってある。
「それ、いつもの袋?」
イーリスが袋を見ている。昨日、入れればいいのにと言ったあの袋だ。
「ああ。保存袋っていって、中の時間が遅くなる。食材の鮮度が保てるんだ」
「……時間が遅くなるの? ただの袋じゃなかったの」
「冒険者時代から使ってる。食材を入れとくのにちょうどいいんだ」
ヴァルダの目が一瞬だけ細くなった。冒険者時代。保存袋はBランク以上の冒険者が使う装備だ。Fランクの飯屋が持っているものじゃない。
だが、何も言わなかった。イーリスとの約束がある。
カイが袋の口を開けて、中から肉の塊を取り出した。拳より少し大きい、赤黒い肉。表面に薄い脂の膜が張っている。
「深層の岩牛の腿肉だ。袋に入れてから三年くらいになる。中で勝手に熟成が進んでた」
包丁を手に取った。
一枚目を切った瞬間、屋台に肉の香りが満ちた。
断面がルビー色をしていた。赤と紫の中間で、脂の白い筋が細く走っている。切り口から肉汁がにじむのではなく、しっとりと表面に留まっている。時間が水分を抜いて、旨味だけを残した肉だった。
カイは薄く、薄く切った。包丁が肉に触れるたびに、新しい断面が光を受ける。五枚、六枚、七枚。皿に並べると花びらが開いたように見えた。
「時間が一番の調味料だ。こいつには何も足さなくていい」
ヴァルダが息を飲んだ。肉の色を見ている。三年の熟成が作った色を。
次に岩窟茸。火竜草の脂を塗って蒸し焼きにする。前にヴァルダに出した時にうまいと言ってもらえた。同じ作り方でいい。
最後に洞苔の佃煮。乾燥させた苔を少量の水で戻して、岩貝の汁と一緒に小鍋で煮詰める。水分が飛ぶにつれて、磯の香りが濃くなっていく。粘り気が出て、箸で持ち上がるくらいになったら火を止める。
三皿を屋台の板に並べた。
ルビー色の熟成肉。湯気の立つ岩窟茸の蒸し焼き。小鉢に盛った深緑色の佃煮。
「さあ、飲もう」
ヴァルダが三つの器に酒を注いだ。琥珀色の液体が器の中で揺れる。
「イーリスも飲むか」
「……飲んだことない」
「一口だけ試してみろ。合わなかったらやめればいい」
イーリスが器を受け取った。中の液体を嗅いだ。眉をひそめたが、口をつけた。
一口、含んだ。
体が熱くなった。イーリスの肌が首筋から赤くなって、翼がばさっと開いた。そして、力が抜けた。畳んでいた翼が自分の意思とは関係なく、だらりと下がった。尻尾が地面に垂れた。
「なに、これ」
声が少しふわついている。
「合わなかったか?」
「……別に。まずくはない」
翼が自分で畳めなくなっている。カイの隣に座っているイーリスの左翼が、カイの肩のすぐ近くまで垂れていた。本人は気づいていない。
ヴァルダが熟成肉を一枚つまんで口に入れた。
噛まずに舌の上で溶かしている。目を閉じた。
「……これは、すごいな」
「時間が仕事をしてくれた。俺はただ袋に入れといただけだ」
「入れておくだけで、こうはならない。元の肉の処理がいいからだ」
カイは首を傾げた。岩牛の腿肉を血抜きして、筋を丁寧に取って、塩を薄くすり込んでから袋に入れた。それだけだ。料理人にとっては当たり前の下処理で、特別なことをした覚えはない。
イーリスも肉を口に入れた。
噛んだ瞬間、翼がぴくっと動いた。
「……なにこれ。肉なのに、肉じゃない。噛んだら溶ける。でも味がずっと残ってる」
「熟成ってのはそういうもんだ。時間がたんぱく質を分解して、旨味に変える」
「たんぱくしつ」
「まあ、肉の中身だ」
イーリスが二枚目に手を伸ばした。洞苔の佃煮を少しつけて食べた。目が大きくなった。
「苔のやつと肉が合う」
「だろ。酒のつまみはこういうのが一番だ」
ヴァルダが佃煮を箸でつまんで、酒で流し込んだ。
「この苔の煮たやつ。うまいな。甘辛くて、酒に合う」
「洞苔って独特の匂いがするだろ。煮詰めると旨味が濃くなるんだ」
カイは自分も酒を飲んだ。十年物の地底麦酒は、喉を通る時にかすかに甘くて、後味が穀物の香ばしさに変わる。悪くない。
ヴァルダとカイが杯を重ねた。ヴァルダは昨日の仕入れのことを聞かなかった。リザードマンが逃げたことも、火蜥蜴が服従したことも、壁を片手で登ったことも。黙っていた。
「いい酒には、いいつまみが要る。今日は当たりだ」
「ヴァルダさんの酒がいいからだ。十年物なんてそう手に入らないだろ」
「知り合いの醸造家が深層に蔵を持っている。温度が一定でな。酒の熟成には最高の環境だ」
深層の蔵。温度管理。熟成。カイの頭が動いた。食材の保存に使えないか。いや、蔵の場所を聞いておこう。何かに使えるかもしれない。
イーリスが二杯目を飲んだ。
翼がさらに緩んだ。もう畳もうとすらしていない。左翼がカイの肩にほとんど触れている。薄い膜のような翼が、体温を持っている。
「イーリス、眠いのか」
「眠くない」
声が緩い。角の根元からずっと湯気が出ている。体全体が熱い。酒のせいか、炎の属性が表面に出ているのか。
「酒に強いのか弱いのか分からないな、竜人族は」
「強いに決まってるでしょ。火の属性なんだから」
翼は言うことを聞いていなかった。
ヴァルダが静かに笑った。イーリスの翼がカイに寄っているのを見ている。何も言わなかった。
三人で岩窟茸の最後の一切れを分けた。蒸し焼きの茸は噛むと汁が出て、火竜草の脂の香りが口に広がる。酒で流すと、喉の奥で味が一つになった。
カイは佃煮の小鉢を片付けながら、明日の粥のことを考えていた。洞苔の粉は入れすぎると粥の甘さを殺す。今日のひとつまみがちょうどいい。
「カイ」
ヴァルダが立ち上がった。大剣を背負い直して、杯を屋台の板に置いた。
「今日はいい夜だった。礼を言う」
「こっちこそ。酒がうまかった」
ヴァルダが一歩踏み出して、振り返った。
「一つ聞いていいか」
「なんだ」
「この苔の煮たやつ。どこの料理だ」
カイの手が止まった。
「私はそれなりに各地を回ったが、苔を煮詰めて甘辛くする料理法は見たことがない。ダンジョン内にもない。地上の港町にも、東の湿地帯にもない」
ヴァルダの目がまっすぐカイを見ている。問い詰めているのではない。純粋な好奇心と、少しの確認。
「……どこだろうな」
カイは手を動かしながら答えた。
「なんか、知ってたんだよな。苔を見た時に。こうすればうまくなるって。理由は分からない」
ヴァルダはしばらく黙っていた。
「そうか」
それだけ言って、歩いていった。
カイは皿を洗った。岩窟茸の脂が残った皿を丁寧に拭いて、佃煮の小鉢を水で流して、肉を切ったまな板を磨いた。
ふと横を見た。
イーリスが屋台の柱にもたれて目を閉じていた。翼が両方とも広がったまま、地面に届きそうなくらい垂れている。角の根元の熱も引いている。匂いは消えていた。寝息が聞こえた。
「……寝たのか」
屋台の端に畳んであった布を広げて、イーリスの肩にかけた。翼の上から布をかけると、形が少し膨らんだ。
外套を着ていない。角も翼もむき出しのまま、眠っている。
カイは魔石灯の火を落として、保存袋に残った熟成肉を戻した。袋の口を紐で縛って、棚に置く。
リナの紙が見えた。
明日の粥。洞苔はひとつまみ。岩貝は四滴。樹液は今日と同じ量。リナが磯の香りを嫌がらなければ、このまま続ける。
火穂麦の穂が五本残っている。イーリスの練習で二本使ったから、あと三本。近いうちにまた二十二層に行かないといけない。
イーリスの寝息が規則正しく聞こえている。
カイは包丁を研ぎ始めた。明日の準備だ。




