表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最強の飯屋、ダンジョンで開店します ~元S級の料理にはバフがつくらしい~  作者: 元ROM専


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/14

第13話「酒と熟成肉」

 洞苔が乾いていた。


 屋台の棚の隅に吊るしておいた緑色の塊が、一晩で縮んで硬くなっている。カイは指先で触った。ぱりっ、と薄い欠片が剥がれた。鼻に近づけると、磯に似た香りが凝縮されている。


「よし」


 石臼の代わりに包丁の腹で押し潰す。乾燥した苔は簡単に粉になった。深い緑色の粉が、まな板の上に小さな山を作る。


 指先につけて舐めた。


 塩気と、海の底みたいな匂い。重たい旨味が舌の奥に残る。これを粥の仕上げに散らしたら、穀物の甘さに深い味わいが加わるはずだ。


 火穂麦の殻を剥く。昨日採った七本のうち二本を使う。残りはイーリスの練習用だ。殻の赤い筋に沿って爪を入れると、ぱきっと音がして中から白い粒が転がり出る。この殻だけを割って中身を傷つけない加減は、もう手が覚えている。


 鍋に鉱泉水を張って、粒を入れる。石乳樹の樹液を足す。白い液体が水に溶けると、鍋の中がうっすら濁った。


 火をつけた。


 あとは待つだけだ。弱火のまま、粒がほどけるまで。


 棚のリナの紙が見えた。今日の粥は岩貝の汁を三滴から四滴に増やす。そこに洞苔の粉を仕上げに少しだけ。穀物の優しさの奥に、磯の香りがほんの一瞬だけ顔を出す。そういう粥にしたい。


 鍋がことこと言い始めた。湯気が立ち上る。粒の角が丸くなっていく匂いが鼻に届く。


「……いい匂い」


 イーリスが来ていた。屋台の端に座って、膝を抱えている。翼を畳んで、鍋を見ている。


「早いな」


「別に。匂いがしたから」


 十五層分の距離を匂いで嗅ぎつけてくるわけがないが、カイはそういうものだと思っている。イーリスの鼻は普通じゃない。


「今日のは洞苔の粉を試す。やってみるか」


 イーリスが立ち上がった。棚から火穂麦の穂を一本取る。殻に爪を当てて、息を吐いて、割った。


 粒が無傷で転がり出た。


「七割だったのが八割になってるな」


「数えてるの」


「料理人の癖だ」


 イーリスが二本目に手を伸ばす。殻を割る手つきが前より迷わなくなっている。力を入れすぎて粒を潰す回数が減った。教えたのは「息を吐きながら」だけだ。あとはイーリスが勝手に学んでいる。


「火はあたしがやる」


「いいぞ。弱火な」


 イーリスが練習用の小鍋に粒を入れて、樹液を足して、火をつけた。そしてじっと鍋を見ている。手を出さない。前は一分も待てなかった。今はちゃんと待てるようになった。


 カイの鍋がとろりとしてきた。岩貝を一つ割って、汁を四滴。


 粥の表面に小さな波紋が広がって、消えた。


 匂いが変わった。穀物の甘さの下に、貝の出汁が沈む。


 仕上げに洞苔の粉を親指と人差し指でひとつまみ。粥の上に散らすと、白い表面に深緑の点が浮かんだ。


 磯の香りが一瞬だけ立った。すぐに穀物の湯気に溶けて消える。


「完成だ」


 カイは匙ですくって口に入れた。


 穀物が舌の上でほどけて、樹液の脂が口の中を滑る。そこに岩貝の塩気が来て、最後に洞苔の旨味が喉の奥で残る。四つの味が順番に来て、消える時は一緒だ。


「……うまいな」


 自分の料理に「うまい」と言うのは珍しい。でも、これはうまい。リナが食べたら、体の冷たいところがもう少し温まるはずだ。根拠はないが、そういう粥になっている。


 イーリスが鼻を動かした。


「前のと違う。味の奥に何かいる」


「洞苔の粉だ。お前が十六層で見つけたやつ」


 イーリスの角の根元がほんのり熱を持った。甘い匂いがかすかに漂う。自分が見つけた食材がカイの料理に入った。それだけのことに、体温が上がった。


「食ってみるか」


「……もらう」


 イーリスが匙を受け取って、粥を口に入れた。目を閉じた。


「甘いのに、海みたいなのが来る」


「そう。それが洞苔だ」


「あたしの鍋にも入れていい?」


「いいぞ。ひとつまみだけな」


 イーリスが自分の練習粥に洞苔の粉を散らした。カイの真似をして、親指と人差し指でひとつまみ。分量は正確だった。鼻がいいから、匂いの変化で量を測れるのかもしれない。


 ルークが来たのは昼前だった。


「カイさん、今日もお願いします」


「できてるぞ。気をつけて運べよ」


 蓋をした器をルークに渡す。


「今日のは新しい食材を入れてある。少し苔の塩気がするかもしれない。リナが嫌がったら外せるから、教えてくれ」


「分かりました。いつもありがとうございます」


 ルークの背中を見送った。


 ---


 ヴァルダが来たのは、魔石灯が橙色に変わる頃だった。


 片手に革袋を提げている。中で液体が揺れる音がした。


「持ってきたぞ。地底麦酒の十年物だ」


「開けていいか」


「そのために持ってきた」


 カイが革袋の栓を抜くと、甘い香りが広がった。穀物を発酵させて、長い時間が丸くした匂い。色は琥珀色で、光を透かすと金に近い。


「いい色してる」


 料理人の目で酒を見ている。酒そのものが好きなわけじゃない。この香りに何を合わせるかを考えている。


「つまみを作る。少し待ってくれ」


 カイは屋台の奥から革の袋を取り出した。使い込まれた茶色い革袋で、口が紐で縛ってある。


「それ、いつもの袋?」


 イーリスが袋を見ている。昨日、入れればいいのにと言ったあの袋だ。


「ああ。保存袋っていって、中の時間が遅くなる。食材の鮮度が保てるんだ」


「……時間が遅くなるの? ただの袋じゃなかったの」


「冒険者時代から使ってる。食材を入れとくのにちょうどいいんだ」


 ヴァルダの目が一瞬だけ細くなった。冒険者時代。保存袋はBランク以上の冒険者が使う装備だ。Fランクの飯屋が持っているものじゃない。


 だが、何も言わなかった。イーリスとの約束がある。


 カイが袋の口を開けて、中から肉の塊を取り出した。拳より少し大きい、赤黒い肉。表面に薄い脂の膜が張っている。


「深層の岩牛の腿肉だ。袋に入れてから三年くらいになる。中で勝手に熟成が進んでた」


 包丁を手に取った。


 一枚目を切った瞬間、屋台に肉の香りが満ちた。


 断面がルビー色をしていた。赤と紫の中間で、脂の白い筋が細く走っている。切り口から肉汁がにじむのではなく、しっとりと表面に留まっている。時間が水分を抜いて、旨味だけを残した肉だった。


 カイは薄く、薄く切った。包丁が肉に触れるたびに、新しい断面が光を受ける。五枚、六枚、七枚。皿に並べると花びらが開いたように見えた。


「時間が一番の調味料だ。こいつには何も足さなくていい」


 ヴァルダが息を飲んだ。肉の色を見ている。三年の熟成が作った色を。


 次に岩窟茸。火竜草の脂を塗って蒸し焼きにする。前にヴァルダに出した時にうまいと言ってもらえた。同じ作り方でいい。


 最後に洞苔の佃煮。乾燥させた苔を少量の水で戻して、岩貝の汁と一緒に小鍋で煮詰める。水分が飛ぶにつれて、磯の香りが濃くなっていく。粘り気が出て、箸で持ち上がるくらいになったら火を止める。


 三皿を屋台の板に並べた。


 ルビー色の熟成肉。湯気の立つ岩窟茸の蒸し焼き。小鉢に盛った深緑色の佃煮。


「さあ、飲もう」


 ヴァルダが三つの器に酒を注いだ。琥珀色の液体が器の中で揺れる。


「イーリスも飲むか」


「……飲んだことない」


「一口だけ試してみろ。合わなかったらやめればいい」


 イーリスが器を受け取った。中の液体を嗅いだ。眉をひそめたが、口をつけた。


 一口、含んだ。


 体が熱くなった。イーリスの肌が首筋から赤くなって、翼がばさっと開いた。そして、力が抜けた。畳んでいた翼が自分の意思とは関係なく、だらりと下がった。尻尾が地面に垂れた。


「なに、これ」


 声が少しふわついている。


「合わなかったか?」


「……別に。まずくはない」


 翼が自分で畳めなくなっている。カイの隣に座っているイーリスの左翼が、カイの肩のすぐ近くまで垂れていた。本人は気づいていない。


 ヴァルダが熟成肉を一枚つまんで口に入れた。


 噛まずに舌の上で溶かしている。目を閉じた。


「……これは、すごいな」


「時間が仕事をしてくれた。俺はただ袋に入れといただけだ」


「入れておくだけで、こうはならない。元の肉の処理がいいからだ」


 カイは首を傾げた。岩牛の腿肉を血抜きして、筋を丁寧に取って、塩を薄くすり込んでから袋に入れた。それだけだ。料理人にとっては当たり前の下処理で、特別なことをした覚えはない。


 イーリスも肉を口に入れた。


 噛んだ瞬間、翼がぴくっと動いた。


「……なにこれ。肉なのに、肉じゃない。噛んだら溶ける。でも味がずっと残ってる」


「熟成ってのはそういうもんだ。時間がたんぱく質を分解して、旨味に変える」


「たんぱくしつ」


「まあ、肉の中身だ」


 イーリスが二枚目に手を伸ばした。洞苔の佃煮を少しつけて食べた。目が大きくなった。


「苔のやつと肉が合う」


「だろ。酒のつまみはこういうのが一番だ」


 ヴァルダが佃煮を箸でつまんで、酒で流し込んだ。


「この苔の煮たやつ。うまいな。甘辛くて、酒に合う」


「洞苔って独特の匂いがするだろ。煮詰めると旨味が濃くなるんだ」


 カイは自分も酒を飲んだ。十年物の地底麦酒は、喉を通る時にかすかに甘くて、後味が穀物の香ばしさに変わる。悪くない。


 ヴァルダとカイが杯を重ねた。ヴァルダは昨日の仕入れのことを聞かなかった。リザードマンが逃げたことも、火蜥蜴が服従したことも、壁を片手で登ったことも。黙っていた。


「いい酒には、いいつまみが要る。今日は当たりだ」


「ヴァルダさんの酒がいいからだ。十年物なんてそう手に入らないだろ」


「知り合いの醸造家が深層に蔵を持っている。温度が一定でな。酒の熟成には最高の環境だ」


 深層の蔵。温度管理。熟成。カイの頭が動いた。食材の保存に使えないか。いや、蔵の場所を聞いておこう。何かに使えるかもしれない。


 イーリスが二杯目を飲んだ。


 翼がさらに緩んだ。もう畳もうとすらしていない。左翼がカイの肩にほとんど触れている。薄い膜のような翼が、体温を持っている。


「イーリス、眠いのか」


「眠くない」


 声が緩い。角の根元からずっと湯気が出ている。体全体が熱い。酒のせいか、炎の属性が表面に出ているのか。


「酒に強いのか弱いのか分からないな、竜人族は」


「強いに決まってるでしょ。火の属性なんだから」


 翼は言うことを聞いていなかった。


 ヴァルダが静かに笑った。イーリスの翼がカイに寄っているのを見ている。何も言わなかった。


 三人で岩窟茸の最後の一切れを分けた。蒸し焼きの茸は噛むと汁が出て、火竜草の脂の香りが口に広がる。酒で流すと、喉の奥で味が一つになった。


 カイは佃煮の小鉢を片付けながら、明日の粥のことを考えていた。洞苔の粉は入れすぎると粥の甘さを殺す。今日のひとつまみがちょうどいい。


「カイ」


 ヴァルダが立ち上がった。大剣を背負い直して、杯を屋台の板に置いた。


「今日はいい夜だった。礼を言う」


「こっちこそ。酒がうまかった」


 ヴァルダが一歩踏み出して、振り返った。


「一つ聞いていいか」


「なんだ」


「この苔の煮たやつ。どこの料理だ」


 カイの手が止まった。


「私はそれなりに各地を回ったが、苔を煮詰めて甘辛くする料理法は見たことがない。ダンジョン内にもない。地上の港町にも、東の湿地帯にもない」


 ヴァルダの目がまっすぐカイを見ている。問い詰めているのではない。純粋な好奇心と、少しの確認。


「……どこだろうな」


 カイは手を動かしながら答えた。


「なんか、知ってたんだよな。苔を見た時に。こうすればうまくなるって。理由は分からない」


 ヴァルダはしばらく黙っていた。


「そうか」


 それだけ言って、歩いていった。


 カイは皿を洗った。岩窟茸の脂が残った皿を丁寧に拭いて、佃煮の小鉢を水で流して、肉を切ったまな板を磨いた。


 ふと横を見た。


 イーリスが屋台の柱にもたれて目を閉じていた。翼が両方とも広がったまま、地面に届きそうなくらい垂れている。角の根元の熱も引いている。匂いは消えていた。寝息が聞こえた。


「……寝たのか」


 屋台の端に畳んであった布を広げて、イーリスの肩にかけた。翼の上から布をかけると、形が少し膨らんだ。


 外套を着ていない。角も翼もむき出しのまま、眠っている。


 カイは魔石灯の火を落として、保存袋に残った熟成肉を戻した。袋の口を紐で縛って、棚に置く。


 リナの紙が見えた。


 明日の粥。洞苔はひとつまみ。岩貝は四滴。樹液は今日と同じ量。リナが磯の香りを嫌がらなければ、このまま続ける。


 火穂麦の穂が五本残っている。イーリスの練習で二本使ったから、あと三本。近いうちにまた二十二層に行かないといけない。


 イーリスの寝息が規則正しく聞こえている。


 カイは包丁を研ぎ始めた。明日の準備だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ