第12話「同行者」
翌朝、カイが屋台の片付けを終えた時にはもう二人が来ていた。
イーリスは壁にもたれている。銀色の髪が肩にかかって、翼を畳んでいる。ヴァルダは大剣を背負ったまま、安全地帯の入口に立って腕を組んでいた。
「早いな、二人とも」
「あなたが遅いのよ」
イーリスが言った。ヴァルダは黙って口の端を上げただけだった。
カイは背負い籠を担いだ。中には空の布袋と水筒、予備の包丁が一本。それと、朝のうちに作った洞苔巻きの握り飯が六つ。洞窟米を握って、戻した洞苔で巻いてある。苔の塩気が布越しに漂っていた。鎧も武器もない。いつも通りのエプロン姿に、猫背。
「弁当まで作ってきたのか」ヴァルダが籠を覗いた。
「歩くなら食わないと。三人分だ」
ヴァルダの目が細くなった。
「二十二層の火穂麦と、二十八層の石乳樹。道中で何か見つけたら拾う。帰りは転送門を使ってもいい」
「転送門? 使わないんじゃなかったの」
イーリスが首を傾げた。前回は十五層分を全部歩いた。
「荷物が多くなるかもしれないからな。帰りだけは楽しよう」
「あなた、荷物が多くなるほど採る気なの」
「食材があったら採る。当然だろ」
ヴァルダが小さく笑った。声には出さなかったが、肩が揺れていた。
三人は安全地帯を出た。
十六層は薄暗い。天井が低くて、壁を覆う苔が魔石の光を弱く反射している。カイは壁を見ながら歩いた。前回採った洞苔の場所を通り過ぎる。
「この苔、乾燥させてるところだ。もう少し乾いたら粉にできる」
「苔を食うのか」ヴァルダが聞いた。
「出汁を取るんだ。汁物に入れると、とろっとした食感になる」
「苔で出汁」
「いい匂いがするぞ。乾くと香りが強くなる」
ヴァルダは壁の苔をちらっと見た。ダンジョンに二十年潜ってきて、壁の苔を食材として見たことは一度もなかった。
十七層。水が壁を伝って流れている。岩の窪みに小さな水溜まりがいくつもあって、底に灰色の殻がちらちら見える。
「岩貝だ。前回ここで採った。今日も補充しておくか」
カイは水溜まりに手を突っ込んで、殻を三つ拾い上げた。拳大の貝を布袋に入れる。手が濡れたのをエプロンで拭いた。
「粥に使った貝だね」イーリスが言った。
「ああ。汁が粥に合う。三滴で味が変わるんだ」
ヴァルダが水溜まりを覗いた。岩貝は見える。だがこの階層の水場には毒を持つ水棲虫が潜んでいることがある。普通の冒険者は素手で水に手を入れない。
カイは何の躊躇もなく手を突っ込んでいた。
十八層。リザードマンの領域だ。通路が広くなって、天井に蔦のような根が垂れ下がっている。
ヴァルダは自然と大剣の柄に手をかけた。A級冒険者の習慣だ。この階層はDランク相当のモンスターが出る。Fランクの飯屋を連れて歩いている以上、守る義務がある。
通路の曲がり角で、リザードマンが二体、岩の上に座っていた。鱗が緑色に鈍く光っている。こちらを見ている。
ヴァルダの手に力が入った。
カイが歩みを止めなかった。
曲がり角を曲がった。リザードマンの横を通り過ぎる。二体の距離は三メートルもない。
リザードマンが動いた。ヴァルダの体が反応した瞬間、蜥蜴の人型は逃げていた。二体とも通路の奥に消えた。背中を見せて、全力で。
静寂。
「あいつら、臆病なんだよな」
カイが振り返った。穏やかな顔をしている。
「……臆病?」
ヴァルダの声が低かった。
「うん。人が近づくとすぐ逃げる。この辺のリザードマンは大人しい」
ヴァルダは大剣の柄から手を離した。指先が白くなるほど握っていたことに、自分で気づいた。
あのリザードマンは逃げたのではない。怯えたのだ。Dランクの魔物が、全力で逃げた。
カイの横を通り過ぎようとした瞬間に。
イーリスがヴァルダの横に並んだ。小声で、カイに聞こえないように言った。
「言っても無駄よ。あの人、本気で気づいてないから」
ヴァルダはイーリスを見下ろした。金色の瞳が、どこか諦めたような光を帯びている。
「嬢ちゃん、お前はどこまで知ってるんだ」
「知らない。でも、ただの飯屋じゃないのは分かってる」
「同感だ」
二人は黙って、カイの背中を追った。エプロン姿の猫背の男が、Dランク推奨の十八層を鼻歌交じりに歩いている。籠が背中でかたかたと揺れている。
二十一層から空気が変わった。乾いた熱が足元から這い上がってくる。
ヴァルダは平気だった。三十層帰りで、この程度の熱は慣れている。
カイは額の汗を拭いた。暑そうだが、足は止めない。
イーリスは平気だった。竜人族の体は熱に強い。翼を少し広げて、呼吸が深くなっている。
二十二層。赤い穂をつけた草が、通路の壁際に群生していた。穂先がぱちぱちと火花を散らしている。
「あれが火穂麦か」
ヴァルダが目を細めた。火属性の植物だ。素手で触れば火傷する。通常なら耐熱手袋か、魔道具で火花を抑えてから採取する。
カイは水筒の水を手ぬぐいに含ませた。
「濡らした布で穂を包めば火花は抑えられる。根元から折れば、穂ごと取れる」
カイが穂に手を伸ばした。濡れた布が穂に触れると、じゅっと蒸気が上がった。火花が消える。その隙に穂を折り取る。蒸気で手が赤くなっているが、カイは気にしていない。
「もう一本。いや、もう三本くらい欲しいな」
同じ手順で、次々と穂を折り取っていく。布を濡らし直して、穂を包んで、折る。五秒で一本。手際が良いというより、もう何度もやっている手つきだった。
ヴァルダは見ていた。
この男の手は、火花の中でまったく迷わなかった。穂を掴む位置、布を当てる角度、折るタイミング。全てに無駄がない。料理人の手というのは、こういうものなのか。
「ヴァルダさん、籠を持ってもらっていいか。穂が入りきらない」
「ああ」
ヴァルダは籠を受け取った。赤い穂が七本、濡れた布に包まれて並んでいる。まだ温かい。
「前回は五本だったから、今回は多めに採っておく。イーリスの練習用もいるからな」
「練習?」
「粥の作り方を教えてるんだ。殻の剥き方と火加減」
ヴァルダはイーリスを見た。イーリスはそっぽを向いている。角の根元がうっすら赤い。
「弟子じゃないって言ってたな」
「弟子じゃない。粥を教えてるだけだ」
「まあ、そういうことにしておくか」
ヴァルダの口元が緩んだ。
カイが足を止めた。通路の壁際に、地面から突き出た赤黒い根がある。
「ヴァルダさん、これ知ってるか」
「溶岩芋だな。この辺の地中に生える。硬くて食えたもんじゃないが」
「生じゃな」
カイは包丁で根を掘り出した。拳二つ分くらいの赤い芋だ。近くの溶岩石に手を当てて温度を確かめた。
「ここの石、ちょうどいい温度だ」
芋を石の上に置いた。
「帰りに回収する。石の余熱でじっくり焼けてるはずだ」
「ダンジョンで芋を焼くのか」ヴァルダが呆れた顔をした。
「食材があって火があれば焼くだろ」
カイは洞苔巻き握り飯を三人に配った。
「腹ごしらえしよう。ここから先は長い」
ヴァルダが握り飯を手に取った。洞苔の塩気が鼻に届く。一口かじった。
「……洞苔で巻いてあるのか。この匂いと米が合うな」
「だろ? 海苔みたいなもんだ」
「海苔?」
「いや、なんでもない」
イーリスは黙ってかじっている。飲み込む前に、二つ目に手を伸ばしていた。
二十五層の安全地帯で水を飲んだ。
前回と同じように、Bランクのパーティが一組いた。違うパーティだが、装備の水準は同じだ。耐熱の魔道具を身に着けて、溶岩帯に備えている。
四人のうちの一人が、カイの方を見た。目が止まった。
「おい」
仲間の肩を叩いた。
「あれ。聞いた話と一致しないか。Fランクのプレート、包丁一本、エプロン姿」
「『包丁一本のFランク』か? 二十五層まで来るってのは本当だったのか」
「今日は二人連れてる。一人は……おい、あれヴァルダじゃないか? 『片翼の剣姫』の」
「A級のヴァルダと一緒? 何者だよ、あの飯屋」
ひそひそ声だったが、安全地帯は音が通る。カイの耳にも届いていたはずだ。
カイは水筒の蓋を閉めて、立ち上がった。
「イーリス。二十八層、案内してくれ」
「うん」
イーリスが先に立った。ヴァルダが後ろにつく。三人が安全地帯を出ていくのを、Bランクのパーティが無言で見送った。
「あの人、今の聞こえてたよな」
「聞こえてたと思うけど」
「全然気にしてなかったな」
「……なんかやべえよ、あの飯屋」
二十七層。前回と同じ場所で、火蜥蜴が通路に陣取っていた。体長二メートルの赤い蜥蜴。口から熱気が漏れている。Cランク相当。
ヴァルダが大剣の柄に手をかけた。今度は見る。この男が何をするのか。
カイが歩いた。
火蜥蜴の横を通り過ぎた。蜥蜴は腹を地面につけて、頭を下げた。
「今回も大人しいな」
カイが振り返って笑った。
ヴァルダの手が、大剣を強く握っていた。今のは見間違いようがない。Cランクの火蜥蜴が、この男の前で服従した。
二十八層。イーリスの鼻が上を向いた。
「ここ。前回と同じ場所」
天井近くの岩の裂け目に、灰色の木が見えた。石乳樹だ。根が岩を抱くように広がっている。
カイは籠を下ろして、岩壁を見上げた。
「三メートルくらいか。前回と同じだな」
「待て」
ヴァルダが声をかけた。
「私が登ろうか。背が届く」
「いい。慣れてるから」
カイは岩壁に手をかけた。
一歩、二歩。三メートルの壁を、走るように登った。足が岩を蹴るたびにエプロンの裾が翻る。次の瞬間には石乳樹の幹に手が届いていた。
ヴァルダの口が開いた。閉じるのを忘れていた。
カイが幹に包丁の先で浅く切れ目を入れると、白い汁がとろりと滲み出した。甘い匂いが漂う。
「水筒を投げてくれ」
イーリスが水筒を投げ上げた。カイは片手で幹を掴んだまま、もう片方の手で水筒を掴んだ。三メートル上で、落ちる気配がまるでない。
ヴァルダは下から見上げていた。あの体の使い方は、飯屋のものではない。
「ヴァルダさん」
イーリスの声がした。隣に立っている。
「何だ」
「あの人のこと、問い詰めないでね」
イーリスの声は静かだった。金色の瞳が真っ直ぐヴァルダを見ている。
「あの人は、料理を作りたいだけだから。それを邪魔されたら、たぶん困る」
ヴァルダはイーリスを見つめた。
「……分かってるよ、嬢ちゃん。私もただの客だ。飯を食いに来てるだけさ」
イーリスの肩から、少し力が抜けた。
「よし、取れた」
カイが壁から降りてきた。水筒の蓋に、白い樹液がたっぷり溜まっている。甘い脂の匂いが三人を包んだ。
「今日は多めに採れたな。これならリナの粥も、イーリスの練習用も、十分だ」
カイは樹液を水筒に移して、蓋を閉めた。手が白い汁で汚れている。エプロンで拭いたが、甘い匂いが指先に残った。
「帰るか。二十層の転送門から戻ろう」
三人は来た道を戻り始めた。二十八層、二十七層、二十六層。火蜥蜴はもういなかった。
二十三層あたりで、カイが通路の壁際に寄った。行きに溶岩石の上に置いた芋だ。
手で触れた。石の余熱で、表面がこんがり焼けている。皮が少し焦げて、割れ目から湯気が漏れている。
「焼けてる」
包丁で半分に割った。黄金色の断面が現れた。湯気がふわっと立って、焦げた皮の香ばしさと一緒に鼻に来た。
ヴァルダが足を止めた。
「……本当に焼けてるのか」
「溶岩石の余熱で二時間。ちょうどいい」
三つに割って、一切れずつ手渡した。ヴァルダがかじった。口の中でほろりと崩れた。迷わず二口目をかじった。
「ダンジョンで芋を焼く飯屋は、初めてだ」
イーリスがかじった。皮の焦げた部分と、中のほくほくが交互に来る。翼がゆるんだ。
「……ん」
大きくもう一口かじった。
カイは保存袋から岩蜜蜂の蜜の結晶をひとかけ出して、二人に渡した。
「芋の後にこれ。合うぞ」
イーリスが結晶を舌に乗せた。芋がまだ残っている口の中で、蜜がじわりと溶けた。
「……これ……」
言葉が続かなかった。
ヴァルダは黙ってもう一つ手を出した。
カイの背負い籠が揺れるたびに、火穂麦の穂がはみ出しそうになっていた。岩貝の袋はイーリスが持ち、樹液の水筒はヴァルダが提げている。三人がかりの荷物だ。
「ねえ」
イーリスが言った。
「保存袋に入れればいいのに。全部入るでしょ」
「入る」
「じゃあなんで籠なの。重いでしょ」
カイは少し考えた。
「仕入れは、背負って帰るところまでが仕入れだからな。重さを感じてないと、何をどれだけ採ったか分からなくなる」
「……意味が分からない」
「帰り道に籠が揺れてると、頭の中で献立ができるんだ。この重さなら火穂麦が何本、岩貝が何個、今日はこれとこれで何を作ろうって」
ヴァルダが横で聞いていた。
「変わった飯屋だな」
「よく言われる」
二十五層の安全地帯を通り過ぎる時、さっきのBランクのパーティがまだいた。三人を見て、何か言いかけて、やめた。
二十層の転送門は青い光を放っていた。
「本当に転送門、使うの?」
イーリスが聞いた。
「帰りはな。食材が傷む前に戻りたい」
転送門をくぐった。一瞬の浮遊感の後、十五層の安全地帯に立っていた。
ヴァルダが大きく息を吐いた。
「飯屋」
「ん?」
「お前の仕入れ、退屈じゃなかったぞ」
カイは笑った。
「そうか。でも今日は大人しい日だった。モンスターも全然出なかったし」
ヴァルダは笑わなかった。大剣を背中に担ぎ直した。
「明日も来る。酒を持ってくる」
「おう。つまみを合わせるから、何の酒か教えてくれ」
「地底麦酒の十年物がまだあるんだ」
「なら蒸し焼きだな。岩窟茸の。前回も合っただろ」
カイの頭はもう料理のことに切り替わっている。仕入れた食材の使い道を考え始めている。火穂麦の粒を何粒使うか。樹液の配分は。リナの粥を先に作って、残りでイーリスの練習をさせて。
「カイ」
ヴァルダが背を向けたまま言った。
「今日はご苦労だった。いい仕入れだったな」
「ああ。ヴァルダさんに籠を持ってもらって助かった。一人じゃ穂が七本も持ちきらなかったからな」
ヴァルダは片手を上げて、歩いていった。
イーリスが屋台の横に座った。翼を畳んで、膝を抱えている。
「ねえ」
「ん?」
「あの人、明日も来るの」
「ヴァルダさんか。酒持ってくるって」
「……ふうん」
一瞬、焦げた匂いがした。イーリスの角の根元がかっと赤くなって、すぐ戻った。
「イーリスも飲むか? 竜人族って酒飲めるのか」
「知らない。飲んだことない」
「じゃあ試してみるか。合わなかったらやめればいい」
「……別に。あなたが飲めっていうなら」
カイは籠から火穂麦の穂を取り出して、屋台の棚に並べた。七本の赤い穂が、魔石灯の光を受けてかすかに光っている。隣に石乳樹の樹液が入った水筒。岩貝が九つ。
「よし。これで当分は持つな」
火穂麦を何粒。樹液をどのくらい。岩貝の汁は四滴にしてみよう。洞苔の乾燥が間に合えば、仕上げに少しだけ散らしてみたい。
リナの紙を見た。
『おいしかった もっとたべたい』
明日の粥は、今までで一番うまく作る。




