第11話「待つ料理」
火穂麦の残りを広げた。まな板の上に、ぱらぱらと小さな粒が転がる。
「……これだけか」
両手で一杯には届かない。昨日の粥で使った分を引くと、残りはほんの一握り。石乳樹の樹液も水筒の底にわずかに残っているだけだ。
もう一回分。それも、ぎりぎり。
カイは棚に目をやった。リナの紙が、包丁の横に立てかけてある。
『おいしかった もっとたべたい』
「もう少し甘くする。約束だからな」
昨日の粥は、わざとシンプルにした。長い間何も食べられなかった体に、いきなり複雑な味は入らない。まず穀物と樹液だけ。体がそれを受け入れたら、次は一段だけ足す。
リナは自分から口を開けた。つまり、体が受け入れた。
なら、今日は足していい。
屋台の裏の岩壁に寄せて、濡れ布で包んでおいた岩貝に目が止まった。この前、十七層で拾ってきた殻付きの貝だ。岩壁はいつもひんやりしていて、貝の保管にはちょうどいい。まだ手をつけていない。
一つ取り上げた。拳くらいの大きさで、灰色の殻はごつごつしている。鼻を近づけた。微かに潮の匂い。いや、潮ではない。鉱泉水に混じった岩の匂いだ。
殻の合わせ目に包丁の先を入れた。こじるように力を入れると、ぱくっと口が開いた。殻の内側は薄い青灰色で、濡れた面がかすかに光を反射している。
中に透明な汁が溜まっている。匙一杯ほどの量。
カイは貝殻を傾けて、汁を掌に落とした。ほんの少し。冷たい。指の間からこぼれそうな量を、舌先で舐めた。
「……」
最初に岩の冷たさが来た。それが舌の上で溶けた瞬間、奥からじんわりと別の味が立ち上がる。塩辛いのか甘いのか、境目が分からない。鼻に抜けた時、体が反応した。
冬の朝。湯気の立つ器を両手で包んで、ゆっくり口に運んだ記憶。あの粥に、この味があった。名前は出てこない。でも、手が覚えている。白い粥にこの汁を落としたら、届く。
「これだ」
カイは岩貝をもう一つ割った。
「早いわね」
声がした。安全地帯の入口に、銀色の髪が見えた。
イーリスだった。昨日より早い。空がまだ薄暗い時間だ。翼を畳んで立っている。
「教えてくれるんでしょ。粥」
「ああ。約束したからな」
イーリスが近づいてきた。まな板の上の火穂麦と、割った岩貝を見ている。
「昨日と違う。貝?」
「十七層で拾った岩貝だ。殻の中の汁が面白くてな。粥に数滴落とすと、穀物だけでは出ない味になる」
「分かる。この匂い。昨日の粥に足りなかったもの」
カイの手が止まった。
「足りなかった、って分かるのか」
「うん。昨日の粥は甘かった。でも、なんていうか、味にもう一つ奥行きがなかった。この貝の汁は、その奥行きがある感じ」
「……すごいな、お前の鼻は」
「普通でしょ」
普通じゃない。
「よし。じゃあ始めるぞ。まず、殻を剥く」
火穂麦の粒を数粒、イーリスの前に置いた。
「包丁の腹で軽く押す。爪だと力が入りすぎて中身が潰れる。包丁なら、殻だけぱちんと弾ける」
カイが一粒やってみせた。包丁の腹を粒に当てて、すっと押す。薄い殻がぱちんと弾けて、中から橙色の実が転がり出た。
「やってみろ」
イーリスが包丁を受け取った。粒を指で押さえて、包丁の腹を乗せる。
ぐしゃ。
粒が潰れた。橙色の中身が包丁にべったりくっついている。
「力が入りすぎだ」
「分かってる。分かってるの」
イーリスの声が低くなった。翼がぎゅっと畳まれた。
「もう一回」
二粒目。包丁を乗せる。
ぐしゃ。
「……」
「焦るな。息を止めてるだろ。息を吐きながらやれ」
三粒目。イーリスが小さく息を吐いた。包丁の腹を粒に当てる。
かちっ。
殻が弾けた。潰れていない。中の橙色の実がきれいに残っている。
イーリスの手が止まった。自分の手元をじっと見ている。
「できた」
「できたな」
カイが粒を拾い上げた。「いい形だ。これが正解」
イーリスの翼が、ほんの少し動いた。
残りの粒も、イーリスが剥いた。七割は成功した。潰れた分はカイが「後で使う」と言って脇に寄せた。
「次は煮る。鍋に樹液と水を入れろ。樹液はこの量。水はこの倍」
イーリスが水筒を傾けた。樹液がとろりと鍋に落ちる。白い液体。甘い脂肪の香りが広がった。
「水はゆっくり。一気に入れるな」
鉱泉水を足す。イーリスの手は丁寧だった。液体を扱う分には、茸を裂くより手が安定している。
「粒を入れろ。散らすように」
橙色の粒が白い液体の中に沈んでいく。
「火をつける。弱火だ。このまま」
カイが火をつけた。イーリスは鍋の横にしゃがんで、火を見ている。
「で、ここからどうするの」
「何もしない」
「え?」
「待つ。それがこの料理だ」
イーリスがカイを見上げた。困った顔をしている。
「何もしないって、何もしないの?」
「たまにへらで底をなぞる。焦げないように。それ以外は、鍋の仕事だ。火と水と時間が粒をほどいてくれる」
「でも、味は。味を見ないと」
「まだ早い。粒が水を吸って崩れかけるまで待つ。その前に触ると、崩れ方が変わる」
イーリスは鍋を見つめた。白い液体の中で、橙色の粒はまだ固い形を保っている。
「お前は手が早すぎるんだ」
「え」
「茸の時もそうだった。できるようになりたい気持ちが先に出て、手が急ぐ。でも料理の中には、手を出さない方がいいものがある。この粥がそれだ」
イーリスは黙った。鍋を見ている。膝の上に置いた拳に、力が入っていた。
しばらくして、鍋の表面に小さな泡が浮かんだ。
「今。へらを入れろ。底を優しくなぞるだけだ」
イーリスが木のへらを受け取った。鍋の底に触れる。ゆっくり、一周。
「それでいい。あとはまた待て」
イーリスがへらを引いた。粒が少し膨らんでいる。水を吸い始めた証拠だ。
「変わってきた」
「ああ」
「匂いも変わった。さっきより良い匂い」
「火を入れると樹液の脂が溶ける。甘さが立つんだ。昨日も言ったろ」
「覚えてる」
イーリスの声が柔らかくなった。鍋を見る目が、さっきまでの焦りから変わっている。
時間が過ぎた。安全地帯の空気がゆっくりと温まっていく。カイは隣で岩貝をもう二つ割って、汁を小さな器に集めていた。イーリスはずっと鍋の横にいた。泡が浮かぶのを見て、へらで底をなぞって、また待つ。その繰り返し。
粒が崩れ始めた。白い液体がうっすらと橙色に染まっていく。
「イーリス。火を絞れ。ほとんど消えるくらいでいい」
イーリスが火を絞った。鍋の中で、泡がゆっくりと浮かんでは消えている。
「匂いが丸くなった」
カイが鍋を覗き込んだ。へらで粥を持ち上げる。とろりと糸を引いた。
「よし。火を止めろ」
イーリスが火を止めた。湯気がふわっと立ちのぼる。白い湯気の中に、穀物と樹液の甘い匂いが混ざっている。
「できたの。あたしの、粥」
「お前が煮て、殻を剥いて、火にかけて、待って。お前が作った粥だ」
イーリスはへらで粥をすくった。橙色がかった白が、へらの上でとろりと揺れている。
口に運んだ。
「……ん」
小さな声が漏れた。目を閉じた。
翼がゆっくり広がった。角の根元から、薄く湯気が立った。
長い間、口が動かなかった。口の中で粥が溶けている。舌の上で崩れていく粒と、喉の奥に落ちていく甘さを、全部追いかけている。
「これ……なんだろう。あったかくて、丸くて……違う、そうじゃなくて」
言葉を探して、見つからなくて、諦めた。
「……あたしが、作った」
声が震えていた。
「この味、あたしが作ったの。」
「ああ。そうだ」
「嘘」
「嘘じゃない。火加減も、待つ時間も、お前の判断だ。俺は横で見てただけだ」
イーリスがもう一口すくった。今度は目を開けたまま食べた。鍋の中の粥と、自分の手と、へらを交互に見ている。
「昨日のと違う。昨日の方が上手い。でも」
「でも?」
「でも、これはあたしのだ」
カイは少し笑った。
「そうだ。初めて自分で作った飯は、一番上手い飯じゃなくても、一番覚えてる飯になる」
イーリスは膝を抱えて、顔をうずめた。翼が背中を覆うように畳まれて、その隙間からへらだけが鍋に向かって伸びている。
もう一口。もう一口。
止まらなかった。
「……ごちそうさま」
「点数は?」
「六十点」
「厳しいな。でも正直でいい」
「あなたのは九十五点。あたしのは六十点。差は分かる。分かるから」
「だから伸びる。自分の料理を正確に評価できるやつは強い」
カイはイーリスの粥を一口もらった。舐めて、少し考えた。
「六十点は厳しすぎだ。七十はある。へらの入れ方がいい。焦げが一切ない」
「本当に?」
「嘘をつく意味がない。お前に嘘の味は通用しないだろ」
イーリスの肩から力が抜けた。尻尾の先が、ゆっくり揺れていた。
カイは新しい鍋を出した。
「リナの分を作る。見てろ。今日は昨日と変える」
残りの火穂麦と樹液を鍋に入れた。昨日と同じ手順。同じ弱火。同じ待つ時間。
違うのは一つだけ。
粒が崩れかけたところで、岩貝の汁を加えた。小さな器を傾けて、三滴。透明な雫が白い粥の表面に落ちて、すっと溶けた。
匂いが変わった。穀物と樹液だけだった匂いの底に、もう一つ、丸い層ができている。
イーリスの体が跳ねた。
「何これ。昨日と全然違う。角がなくなった。丸い」
「岩貝の汁だ」
「三滴で?」
「三滴でいい。多すぎると穀物が負ける」
イーリスは鍋に顔を近づけた。目を閉じて、匂いだけを追っている。
「……別の料理になってる。たった三滴で」
イーリスが口を開いて、閉じた。もう一度開いた。
「……この匂い、なんて言えばいいか分からない。悔しい」
カイは火を止めた。器に移す。布をかけて冷ます。
「これがお前にはまだできない技だ」
イーリスがカイを見た。
「味のバランスを、量で決める。多すぎず少なすぎず。これは鼻と舌だけじゃ覚えられない。何回も作って、何回も失敗して、手が覚えるものだ」
「じゃあ、何回も作ればいいんでしょ」
カイの手が止まった。
イーリスが真っ直ぐにこちらを見ている。金色の瞳に、迷いがなかった。
「何回も作る。何回も失敗する。それでも、覚えるならやる」
「……そうか。じゃあ、食材を補充しないとな。火穂麦も樹液も、今日で全部使った」
「また採りに行くの」
「ああ。二十二層と二十八層だ」
「あたしも行く」
理由は言わなかった。もう言わない。
「カイさん!」
ルークの声が聞こえた。今日も走ってきている。息が荒い。でも笑っている。
「リナが、昨日の夜、母さんのスープも飲んだんです。自分から匙に手を伸ばして」
カイは器を手に取って掌で温度を確かめ、昨日と同じように火竜草の乾燥葉で包んだ。
「いい兆候だ。今日のは昨日と少し味を変えた。もっと食べやすくなってるはずだ」
器を渡した。ルークが両手で受け取る。葉の温もりが掌に伝わっている。
「一口目はゆっくり。二口目からはリナのペースに任せろ」
「はい。ありがとうございます」
ルークは頭を下げて、走っていった。
残りの三人は屋台の前にいた。カイは横穴から干し肉と洞窟米を出してきた。
「お前らも飯にしよう。今日は干し肉と握り飯と、岩貝の汁だ」
岩貝を二つ割って、殻の中の汁を鍋に絞った。鉱泉水を足して沸かすと、岩の奥から来たような匂いが湯気と立った。干し肉を炙ると脂が滲む。薄く切って、握り飯を三つ並べた。
トビーが干し肉をかじって叫んだ。「毎回思うけど、この干し肉の炙りは異常だって。なんで乾いてるのに噛んだら旨味が溢れるんだよ」
「乾かす時に塩を入れてるからだ。水分が抜けた分、味が濃くなる」
ミラは岩貝の汁を飲みながら手帳を開いている。エリカは握り飯を小さくかじって、目を閉じた。
「あら。久しぶりに来たら、ずいぶん賑やかじゃないか」
低い声が響いた。
安全地帯の入口に、大柄な影が立っている。大剣を背負った長身の女。腕に新しい包帯が巻いてある。
ヴァルダだった。
「数日ぶりだな」
「三十層の依頼があってね。ちょっと手間取った」
ヴァルダが歩いてきて、鼻をひくつかせた。
「何だ、この匂い。甘い。いつもと違うぞ」
「粥を作ってた。病人向けの」
「病人向け、ね」
ヴァルダの目が鍋を見た。それからイーリスを見た。イーリスの前にあるもう一つの鍋。空になった鍋。
「嬢ちゃん。もう一つの鍋はお前が使ったのか」
イーリスが少し体を固くした。
「……粥を教わった」
「教わった? この男に?」
ヴァルダがカイを見た。目が細い。
「粥の炊き方を教えただけだ」
「粥の炊き方、ね」
ヴァルダは腕を組んだ。新しい包帯の隙間から、古い傷跡が見えている。
「弟子を取り始めたか。料理の」
「弟子じゃない。粥を教えただけだ」
「そうかい」
ヴァルダの口元が緩んだ。面白そうな顔をしている。
「なあ、飯屋。私にも何か食わせてくれないか。三十層帰りで腹が減ってる」
「干し肉の炙りと握り飯でいいか。岩貝の汁もある」
「構わない。それと、一つ聞いていいか」
カイが鍋に火竜草の汁物を温め始めた。
「お前の噂、二十五層でも聞いたぞ。『包丁一本のFランク』。三十層帰りの連中が話してた」
カイの手は止まらなかった。へらで鍋の底をなぞりながら、答えた。
「噂なんて気にしてたら仕込みが進まない」
「そりゃそうだ」
ヴァルダは笑った。でも目は笑っていなかった。スープの器を口元に寄せながら、視線はカイの手元を追っている。包丁を置く動作。へらを持ち替える指先。無駄のない動き。
「二十二層で火穂麦を見つけたって? 二十八層で石乳樹の樹液を採ったって? Fランクの飯屋が?」
「食材があるなら採りに行く。それだけだ」
「それだけ、か」
ヴァルダは温まったスープを受け取った。一口飲んで、目を閉じた。
「……うまい。残り物とは思えないな」
「昨晩のうちに味が馴染んだんだ。汁物は翌日の方がうまくなることがある」
ヴァルダはスープを飲みながら、イーリスをちらりと見た。イーリスは膝を抱えて、空になった自分の鍋を見つめている。
「嬢ちゃん。粥はどうだった」
「六十点」
「……辛口だな」
「本当のことだから」
ヴァルダの口元がまた緩んだ。この二人のやりとりを見るのが面白くて仕方ないらしい。
カイは屋台の棚を整理しながら、岩貝の残りを数えた。あと六つ。
火穂麦はゼロ。石乳樹の樹液もゼロ。
「明日、採りに行くか」
独り言のつもりだった。
「行く」
イーリスが即答した。
「私も付き合おうか」
ヴァルダが空になった器を置いた。
「三十層帰りで足は知ってる。二十二層も二十八層も通り道だ。どうせ暇だしな」
カイはヴァルダを見た。
「別にいいけど。退屈だぞ。食材を採るだけだ」
「退屈で結構。お前がどうやって食材を採るのか、興味があるんでね」
ヴァルダの目が光った。
イーリスがヴァルダをじっと見ている。甘い匂いの中に、かすかに苦いものが混じっていた。
カイは鍋を洗いながら、明日のことを考えた。
二十二層と二十八層。イーリスと、ヴァルダ。
イーリスは前回の道を知っている。ヴァルダは三十層帰りの脚力がある。食材を運ぶ手が増えるのは助かる。
ただ、ヴァルダの目が気になった。さっきからずっと、こちらの手元を見ていた。あの目は、ただ飯を楽しみにしている客の目じゃない。
まあいい。食材が採れればそれでいい。
カイは棚のリナの紙をちらっと見て、岩貝の残りを布で包んだ。洞苔の乾燥具合も確かめないとな。あれを粉にして粥に混ぜたら、どんな味になるだろう。




