第10話「一口」
夜明け前に起きて、火穂麦の殻を剥き始めた。
一粒は米よりひと回り大きく、薄い赤茶色の殻に覆われている。殻といっても卵のような硬いものではなく、籾殻に近い。薄くて乾いた皮が、中の実をぴったり包んでいる。これを剥がさないと食べられない。
穂から粒を外し、一粒ずつ殻を剥く。爪で剥こうとすると力が入りすぎて中身が潰れる。包丁の腹で軽く押してやると、殻がぱちんと弾けて中の橙色の実が顔を出す。あとは指先で殻を払うだけだ。簡単な工程だが、一粒ずつやるしかないから時間がかかる。
五本の穂のうち二本を使う。一本で試作、一本で本番。初めてリナに食べさせる粥だ。試作なしで出すわけにはいかない。残りの三本はこの先の分に取っておく。
一本目の穂から粒を外し、一粒ずつ殻を剥いていく。橙色の小さな実がまな板の上に並んでいった。
まず試作だ。
石乳樹の樹液を鍋に入れた。水筒の蓋を開けると、甘い乳の香りが広がる。白い液体がとろりと鍋に落ちた。鉱泉水で薄める。樹液だけでは濃すぎる。粒が水を吸って、ゆっくりほどけていく。その過程を邪魔しない程度の濃さにする。
弱火で煮た。粒がほどけ始めるまで待って、へらでゆっくり回す。
舌が味を覚えている。甘くて、やわらかくて、体の芯が温まる味。誰かに作ってもらった、あの味。
できた粥をへらですくって、舐めた。
甘い。悪くない。だが樹液が少し多い。粒の甘さが隠れてしまっている。病人に食べさせるなら、もう少し穀物の味を前に出したい。
「本番は樹液を減らす」
鍋を洗って、二本目の穂を剥き始めた。今度は樹液を七分にする。鉱泉水を少し多めに。
二杯目の粥が、ゆっくり煮えていく。
「……早いわね」
声が降ってきた。
イーリスが安全地帯の入口に立っていた。昨日脱いだ外套は、もう着ていない。銀色の髪が背中に流れて、角が魔石灯の光を反射している。翼を畳んで、鍋の湯気を目で追っている。
「もう二杯目?」
「一杯目は試作だ。味を確かめて、本番で調整した」
イーリスが近づいてきた。鍋を覗き込む。白い液体の中で、橙色の粒が沈んでいる。
「この匂い。昨日より濃い」
「火を入れると樹液の脂が溶ける。甘さが立つんだ」
「知ってる。でも、これは違う。穀物の匂いが混ざってる」
カイの手が止まった。
「……分かるのか。まだ煮始めて間もないのに」
「匂いは最初に出る。味より先に」
カイは黙って、イーリスを見た。
「お前、本当にいい鼻してるな」
「前にも言われた」
「何回でも言う。料理人にとって、こういう鼻を持ってる人間は宝だ」
イーリスの尻尾の先が、ぴくっと跳ねた。
鍋がゆっくりと温まっていく。白い液体の表面に小さな泡が浮かんだ。カイは木のへらで、鍋底を優しくなぞった。
「焦げやすいんだ。底にくっつくと苦味が出る」
「火加減は?」
「このまま。粒が水を吸い始めたら、もう少し落とす」
イーリスは鍋の横にしゃがんだ。火の熱で翼の先が温まっている。
しばらくして、鍋の中で変化が起きた。橙色の粒が膨らんでいる。水を吸って、丸い形が少し崩れかけている。
「変わった」
「いい調子だ」
カイは火を絞った。ほとんど消えかけの弱火。鍋の中で、泡がゆっくり浮かんでは消えている。
「この待つ時間が好きなんだ」
「好き?」
「何もしなくていい時間じゃない。食材が変わっていく時間だ。火と水と時間が、粒をほどいていく。人間にできることは、それを邪魔しないことだけだ」
イーリスは何も言わなかった。鍋を見つめていた。白い液体が、少しずつ粘り気を帯びていく。橙色の粒が崩れて、液体に色が移り始めている。
甘い匂いが濃くなった。
湯気が立つ。白い湯気の中に、穀物と樹液の甘い匂いが混ざっている。鍋の周りの空気が、やわらかく温まっていた。
「カイさん!」
ルークの声が聞こえた。安全地帯の入口から、ルーク達が駆けてくる。四人揃っている。
ルークはカイの前に来た。息が上がっている。早朝から走ってきたらしい。
「もう作ってるんですか」
「あとは冷ますだけだ。病人に熱いもんは出せない」
ルークの目が鍋に向いた。白い液体がとろりと煮詰まっている。橙色の粒はもう形を保っていない。全体がぼんやりと橙色がかった白になっている。
ミラが手帳を開いた。
「あの匂い。何ですか、この素材は」
「石乳樹の樹液と火穂麦。昨日採ってきた」
「昨日の三十層で?」
「二十二層と二十八層だ」
ミラのペンが走った。トビーが鍋を覗き込もうとして、エリカに腕を引かれた。
「邪魔しないの。仕上げ中よ」
カイは鍋の中身をへらで持ち上げた。液体がへらから落ちる時、とろっとした糸を引いた。
「よし。できた」
火を止めた。
鍋の中身を小さな器に移した。木の器だ。陶器は持っていないから、軽い木の器で代用する。
一人分。指三本くらいの深さ。量は少ない。
橙色がかった白い粥が、器の中でゆらゆらと揺れている。表面にとろりとした膜が張って、湯気がゆっくり立ちのぼっていた。
カイは器に布をかけて、冷めるのを待った。
「ルーク。妹さんの名前は」
「リナです」
「リナちゃんか。何歳だ」
「十二です」
カイは器を手に取った。掌に伝わる温度を確かめる。熱すぎない。ぬるくもない。口に含んだ時、体の中にすっと入っていく温度。
「よし」
カイは屋台の棚から、乾いた赤茶色の葉を数枚取り出した。火竜草の葉だ。根は調理に使うが、葉は乾燥させると別の使い道がある。火属性の魔力が残っていて、じんわりと熱を放ち続ける。ダンジョンの行商人が保温材に使う、ありふれた知恵だった。
布で包んだ器の上から、乾燥葉を丁寧に巻いた。葉が器に触れると、かすかに温かい匂いが立つ。
「これで包んでおけば、家に着くまで冷めない。持っていけ」
ルークが両手で受け取った。葉越しに温かさが掌に伝わっている。
「匙はあるか」
「はい。家に」
「小さい匙がいい。一口ずつゆっくり食べさせろ。口の中で溶けるから、噛まなくていいって伝えてくれ」
ルークは器を抱きしめるように持った。目が赤い。
「……代金は」
「いらない」
「でも」
「いいから。早く行け」
ルークは頭を下げた。深く、長く。顔を上げた時、涙は拭いてあった。
「行ってきます」
ルークが走り出した。安全地帯を抜けて、上層へ向かう通路に消えていく。
ミラが小さく手帳を閉じた。トビーが鼻をすすっている。エリカが黙ってトビーの肩を叩いた。
「お前ら、腹減ってないか。飯にしよう」
カイは横穴から干し魚を何枚か持ってきた。地底魚を開いて塩を振り、岩の隙間で乾かしたものだ。網の上で軽く炙ると、乾いた身から魚の脂の匂いが立った。
保存袋から洞窟米を出して、鍋で炊いた。握り飯を三つ作って、干し魚の炙りと一緒に並べた。
「干し魚と飯。簡単だけど、腹は膨れる」
トビーが干し魚をかじった。「うま。なんで干し魚がこんな味するの。俺の知ってる干し魚と違う」
「干し方の問題だ」
三人が食べている間、カイは鍋に残った粥を見た。試作で調整した甲斐があった。へらに残った粥を舐めた。
試作の時より穀物の甘さが前に出ている。樹液を減らした分、粒の味がちゃんと立っている。
いい。
「残り、食うか」
イーリスに声をかけた。イーリスは鍋の横にしゃがんだまま、動いていなかった。
「……いいの」
「量があるから。鍋のまま食っていいぞ」
イーリスはへらを受け取った。鍋の中の粥をすくう。橙色がかった白が、へらの上でとろりと揺れた。
口に運んだ。
イーリスの体が止まった。
目が大きく開いた。翼がゆっくりと広がった。角の根元がほんのり赤くなっている。
咀嚼していない。口の中で粥が溶けている。舌の上で崩れていく穀物の粒。樹液の脂がまるく広がって、喉の奥にすっと落ちていく。
イーリスは目を閉じた。
「……あったかい」
もう一言、何か言おうとした。出てこなかった。
「あったかいか」
「うん。あったかくて……なんだろう。体の中が、ほどけてく」
イーリスはもう一口すくった。今度はゆっくり、へらを口に運んだ。目を閉じたまま、長い時間をかけて飲み込んだ。
「これ、病気の子に食べさせるんでしょ」
「ああ」
「治る」
イーリスが断言した。目を開けて、カイを真っ直ぐに見た。
「根拠は?」
「ない。でも分かる。これを食べたら、体の中から元気が出てくる。冷たくなってるところが温まる」
カイはイーリスの目を見た。嘘がない顔だった。
エリカが小さく息を吸った。
「私も感じます。鍋から来る匂いだけで、体の芯が温かくなってる」
ミラが手帳を開いた。ペンを握る手が震えている。
「……魔力の流れが変わっています。粥の匂いを嗅いだだけで、循環速度が上がった。これは普通の料理じゃない」
「普通の料理だ」
カイが言った。
「穀物を煮ただけだ。特別なことは何もしてない」
ミラは何か言いかけて、やめた。手帳にペンを走らせた。
鍋の粥は、イーリスが全部食べた。
最後の一口をへらで丁寧にすくって、鍋の底を綺麗にした。へらを置いて、膝を抱えた。翼が背中に畳まれている。
「……ごちそうさま」
「どうだった」
イーリスは少し考えた。
「あのね。あたしは、たぶん美味しいものをたくさん知ってる。竜人族の集落で出るものは、全部上等なものだった。素材も、調理も。世界樹の恵みだから」
「ああ」
「でも、これは違う。世界樹の恵みじゃない。あなたが作った。あなたの手が、これを作った」
イーリスは膝に顔をうずめた。声がくぐもっている。
「あたしには、作れない」
カイは黙って、空になった鍋を見た。
「教えてやるよ」
イーリスが顔を上げた。
「この粥は簡単だ。殻を剥いて、樹液と水で煮るだけだ。火加減だけ気をつければ、お前にもできる」
「……本当に?」
「手が不器用でも関係ない。これは待つ料理だ。火と水と時間がやってくれる。人間は邪魔しなければいい」
イーリスの瞳が揺れた。
甘い匂いが濃くなった。さっきより強い。角の根元がさらに赤くなっている。翼がゆっくり畳まれていく。
昼過ぎに、ルークが戻ってきた。
走ってきたのが分かる。息が荒い。顔が赤い。でも、泣いてはいなかった。笑っていた。
「カイさん」
「おう」
「リナが、食べました」
カイの手が止まった。火竜草の根を刻んでいた包丁を、まな板に置いた。
「全部か」
「全部です。最初の一口で、目を開けて。二口目で、笑って。三口目で……泣きました」
ルークの声が震えた。
「ずっと、何も食べられなかったんです。水を飲むのも辛そうで。母さんが口元に匙を持っていっても、首を横に振るだけで」
「ああ」
「でも今日は、自分から口を開けたんです。匙を見て、自分から」
ルークは目を擦った。
「母さんが泣いてました。リナが自分で口を開けたの久しぶりだって」
カイは頷いた。
「よかった」
それだけ言った。
ミラがペンを走らせている。トビーが壁に向かって鼻をすすっている。エリカがまた肩を叩いた。
ルークが懐から何かを取り出した。
「これ。リナが」
小さな紙だった。折りたたまれている。開くと、震える字で一行だけ書いてあった。
『おいしかった もっとたべたい』
カイはその紙を見て、少し笑った。
「いい感想だ」
紙を丁寧に折って、屋台の棚に置いた。包丁の横。一番見える場所に。
イーリスがその一連を、丸太の上から見ていた。
カイの横顔を。紙を棚に置く手を。少し笑った口元を。
イーリスは膝を抱えて、顔をうずめた。角の根元が赤い。翼が震えている。
カイは包丁を取り直して、火竜草の根を刻み始めた。今夜の仕込みだ。ルーク達に出す汁物の下ごしらえ。
手が動いている。いつも通りの手つきで、いつも通りの速さで。
でも、屋台の棚に置かれた小さな紙を、時々ちらっと見ていた。
『おいしかった もっとたべたい』
明日は、もう少し甘くしよう。




