第1話「十五層の食堂」
ダンジョン第十五層。安全地帯の小さな広場に、場違いな匂いが漂っていた。
鰹節を削ったような、深い旨味を含んだ湯気。冒険者たちが硬い携帯食をかじる殺風景な空間に、その匂いだけが浮いている。湯気は天井の岩肌に当たって散り、じわりと広がっていく。
「なんだ、この匂い」
足を止めたのは若い剣士だった。革鎧に初心者用の剣を腰に差した、いかにも駆け出しの少年。名前はルーク。隣で魔法書を抱えた少女が鼻をひくつかせている。
「ルーク、あれ」
ミラが指した先に、小さな屋台があった。
木組みの簡素な台に、布の屋根。ダンジョンの壁を背にして、ぽつんと佇んでいる。看板には『カイの食堂』と手書きの文字。墨が少しにじんでいた。その裏側で、猫背の男が鍋をかき混ぜていた。
エプロン姿で穏やかな目をした男が、どこからどう見ても冒険者には見えない格好で立っている。
ただし、手だけが違った。
節くれだった大きな手。包丁を握る指には、刃物を扱い続けた者だけに刻まれる無数の線がある。そしてもう一方の手にも、別の種類の痕跡があった。ルークにはそれが何か分からなかったが、ミラは一瞬、眉をひそめた。
「いらっしゃい」
男が顔を上げた。三十代の前半だろうか。柔らかい声だった。
「ダンジョンの中に、食堂?」
ルークが聞くと、男はにっこり笑った。
「腹減ってるだろ。座れよ」
ルークの腹が、その言葉に応えるように鳴った。
「ほら、正直な腹だ」
男が笑う。ルークの後ろから、トビーが顔を出した。
「ルーク、なにこれ。ダンジョンの中に屋台? めちゃくちゃいい匂いするんだけど」
「なんで、ダンジョンの中に」
最後にエリカが小走りで追いついた。パーティ四人が揃って、屋台の前に並ぶ格好になった。
男が鍋の蓋を持ち上げた。
湯気が立ちのぼる。
甘い香りが先に来た。きのこの、土の底から湧くような匂い。一拍遅れて、焦がしバターに似たこんがりした深みが鼻の奥に届いた。ルークの口に唾液が溢れた。舌の奥が引っ張られる。
「今日は森茸のスープだ。十層で採れた土属性の茸を、弱火でじっくり煮込んでる」
男が木の器にスープをよそう。お玉を傾ける角度が丁寧で、一滴もこぼれない。とろりとした琥珀色の液体の中に、薄切りにした茸が浮かんでいる。表面に浮いた脂が、魔石灯の光を受けて虹色にゆらめいた。
「一杯、銅貨三枚」
「銅貨三枚!? 嘘だろ、地上の飯屋でもこの値段ないぞ」
トビーが素っ頓狂な声を上げた。確かに安い。携帯食一つ分の値段だった。
「そうか? 原価がほぼゼロだからな。食材は自分で採ってるし」
「自分で採ってる? ダンジョンの中で?」
「当たり前だろ。料理人が自分で食材選ばなくてどうする」
カイはさも当然という顔で言った。
トビーがルークの袖を引っ張って、小声で言った。
「……怪しくない? 銅貨三枚って安すぎるだろ。薬でも入ってたら身ぐるみ剥がされるぞ」
「でも匂いは本物だよ」
ルークは鍋を見ていた。カイは四人のほうを見てもいなかった。器にスープをよそいながら、もう片方の手で火加減を調整している。客を待ってる顔じゃなかった。鍋の中身しか見ていない。
「……商家の勘だけど、悪いやつはもうちょっと愛想がいい」
トビーが鼻を鳴らして、先に銅貨を出した。
ルークも銅貨を置いて、器を受け取った。木の器は手のひらに温かかった。一口すする。
茸がぷつっと歯を押し返して、中からじわっと汁が染み出した。噛むたびに出る。甘い。茸の汁が甘い。もう一口すすると、とろみが舌にまとわりついて離れない。飲み込んだ後も、鼻の奥に茸の匂いが残っている。
「うまっ」
言葉が先に出た。考えるより先に、二口目をすすっていた。
「うまい。なんだこれ。なんでダンジョンの中でこんなもんが出てくるんだ」
男は嬉しそうに目を細めた。目尻の皺が深くなって、さっきまでの猫背が少しだけ伸びた。
「もう一杯あるぞ」
「もらう!」
「あ、ずるい! 俺もおかわり!」
トビーが空の器を突き出した。ルークが負けじと器を差し出す。
「俺が先に言ったんだけど」
「俺の方が器出すの速かったろ!」
「はいはい、二人とも落ち着け。ちゃんとあるから」
カイが笑いながら二人の器にスープをよそった。お玉の動きに迷いがない。二杯同時に、まったく同じ量。
ミラとエリカは、まだ銅貨を出していなかった。
ミラは二人の様子を見ていた。ルークの顔色。トビーの瞳孔。薬が入っていれば三分もあれば何か出る。二分経った。二人ともおかわりを争っている。顔色も瞳孔も正常。むしろ良い。
「……エリカ、大丈夫そう」
「うん。二人とも、体の中がおかしくなってない」
エリカがルークの背中にそっと手を触れて、頷いた。
ミラが銅貨を置いた。エリカもそっと横に並べた。カイが二人にも器をよそった。
ミラが器を持ち上げて、中身を観察した。表面に浮かぶ脂の色を見つめ、スープを少し傾けて粘度を確かめている。
「これ、普通のスープじゃない」
「ん? 普通のスープだけど」
「いいえ。魔力が、整ってる」
ミラが目を閉じた。固有スキル【分析眼】で、器の中を覗く。
スープの魔力が、乱れていない。
普通は調理の過程で魔力が散る。だからダンジョン素材の料理は不味い。魔力が壊れるからだ。
なのに。
この魔力の流れは均一だった。ミラは目を開けて、男を見た。鍋をかき混ぜているだけの男。
理論的にありえない。
「ミラ、飲まないの? めちゃくちゃうまいよ」
トビーが二杯目を飲みながら叫んだ。
「うおお、口の中で茸が踊ってる! いや待って、これ踊ってるんじゃなくて、俺の舌が踊ってる! 嘘だろこれ銅貨三枚!?」
トビーの声が安全地帯に響き渡る。近くでパンをかじっていた別の冒険者が、手を止めてこちらを見た。匂いは届いているはずだ。でも誰も寄ってこない。ダンジョンの中で見知らぬ男が作った飯を銅貨三枚で出す。普通に考えたら怪しい。ルーク達が先に食べていなかったら、自分たちも近づかなかっただろう。
「……飲むわよ」
ミラがスープを口にした瞬間、分析を忘れた。
舌に乗った茸の粒が、噛む前にほどけた。出汁の旨味が口の奥まで走って、飲み込む前にもう次の一口を掬っていた。
エリカが仲間の背中にそっと手を当てた。【聖癒】の副次効果で体内の状態を感知できる。触れた瞬間、首を傾げた。
「ルーク、筋力値が上がってます」
「え?」
「トビーも。索敵範囲が広がってる。ミラの魔力回復速度が通常の一・五倍。……なんでだろう」
エリカの声は淡々としていた。報告するように事実だけを並べる。だがその指先は、わずかに震えていた。
四人が男を見た。男は鍋に向き直っていた。味見のスプーンを舌にのせて、目を閉じる。二秒。目を開いて、岩塩をひとつまみ足した。
「あの、すみません」
ルークが声をかけた。
「このスープ、飲んだら体の調子がすごくいいんですけど」
「そうか。栄養バランスがいいからな。ダンジョンの食材は、地上のより力があるんだ。ちゃんと調理してやれば、体にいいもんが食える」
あっさりした答えだった。
ルークはそういうものかと納得したが、ミラだけが納得していなかった。栄養バランスで筋力値は上がらない。魔力回復速度も変わらない。
「あの」
ミラが切り出そうとした時、空気が変わった。
通路の奥から、低い唸り声。十五層に出現するゴブリン・ウォーリアの群れが、安全地帯の境界線ぎりぎりに姿を現した。五体。新人パーティには荷が重い数だ。
ルークが剣に手をかけた。
その時。
男が鍋の蓋をした。
ただそれだけの動作だった。蓋を閉めて、火の加減を確認して、前を向いた。それだけ。
ゴブリンたちが、止まった。
先頭の一体が鼻をひくつかせた。そして、じりじりと後退し始めた。まるで、目の前に天敵がいるかのように。残りの四体もそれに続いて、通路の奥に消えていった。
静寂。
「……いま、何が」
ルークの声が震えていた。
男はエプロンで手を拭きながら、何事もなかったように言った。
「ああ、あいつら。この辺の茸が好きでよく来るんだけど、飯の匂いがすると離れていくんだ」
「匂い……で?」
「不思議なもんでな。人間の飯の匂いがすると、なぜか近づいてこないんだよ」
ミラの眉が寄った。あのゴブリンたちは匂いに引かれたのではない。何かに怯えていた。
カイが鍋に向き直った隙に、トビーがルークの肩を掴んだ。小声で、だが必死の声だった。
「なあ、今の見たか。ゴブリン五匹が逃げたぞ。蓋閉めただけで」
「見た。見たけど、理由が分からない」
「匂いで大人しくなるって、そんな話聞いたことある?」ルークがミラに目を向けた。
「ない」ミラは即答した。「ゴブリン・ウォーリアの行動パターンにそんな記録はない。あれは明らかに、何かに怯えてた」
「じゃあ、あの人が?」
「しっ。聞こえる」
エリカが小さく制した。四人は口をつぐんだ。
だが男はもう鍋に向き直っている。茸を追加して、焦げないように木べらでゆっくりかき混ぜている。穏やかな横顔。食堂の主人そのものだった。
「ルーク」
エリカが小声で言った。
「あの人の手、見た?」
「手?」
「あの手は、包丁を握ってきた手だけじゃない。剣を握ってきた手もしてる」
ルークはもう一度、男の手を見た。包丁を滑らかに動かす右手。確かに、指の付け根に剣だこの痕がある。古い、もう何年も前についた痕だった。
「でも、Fランクだろ? ギルドの登録証が見えた」
「うん。……不思議だなって思っただけ」
エリカはそれ以上何も言わなかった。言い慣れない推測を口にしかけて、飲み込んだ顔だった。
男が新しい器にスープをよそいながら、ルークたちに声をかけた。
「お前ら、この後どこまで潜る?」
「二十層を目指してます」
「二十層か。あの辺は水属性のモンスターが多い。土属性のバフがあると楽なんだけどな」
「バフ?」
「あ、いや。土属性の食材を食っとくと体が温まるっていうか、地に足がつくっていうか。まあ、おまじないみたいなもんだ」
カイはへらへら笑った。
「とりあえず、腹いっぱい食ってから行きな。空腹で戦うのが一番危ない」
ルークは思った。変な人だ、と。ダンジョンの中で屋台なんかやってる変人だ。
でも、飯はめちゃくちゃ美味い。
「カイさん」
「ん?」
「また来ていいですか」
男の顔が、ぱっと明るくなった。
「いつでも来い。明日は、地底魚が手に入ったら刺身にしようと思ってる」
「刺身?」
「ああ。薄く切って、生で食うんだ。ここの魚は、鮮度さえ良ければ最高に美味い」
「生で? ダンジョンの魚を?」
「当たり前だろ。鮮度がいい魚は生が一番美味いんだ」
カイは当然のように言った。
その表情があまりに自然だったから、ルークは聞きそびれた。
鮮度のいい地底魚は、二十層より深い水場にしかいない。つまりこの男は、少なくとも二十層に単独で潜って、生きて帰ってくる力があるということだ。
Fランクの飯屋が。
ルークはそこまで考えが及ばなかった。ただ「明日も美味い飯が食える」と思って、仲間と一緒にダンジョンの奥に向かって歩き出した。
カイは四人の背中を見送りながら、鍋に目を落とした。
「あの子たち、ちゃんと食ってるかな。顔色悪かった。特にあの剣使いの子、腕の筋肉が硬くなってる。ちゃんとした飯食ってないとすぐ傷めるだろうな」
独り言だった。
「二十層の地底魚か。朝一で行けば、産卵前のやつが採れるかもな」
エプロンの紐を結び直して、鍋の蓋を開けた。スープの表面に浮いた脂が、魔石灯の光を受けてゆらゆら揺れている。味見のスプーンを舌にのせた。
うん、いい。明日はもっといいものを作ろう。
初投稿です




