表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

捨てられた自転車

作者: 雨宮 沙奈
掲載日:2026/02/03

 風を覚えている。

 頬を切る風。耳元で唸る風。

 そして、私のスポークが空気を切り裂く音。

 私は風そのものだった。

 

 今、私は草に埋もれている。

 河川敷の橋の下。

 ここは自転車の墓場だ。

 私と同じように、チェーンが切れ、サドルが破れ、タイヤがのっぺらぼうになった仲間たちが折り重なっている。

 私たちは「不法投棄」というレッテルを貼られたゴミの山だ。


 私の名前は「シルバー・ウィンド」。

 変速ギア付きのシティサイクル。

 ホームセンターで一万九千八百円で売られていた。

 買っていったのは、大学に入学したばかりの青年だった。

 彼のペダリングは軽快だった。

 立ち漕ぎをする時の、ハンドルにかかる体重。

 坂道を下る時の、重力に身を任せる浮遊感。

 ブレーキパッドがリムを擦る、キーッという高音。

 それら全てが、私にとっての生きる喜びだった。


 彼は私に乗ってどこへでも行った。

 通学路。バイト先。

 深夜のコンビニ。

 往復二十キロの海へのツーリング。

 彼の汗がハンドルグリップに染み込み、雨が私たちの身体を洗い流した。

 「頼むぜ、相棒」

 彼はパンク修理のたびにそう言った。

 ゴム糊の匂い。パッチを貼る手つき。

 空気入れでタイヤが膨らむ時の、あの張りのある感触。

 私は何度も蘇った。

 彼がペダルを踏み込む限り、私はどこまでも走れた。


 春には、彼の後ろの荷台が特等席になった。

 「重いけど、ごめんね」

 彼女の声。

 二人乗り。

 法律では禁止されているけれど、青春の特権のような密やかな背徳。

 彼女の体温が荷台越しに伝わる。

 彼の背中が緊張で硬くなっているのがわかる。

 頑張れ、オーナー。

 私は軋むフレームに鞭打って、二人分の重さを支えた。

 桜並木の下。

 花びらが舞い散る中を、私たちは滑るように走った。

 車輪が回転するたびに、世界が色彩を帯びていくようだった。


 しかし、終わりは呆気ない。

 四年後。

 彼は卒業し、就職が決まった。

 引越しの日。

 荷物がトラックに積み込まれていく。

 私は?

 私は積み込まれなかった。

 「これ、どうしますか?」

 業者が聞く。

 「ああ、それは……。もう古いし、向こうじゃ乗らないから」

 彼は少しだけ迷い、そして言った。

 「置いていきます」


 置いていく?

 どこに?

 彼は私を駅前の駐輪場まで乗せ、そして鍵をかけずに立ち去った。

 「じゃあな」

 最後の一言は、あまりにも軽かった。

 背中が遠ざかる。

 振り返らない。

 待ってくれ。

 私はまだ走れる。

 チェーンが少し錆びているけれど、油を差せばまだ回る。

 タイヤの溝もまだある。

 置いていかないでくれ。

 私の叫びは、誰にも届かなかった。


 それから私は、撤去され、トラックに乗せられ、ここに捨てられた。

 所有者不明。ゴミ。

 

 雨が降る。

 私の鉄の肌が酸化していく。

 赤錆が進行し、フレームを侵食する。

 痛くはない。

 ただ、感覚が鈍くなっていく。

 可動部が固着し、もうハンドルは切れない。ペダルも回らない。

 植物の蔓が、私のスポークに絡みついている。

 夏草が私を覆い隠そうとしている。

 地面に還るのだ。

 鉄鉱石から生まれ、鉄製品となり、そしてまた土へと還る。

 

 時折、橋の上を新しい自転車が走っていく音が聞こえる。

 シャーッという、滑らかなタイヤ音。

 楽しそうな笑い声。

 羨ましくはない。

 私にも、あの日々があった。

 風を切った記憶。

 誰かの足となり、翼となった記憶。

 それだけで十分だ。


 私のカゴの中には、枯葉と、誰かが捨てた空き缶が入っている。

 水たまりができ、ボウフラが泳いでいる。

 小さな命の揺りかご。

 それも悪くない。

 

 夜。

 月明かりが河川敷を照らす。

 私は夢を見る。

 主人がペダルを踏み込む。

 グッ、グッ。

 チェーンが張り、スプロケットが噛み合う。

 加速。

 風。

 景色が流れる。

 私たちは飛んでいる。

 

 錆びついた私の車輪が、風に吹かれてキィと微かに鳴った。

 それは、私がかつて「シルバー・ウィンド」だった頃の、最後の歌声だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ