捨てられた自転車
風を覚えている。
頬を切る風。耳元で唸る風。
そして、私のスポークが空気を切り裂く音。
私は風そのものだった。
今、私は草に埋もれている。
河川敷の橋の下。
ここは自転車の墓場だ。
私と同じように、チェーンが切れ、サドルが破れ、タイヤがのっぺらぼうになった仲間たちが折り重なっている。
私たちは「不法投棄」というレッテルを貼られたゴミの山だ。
私の名前は「シルバー・ウィンド」。
変速ギア付きのシティサイクル。
ホームセンターで一万九千八百円で売られていた。
買っていったのは、大学に入学したばかりの青年だった。
彼のペダリングは軽快だった。
立ち漕ぎをする時の、ハンドルにかかる体重。
坂道を下る時の、重力に身を任せる浮遊感。
ブレーキパッドがリムを擦る、キーッという高音。
それら全てが、私にとっての生きる喜びだった。
彼は私に乗ってどこへでも行った。
通学路。バイト先。
深夜のコンビニ。
往復二十キロの海へのツーリング。
彼の汗がハンドルグリップに染み込み、雨が私たちの身体を洗い流した。
「頼むぜ、相棒」
彼はパンク修理のたびにそう言った。
ゴム糊の匂い。パッチを貼る手つき。
空気入れでタイヤが膨らむ時の、あの張りのある感触。
私は何度も蘇った。
彼がペダルを踏み込む限り、私はどこまでも走れた。
春には、彼の後ろの荷台が特等席になった。
「重いけど、ごめんね」
彼女の声。
二人乗り。
法律では禁止されているけれど、青春の特権のような密やかな背徳。
彼女の体温が荷台越しに伝わる。
彼の背中が緊張で硬くなっているのがわかる。
頑張れ、オーナー。
私は軋むフレームに鞭打って、二人分の重さを支えた。
桜並木の下。
花びらが舞い散る中を、私たちは滑るように走った。
車輪が回転するたびに、世界が色彩を帯びていくようだった。
しかし、終わりは呆気ない。
四年後。
彼は卒業し、就職が決まった。
引越しの日。
荷物がトラックに積み込まれていく。
私は?
私は積み込まれなかった。
「これ、どうしますか?」
業者が聞く。
「ああ、それは……。もう古いし、向こうじゃ乗らないから」
彼は少しだけ迷い、そして言った。
「置いていきます」
置いていく?
どこに?
彼は私を駅前の駐輪場まで乗せ、そして鍵をかけずに立ち去った。
「じゃあな」
最後の一言は、あまりにも軽かった。
背中が遠ざかる。
振り返らない。
待ってくれ。
私はまだ走れる。
チェーンが少し錆びているけれど、油を差せばまだ回る。
タイヤの溝もまだある。
置いていかないでくれ。
私の叫びは、誰にも届かなかった。
それから私は、撤去され、トラックに乗せられ、ここに捨てられた。
所有者不明。ゴミ。
雨が降る。
私の鉄の肌が酸化していく。
赤錆が進行し、フレームを侵食する。
痛くはない。
ただ、感覚が鈍くなっていく。
可動部が固着し、もうハンドルは切れない。ペダルも回らない。
植物の蔓が、私のスポークに絡みついている。
夏草が私を覆い隠そうとしている。
地面に還るのだ。
鉄鉱石から生まれ、鉄製品となり、そしてまた土へと還る。
時折、橋の上を新しい自転車が走っていく音が聞こえる。
シャーッという、滑らかなタイヤ音。
楽しそうな笑い声。
羨ましくはない。
私にも、あの日々があった。
風を切った記憶。
誰かの足となり、翼となった記憶。
それだけで十分だ。
私のカゴの中には、枯葉と、誰かが捨てた空き缶が入っている。
水たまりができ、ボウフラが泳いでいる。
小さな命の揺りかご。
それも悪くない。
夜。
月明かりが河川敷を照らす。
私は夢を見る。
主人がペダルを踏み込む。
グッ、グッ。
チェーンが張り、スプロケットが噛み合う。
加速。
風。
景色が流れる。
私たちは飛んでいる。
錆びついた私の車輪が、風に吹かれてキィと微かに鳴った。
それは、私がかつて「シルバー・ウィンド」だった頃の、最後の歌声だった。




