第18話
小学校6年生の頃、社会の授業中にシャーペンを使ってノートを書いていると、突如先生から注意をされた。
「佐々木君、シャーペンは学校で使ってはいけないというルールでしょ。」
担任でもあり、社会の授業をしていた年配の女性教師にそう言われた。
「先生、どうしてシャーペンは学校で使ってはいけないのですか?」
ノートを書く手を止めて俺は先生に質問した。
「どうしてって、ルールで決まっているからよ」
声は普段と変わらないが、先ほどよりも少し不機嫌な表情になる女性教師。
「それは答えになっていません。俺は学校でシャーペンを使うことによって引き起こされる不利益について聞いているんですよ」
不機嫌な表情をさらに不機嫌なものへとする女性教師。これがいわゆる鬼の形相ってやつか。
「とにかく使ってはいけません!これは没収します!」
そう言って俺の手から勢いよくシャーペンを奪い去り、小言でぐちぐち何かを言いながら黒板の方へと戻っていった。
ちなみにそのシャーペンは高校一年生となった現時点でも俺の手元には返ってきていない。
小学校時代のノスタルジーに浸かっていると、いつの間にか6時間目の歴史の授業が終わっていた。黒板にはオスマン帝国やらタンジマートやらという言葉が書かれていたが、俺のノートにはそのような用語を記入されていない。今度浜中にでもノートを見せてもらおう。
帰りのホームルームが終わると、閉まろうとしている電車の扉に何とか乗り込もうとする通勤時間帯のサラリーマンの如く速さで白川が俺のところに寄ってきた。
「佐々木君、この後時間ある?ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
いつもの晴れやかな笑顔はそこになく、深刻な表情をしている。
返事の代わりに軽く頷くと、「こっちに来て」と言って教室を出て行くので、着いて行くことにする。
連れてこられたのは三階にある空き教室だった。
「この学校って、空き教室が多いよね。もっと生徒の募集人数を増やせばいいのにね」
確かに富北高校には空き教室が多い。俺たち1年生の教室がある2階だけでも3つはあるだろう。空き教室はたいてい昼休みのたまり場になっていることぐらいしかい使用されておらず、もったいないなとは思う。ただ、公立学校というのはおそらく、そう簡単に生徒の定員数を変えることはできないのだろなあとも思う。
白川は笑顔こそないが、先ほどまでの深刻な表情はなくなっていた。体を俺の方に向け、目を見据えて言葉を発する。
「佐々木君、美花がバイトしてること学校に言った?」
大きくてぱっちりとした白川の瞳が俺の目を捉えている。様子から察するに、白川は答えを知っている。答えを知っていながら、あえて俺の口から正解を聞き出したいのだ。
「──言ったよ、昨日の放課後に。生徒指導の高木先生に」
息を小さく吐き、視線を俺の目から地面に背け、またすぐに俺の目を捉える。
「どうしてそんなことしたの?」
おそらく今度は答えが分かっていないのだろう。だから俺は、分かりやすく、簡潔に正解を述べることにした。
「バイトがばれたときの罰則がどんなものか、興味が沸いたんだよ」
元々大きい目をさらに拡張させ、驚きの様子を見せながら依然として俺を見つめる白川。その視線には、未知の生命を前にして困惑し、思考が乱れているような感覚が含まれているように思えた。
「それだけ?それだけの理由でチクったの?」
白川の瞳は俺の目を捉えたままで、それを決して離さない意志の強さが伝わってくる。彼女の発する言葉には自然と重りが乗っていた。
「それだけだよ。他に理由なんてないさ」
「一週間の停学」
「ん?」
「一週間の停学。それがバイトがばれたときの罰則内容。もちろんバイトもその日限りで辞めさせられたって。美花、今日学校来てなかったでしょ?心配だったから昼休みに電話してみたの。そしたら……色々教えてくれた。昨日の夕方急に学校から連絡があって、バイトのこと問い詰められたって……。」
そういえば明智は今日学校を欠席していた。なるほど、昨日処分が通達されて、本日から罰則が施行されたということか。
「美花、泣いてたよ。医学部に入るための学費がかせげなくなったって。お医者さんになれなくなったって。将来の夢が・・・夢が壊されたって!」
力強い言葉は空き教室全体を揺さぶるかのように、俺たち2人がいる空間を歪ませた。
白川がこんなにも自身の思いを吐き出している姿を見るのは付き合って以来、初めてかもしれない。
いつも明るく笑顔で、向日葵のような花みたいな奴が、今は棘のある薔薇の花のように見えた。
「でもお前、規則を破っている人を見過ごしていいのか、みたいなこと言ってなかったか?」
「たしかに言ったよ。でも、規則って所詮は人間が作ったものでしょ。法律だって同じ。完全な人間なんていないでしょ。不完全な人間が作った規則なんて所詮は不完全なのよ、万能じゃないのよ。」
シャーペンを担任に取られたときのことを思い出しながら、俺は言葉の続きを黙って聞くことにした。
「アルバイトは学業に支障をきたすって何?バイトを禁止されて医学部に行って勉強できなくなったらそれこそ学業に支障をきたしてるじゃない。学業どころの話じゃない、一人の女子生徒の人生を台無しにしてるじゃん。学校や、佐々木君は責任をとれるの?」
この空き教室を法廷とするならば、白川は検察官、俺は被告人といったところか。白川がどんな理論を構築していようが、どんな感情に心身を支配されていようが関係ない。俺は俺の考えを言うだけだ。
「責任なんかとるつもりもないし、とる必要性も感じない。それ以上でもそれ以下でもない」
特に声を荒げるわけでもなく、かといって萎縮することもなく、「消しゴム忘れたから貸して」という日常会話をするような気持ちで、俺は目の前の検察官にそう告げた。
膨れ上がっていた感情という風船に穴が開き、少しずつ萎んでいき小さくなる。
「そっか」という声には、被告人を追い詰める検察官ではなく、いつもの白川が感じられた。
「やっぱり佐々木君は、私が思っていたとおりの人間だよ」
微笑みを表情に浮かべる白川は、既に俺の目から視線を外していた。
白川という人間がますます理解できなくなっていた。先程の怒りともいえる感情が、今やその面影すらなくしている。こいつは一体。何者なんだ?
足を一歩前に出し、俺との距離を少し詰める白川。そして唐突に──。
「そういえば、私がどうして佐々木君と付き合うことに決めたのか、その理由を話したことがなかったよね。今、話してもいいかな?」
思いもかげないその言葉に、全身が痺れるような感覚に陥った。急展開に思考が追い付かない。思考よりも口が先に動きをあげる。
「ああ、教えてくれ」
俺は無意識に白川との距離を詰め、彼女の両肩に手を乗せていた。
白川綾という人間が何者なのか、理解することができるかもしれない。俺の好奇心溢れる目には白川の輝く瞳が映し出されていた。しかし、輝きが強すぎて、奥深くまでは視認できない。
まあいいさ、とにかく話を聞こう。