第16話
空は灰色一色だった。
6月に入ってからというものの、「今日は良い天気だなあ」と思える日は少ない。しかし、天気予報では依然として梅雨入りをしたという情報は流れてこない。
雨が降りそうな空模様だけど、雨は降っていない。空気中から湿気の匂いを肌に吸収させながら、俺は白川と一緒に公園のベンチに腰かけていた。
今日は日曜日。
「明日デートしよ!」という白川からのLINEでの誘いがあったのは土曜日の夜のこと。
もちろん今日のデートプランも白川に全任せ。
「ここの公園、佐々木君と一緒に来たかったんだ!」と言われて連れてこられたのがここ、『もみじ坂公園』という場所である。
もみじ坂公園は、園内中央に大きな川が流れており、その川を境に北側に芝生エリア、南側は遊具エリアという風に2つの場所に分かれている。
東京ドーム10個分はあるという広い公園で、黄緑坂駅から徒歩10分程という立地の良さも相まって、休日には子連れの家族やカップルが多く訪れているらしい。
俺たちが今座っているベンチは芝生エリアの一角に備わっている。
「こうやって、ただ座っているだけでも楽しいなあ~」
こちらを向いて、いつもの笑顔で白川はそう言った。
天気は曇りだが、白川の心は快晴のようだ。
そもそも白川の心に雨が降ることはあるのだろうか?
今日の白川は、白地に英語がプリントアウトされたTシャツにチノパンといったラフな格好だった。肩からは水色の比較的小さめのショルダーバックを提げている。
「ところで、どうしてここに来たかったんだ?ベンチに座るだけならこの公園じゃなくてもできるだろ」
白川は俺のその言葉を待ってましたと言わんばかりに突如立ち上がった。
「その感じだと、やっぱり佐々木君は『伝説の恋の展望台』のことは知らないようだね!」
「伝説・・・恋・・・何のことだ?」
意地悪そうな笑顔を浮かべながら白川は話を続ける。
「この公園には小さな塔があって、その屋上が展望台になってるんだよ。その展望台の中心でカップルが手をつないで、つないだ手を挙げながら1分間目を閉じて『幸せ』を願うと、そのカップルは永遠に幸せになれる、という伝説があるんだよ!」
そう語る白川は既に幸せなオーラを体中から解き放っているように見えた。
正直俺はこの類の噂話だったり都市伝説だったりは信じていない。
ただ、小さな子供のように目をキラキラとさせ、期待に満ちた表情を見せる白川に「俺はそんな伝説を信用しない」と言う気にはなれなかった。
「その伝説とやらをさっさと試してみようぜ」
俺の言葉に白川は満面の笑みで右手の親指を立てた。
ちなみに、親指を立てるポーズのことをサムズアップというらしい。
伝説の展望台がある塔は芝生エリア側にあったらしく、すぐに到着した。
塔は臙脂色を濃くした壁で出来ており、高さは15~16メートル程度といったところだろうか。
螺旋階段を上り、展望台に出る。
展望台はコンビニ程度の広さしかなく、こじんまりとしていた。
先客は誰もいない。
中心部はピンク色のペンキでバツ印が塗られていたので見つけるのが簡単だった。
「この印、どう見ても公的なものじゃなくて誰かに落書きされたものだよな」
お世辞にも丁寧とは言えないバツ印の描かれ方に思わず呟く。
「細かいことは気にしちゃだめだよ!」
白川は特に何も気にしていないようだった。
俺たちはバツ印の上に足を置いた。
突如、左手に暖かな感触を覚えた。
目線だけをそちらにやると、何が起こったかすぐに分かった。
白川が俺の左手を握っていた。
白川と俺は付き合っている。付き合って1カ月以上は経過しているというのに、俺たちは今まで手をつないだことがなかった。(握手はした記憶があるが)
今初めて、俺は白川と手をつないでいる。
血液が全身を勢いよく流れ出し、身体中から熱を放出している気がする。
空は灰色一色のはずなのに、俺の目には不思議とカラフルな景色が映し出されている。
これは一体何なんだ?
現実世界とは隔たれた空間へ投げ出されたような感覚。しかし、この空間はどうしてか分からないが、居心地が良い。
はっとして白川の方を見る。
白川は目を閉じていた。
そしていつの間にか、俺の左手と白川の右手は雲で隠れている天を指し示していた。
「カップルが手をつないで、つないだ手を挙げながら1分間目を閉じて『幸せ』を願うと、そのカップルは永遠に幸せになれる」という白川の言葉を思い出す。
目を閉じて暗闇の中へ入る。
しかし、そこに暗闇はなかった。
あったのはやはり、カラフルな世界だった。
数100種類以上の色の靄が辺り一面に散りばめられている異空間。目を閉じている俺はその中を彷徨いながら、あることを思案していた。
「……くん。さ……くん。……佐々木くん」
カラフルな世界が一転し、灰色の空が見えた。
横を振り向くと、白川の笑顔がそこにあった。
「『幸せ』、願ってくれた?」
白川は笑顔を作ったまま、俺をじっと見つめる。
「ああ、ちゃんと願っておいたよ」
白川はにこっとして「ありがとう」と一言だけ答えた。
白川の右手は既に俺の左手から離れていた。
カラフルな世界に滞在していた1分間、いや、俺の間隔ではそれ以上の時間が流れていたような気がするが、俺はそこで『幸せ』などというものは願っていなかった。
俺が思案していたことはただ一つ。
白川綾とは何者なのだろうか?