第9話
時刻は15時。
この商業施設内には有名なドーナツ屋があるらしく、そこに行こうということになった。
その店一番の人気商品は『キングドーナツ』というものらしい。
キングドーナツは普通のドーナツの上に特製のカスタードクリームソースとチョコレートソースがかけられており、2つのソースの調和が絶妙で、老若男女問わず人気なんだとか。
白川曰く、日によっては売り切れになってしまうとのこと。
ドーナツ屋には既に20人ぐらいの列が出来ていた。
俺たちが列に並んだ後もすぐに後ろに人が並び、行列が途絶えることはなさそうだ。
「久しぶりのキングドーナツ、どうしよう、今からよだれが出てしまいそう」
幸せそうな表情を浮かべる白川を見て、どれほど美味いドーナツなのか少し気になってきた。
前に並んでいる人数はどんどんと減っていく。店員の客裁きが上手いことが分かる。
目の前に並んでいた人の注文が終わり、いよいよ俺たちの番になった。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか」
にこやかな笑顔で出迎えてくれる女性店員さんに、『キングドーナツ』を2つ注文した。
「ありがとうございます。お会計660円になります。」
割り勘でお金を出し、レジ隣のスペースでドーナツを受け取る。
「やったあ久しぶりのキングドーナツ!」
無邪気に喜ぶ白川はまるで小さな子供の様だった。よほどこのドーナツは美味いらしい。先程食したカルボナーラは既に消化を終えているようで、俺の胃袋は吸収するものを欲していた。
「申し訳ありません、キングドーナツは本日売り切れとなってしまいました」
ふと横を向くと、先ほどにこやかに対応をしてくれた店員さんが、今度は暗い表情となって、俺たちの後ろに並んでいた客に向かってそう告げていた。
「え~キングドーナツないの?そんなの嫌だよー!」
「なんで買えないの?ねえ、どうして?」
小学校高学年ぐらいの男の子と、低学年ぐらいの男の子が店員さんに向かって不満をぶつけていた。
「こら、やめなさい。仕方ないじゃない売り切れなら。すみませんね」
母親と思われる女性が子供たちを注意する。
「せっかく楽しみにしていたのに・・・」
それでも子供たちの不満は解消されていないようだった。
どうやら俺たちが買ったドーナツが本日最後の2つだったらしい。流石は人気商品というだけある。
そんなことを考えながら会計の方を眺めていたら突如、白川が子連れ家族の前へ立ち寄った。
「よかったらこのドーナツあげるよ」
ドーナツを差し出し、にこっとして白川が子供たちにそう言った。
「え、いいの?」
「お姉ちゃんありがとう!」
大はしゃぎで喜ぶ子供たち。
母親は「そんな、申し訳ないので大丈夫です」と断っているが、白川は笑顔で「また今度買いに来るので大丈夫です」と言ってドーナツを男の子に手渡した。
「ほら、佐々木君のドーナツも渡してあげて」
にこにこしながら白川がこちらを向いてそう告げる。早く早くと言わんばかりに手招きをしながら。
「何で俺がこの子供たちにドーナツをあげなきゃいけないんだ?」
一瞬、辺りの時間が止まったかのようになった。
「え・・・?」
時は直ぐに動き出し、きょとんとした目で俺を見ている白川。
「このドーナツは俺が買ったものだ。どうして見ず知らずの他人にあげなきゃいけないんだ?」
「どうしてって、この子たちがかわいそうだから・・・」
「かわいそう?何がかわいそうなんだ?偶然目の前で商品が売り切れただけだぞ」
俺には白川の言動と行動が理解できなかった。
自分たちが買ったものを見ず知らずの他人に無償で与える。そんなことをして何になるんだろうか。
もし、白川のしていることが正しいことだというのならば、社会は成り立たない。現代社会というのは通貨と物やサービスを交換することで成り立っているのだから。
タダで物をあげる行為ほど愚かなことはない。
それとも、この子供たちにドーナツをあげることで何か利益があるのだろうか?
困惑した表情で黙ってしまう白川。デート中、俺との会話を途切れさせることはあまりなかったのに、今は言葉が全く出てこないようだ。
「気持ちだけ受け取っておくわね、ありがとう。ほら、ドーナツをお姉さんに返しなさい」
母親は子供たちにドーナツを返すように言った。しかし子供たちはその要求に従わない。
「嫌だよ!もうもらったんだから返さない!」
「返しなさい」「返さない」親子の押し問答に黙っていた白川が口を開く。
「そのドーナツ、せっかくあげたんだから残さず食べるんだよ」
と言い残し、店の外に出て行ってしまった。
「やったあ」と喜ぶ子供たち。言葉を失ってしまう母親。
何だこの状況は?
ここにいても仕方がない、俺も白川を追って店を出ることにした。
もちろん俺はキングドーナツを子供たちにあげることなんてしなかった。
商業施設内はたくさんの人で賑わっている。
人が多く、白川を見つけられるだろうかと少し心配したが、そんな必要はなかった。
白川はドーナツ屋近く、通路に備え付けられているベンチに座っていた。
「ごめんね勝手に出てきちゃって」
俺がそばに来ると、いつもの笑顔でそう言った。
「となり、座っていいか?」
こくん、うなずいたので、隣に腰をかけることにする。
「半分やろうか?」
手に持っているキングドーナツを見せながらそう言ったが、白川は首を横に振った。
じゃあ遠慮なく、ということで俺はキングドーナツを一口食べてみた。
なるほど、これは確かに美味い。
2つのソースはもちろんだが、そもそもドーナツが美味い。外側はこんがり焼かれているのに対して、内側はふわふわとしており、両側のアンバランスさが何とも言えない食感を生み出している。
ドーナツを半分ほど食べたところで白川が話しかけてきた。
「美味しい?」
「ああ、今まで食べたドーナツの中で一番美味いかも」
「それは良かった。ちなみにだけど、何か心がもやもやとかはしない?」
心がもやもや?質問の意味が分からなかったので適当に「特に何も」とだけ答える。
「そっかあ」と白川は答えた。目線は先ほどのドーナツ屋に向けられている。
ドーナツはあっという間に食べ終えてしまった。
さて次はどこに行くのだろう。俺は白川の行動を待つことにした。
白川は依然としてドーナツ屋の方を見ていた。ただ見ているだけではなく、何かを考えているようだった。
数分後、口を開く。
「佐々木君、改めて聞くけど、ドーナツを食べている時に、心にしこりのようなものが付いている、そんな気持ちにはならなかった?」
心にしこり?改めて聞かれても意味が分からないことに変わりはなかった。
キングドーナツは美味しかった。それ以外に感じるものは何もない。
そんな俺の言葉を聞いて、白川はにこっと笑顔を作った。
「やっぱり佐々木君は私が求めていた人だよ!これからもよろしくね!」
満面の笑みを向けながら手を指し伸ばし、握手を求めてきた。
表情には出していないが、思わぬ言葉に俺は驚愕していた。
俺が白川の求めていた人?
この短時間に俺は白川の臨む何かをしたらしい。
ドーナツ屋でのことを振り返ってみる、が思い当たるふしはない。俺はいたっていつも通りで普通だったはずだ。
どうして白川が俺と付き合おうと思ったのか、その理由がますます分からなくなった。
白川の瞳は輝いていた。
目の中には銀河を彷彿とさせるように星が散りばめられているようだった。
そんな美しい輝きに引き寄せられるかのように、俺は無意識に白川の右手を握りしめた。
手から白川のぬくもりが伝わってくる。そのぬくもりは優しく、そして不思議と力強さが含まれていた。
「よ~し、じゃあ今からカラオケに行こっか」
俺の彼女は今日一番の笑顔を見せながら歩き出した。
その笑顔には一体どんな感情が入り込んでいるのだろうか。まあ、考えたところで何も分からないだろう。
とりあえずは、カラオケか。
俺は白川の後をついていくことにした。