第二章 斬られていない死体
深川・霊岸島の長屋裏――夜明け前。
小舟の縁に横たわる男の死体が、薄明の川霧に浮かんでいた。
――腹が、割れていた。
いや、正しくは「裂けていた」。
服は腹部を中心に破れているが、刃が入った痕跡はない。表面の皮膚にも、明確な“斬痕”はなかった。
「……これは、斬られてねえな」
顔をしかめながら、与力の柳生 録之助が腰をかがめた。
吉睦の横で、下手人の刀傷を確認するつもりが、拍子抜けした様子である。
「だが、開いている」
山田浅右衛門・吉睦は、黙って男の腹部を調べていた。
皮膚の下、筋層――そして内臓へ。そこには明らかに“断裂”がある。
肝臓、腸――すべてが“まっすぐ”に断たれている。
「切創……だな。しかも、かなり鋭い」
「でもよ、刀痕はねえぞ? これじゃあ……刀なんざ、抜かれてねえってことになっちまう」
録之助の言葉に、吉睦はしばし沈黙した。
「……“刀を抜かずに斬る”。そんな手があるとすれば、どうする」
「冗談じゃねぇ」
そのとき、現場に駆けつけた町役人が、被害者の身元を報告する。
「被害者は、刀剣店『香月堂』の番頭、徳兵衛とのことです。昨夜、閉店後に一人で戻っておらず……」
「香月堂……」
録之助が小さくうなった。
「あそこは、旧幕臣筋の刀をいくつか預かってる。たしか、仕込み鞘や外装仕込みの奇品も多かったはずだ」
「鞘……」
吉睦の瞳が、わずかに動いた。
「録之助。――“鞘で斬る”とは、どういうことか、知っているか?」
「……まさか。“仕込み”ってやつか?」
吉睦は答えなかった。ただ、遺体の胸に手を当てる。
――何も語らぬ体。
“斬られた者の記憶”は、そこには……なかった。
「……斬られていない。だから、“声”が残っていない」
風が吹いた。
霧が揺れ、夜明けの陽が、静かに地を照らし始めた。
――これは、“沈黙の斬殺”である。