記録争奪と影の対決
その夜。雨戸の外で、かすかな衣擦れの音がした。
吉睦の屋敷――小塚原の外れにある試斬場併設の書院。
灯を落とした座敷の奥で、彼は静かに佇んでいた。
襖の陰、手元には一冊の綴じ帳。
それこそが、山田家の秘蔵――「斬痕録・禁断の巻」。
その中には、過去百余に及ぶ試斬の記録が眠っている。
「三ツ胴試之」もまた、そこに記されていた。
――すでに“気配”はある。
今宵、あの男が来る。
「……やはり、来たか」
雨戸が静かに外され、影がひとつ、室内へ忍び込む。
白い呼吸、低い足音、剣の柄に添えられた指。
入ってきたのは、旅装に身を包んだ中年の男――いや、“狂人”だった。
「会えて光栄だ、山田浅右衛門 吉睦殿」
男の声は驚くほど落ち着いていた。
「村瀬主水……か」
吉睦が名を呼ぶと、男の目がかすかに笑った。
「私は、“貴殿のように”斬れる者であることを証明したい」
「証明するために、人を殺すのか?」
「“おぬしら”が斬ってきた死罪者と、何が違う? 私は、記録に残りたい。“斬った痕”として、後世に伝わる者となりたい」
主水の目が異様に澄んでいた。
「“御様御用”にはなれなかった。だから私は、“御様を斬る者”となる」
瞬間、主水の手が動いた。
居合――否、違う。
“試斬を模した構え”。袈裟から下ろす刃の軌道は、美しいほどに正確。
吉睦は帳面を背に、刀を抜いた。
「ならば、その“記憶”、ここで断ち切る」
刃と刃がぶつかった。
だが――
「お前の刀……記憶が、泣いている」
吉睦は確かに感じた。
村瀬主水の刀から滲み出る、幾つもの“斬られた者たち”の痛み。怒り。迷い。
それは、刀に刻まれるべきものではなかった。
「お前は、斬ったのではない。“自分を刻んだ”だけだ」
主水の表情が、初めて崩れた。
「黙れ……! お前らだけが、“斬る者”ではない!」
だがその叫びと共に振り下ろされた刃は、迷いに濁っていた。
吉睦の一閃――
刀身が、主水の右腕を断つ。
刃は飛び、畳に突き刺さる。
主水は叫ばず、血に濡れながら、倒れた。
「記録に残りたいのなら……その身を、残すがいい」
吉睦は、そっと“斬痕録”の一頁を開いた。
新たな空白の一行に、墨を走らせる。
> 文政九年 三ツ胴試之・未遂/施主:村瀬主水
> 試斬失敗、右腕断。斬痕、意図乱れ有。記録として不完全。
そして、静かに筆を置いた。