藩士との接触/過去の主水像
その日、吉睦は一通の文を手に、浅草の小野照崎神社の裏手に足を運んでいた。
約束した相手は、元・鍋島藩士――片桐 忠兵衛。
かつて藩の御刀番として納刀・修繕・管理を担っていた人物である。
屋根が斜めに傾いた茶屋の奥、あずまやの下で、忠兵衛は既に一人、待っていた。
白髪まじりの髷を結い、手に持つ湯呑みが冷めて久しい。
「……村瀬主水、か」
その名を聞いた途端、忠兵衛は顔をしかめた。
「あやつは、もともと“選ばれし者”ではなかった。だが己が“斬れる者”だと信じ、焦り、迷い――やがて……狂った」
「狂った?」
「斬り口を“鑑賞”するようになったのだ。“肉の裂け目が、まるで布のように柔らかい”と……笑いながら言っていた。斬り味の良さを、人の命より上に置いた」
吉睦は黙していた。
「“なぜ私ではなく、あの男が御様御用なのか”……あやつは、そう言っていた。試し斬りの真似事をしながら、自らの存在証明を得ようとしていた」
忠兵衛は一息置いた。
「ある日、“あの男が刀を持ち出した”と耳にした。慌てて納刀所に走ったが、記録は改ざんされていた。主水の名は、どこにもなかった」
「――納刀台帳から、消された」
「それがあやつの“始まり”だったのだろう。吉睦様……あの者は、“技術”ではなく、“存在”を盗もうとしている」
吉睦の胸に、重い感覚が落ちた。
刀を振るい、人を断ち、その痕を見立てる。
それは、命を奪う行為ではない。“刀が何を語るか”を聴く、問いかけの営みだった。
だが、主水はそれを真似るだけでは足らず、“記憶の刻印”までも奪おうとしている。
「まさか、奴が……“三ツ胴”を狙っていると?」
忠兵衛が息を呑む。
「……あやつは最後、“あの斬り方だけはお前の域に届かぬ”と吐き捨てた。“三ツ胴”。二つの胴体を縦一文字に貫く至難の技……」
吉睦はふと、懐の帳面を撫でた。
――文政六年、盗賊・真壁仁左衛門を用いた「三ツ胴試之」の記録。
もしその記録が、奴に知られていれば――。
「その帳面、奪いにくるかもしれんぞ」
忠兵衛の言葉に、吉睦のまなじりがわずかに震えた。
「すでに……“気配”はある」