鑑定記録の調査
翌日、浅草小塚原の屋敷に戻った吉睦は、灯明をともすと奥座敷の書棚に手を伸ばした。
引き出したのは、黒革の綴じ帳――「斬痕帳」。
そこには、吉睦がこれまで試し斬った刀の銘、銘振り、斬れ味、施主(持ち主)、試斬箇所(腕・胴・首など)、死体の状態までが、余白なく筆写されていた。
鉄の語り、骨の割れ方、血の流れ方。すべてが“斬った者”にしか書けない密度で記されている。
「肥前忠吉……無銘……のたれ刃文、反り浅し。斬痕、胴一重断ち」
目録の一頁、そこに記された文字があった。
「文政七年。試料は盗人・高橋重蔵。施主――鍋島藩・留守居役。納刀先、不明」
吉睦の目が止まる。
「納刀先が、記されていない……?」
通常、試斬後は施主に戻されるか、鑑定所の蔵へ納められる。その経路が残っていないなど、まずあり得ぬ。
吉睦は懐から小刀を取り出すと、帳面の脇に墨のにじみを見つけた。
「……書かれた跡を削ったか。いや、最初から“書かなかった”のか」
背後で、障子の影が動いた。
「また、妙なことになっておいでだな」
ぬっと入ってきたのは、吉睦の旧知――元南町廻り同心で、今は隠居の古道具屋、**柴山長兵衛**だった。
「鍋島の刀だってな。あそこの連中は、物が上等だが出所がいつも曖昧だ。裏手に忍ばせる商人筋も多い」
「留守居役の名義で試斬に出され、戻された記録が消えている。あり得るか?」
「ふん、あり得ぬ、とは言えんな。あそこには、江戸詰めの隠密組織があると聞く。“刀を使った実験”――していたら、表には残さんさ」
吉睦は手を止めた。
静かに閉じた帳面の端が、風もないのにわずかにめくれた。
「その刀は、私が斬った。だが、いまそれは“他人の怒り”を帯びている」
「斬られた者の記憶が、刀に残るのか……?」
「違う。斬った者の“迷い”が、残る」
吉睦の声が落ちた。
「この刀をいま使っている者は、斬ることで“誰か”になろうとしている。御様御用の、な」
長兵衛が言葉を飲んだ。
「なら……次に斬るのは、“試し斬られる側”じゃねえ。今度は、“公儀の者”かもしれんぞ」
吉睦は立ち上がった。
「この刀の在処を洗う。鍋島藩の納刀台帳に記録が残っていれば、出所を追える。……だが、それには“口”の利く者が要る」
「いるさ」
長兵衛がにやりと笑った。
「鍋島の内情に鼻が利く“元忍び”が一人。今も裏町で息を潜めている」