第一章 死体鑑定:斬痕と刀の記憶
死体鑑定:斬痕と刀の記憶
雨が止み、夜が明けきらぬ江戸の町に、血の匂いがまだこびりついていた。
十間橋のたもとに転がった死体。その胴体は、まるで細工物のように、上と下に綺麗に分断されている。
「……これは見事な“釣胴”だな」
吉睦はしゃがみこみ、斬り口を細かくなぞるように眺めた。
濡れた石畳から、皮膚、筋、骨の断ち方まで、一本の刀が通った痕跡が、ありありと残っている。
「刀の種類は?」
背後から、与力・柳生録之助が問う。
「刃渡り一尺五寸。反り浅く、切先にゆるやかな“のたれ”。そして、この斬れ口……鉄の通りがなめらかすぎる。肥前物、それも――忠吉か」
吉睦の声は、断言に近い確信を帯びていた。
「忠吉……鍋島の刀工だな」
録之助は眉をひそめる。「ならば、この刀はどこかの藩士のものか?」
吉睦は返事をせず、懐から細布を取り出し、そっと死体の肌を拭った。
斬り口の内側に、かすかに残った――煤のような、焼け焦げた痕。
「……火に当てられた跡か?」
「いや。これは……“試斬後に付いた煤”だ。過去に私が斬った遺体の痕に似ている。おそらくこの刀、三年前――私が手をかけたものだ」
録之助の目が鋭くなる。
「それはつまり……その刀が、吉睦殿の手を離れて、今この町で、人を斬ったということか」
吉睦は、斬り口に指を当てた。
瞬間、指先から胸にかけて、鈍い熱が走った。痛みではない。何か――“生々しい記憶”のようなもの。
静寂。
刃が振り抜かれる音。
肉を裂く感触。
そして……斬られた者の、最期の息遣い。
「……この刀には、まだ“息”が残っている」
「なに?」
「斬った者の感情が、刃に染みている。怒り、屈辱、そして――選ばれなかったことへの執念」
「まるで、試し斬りを“模して”殺したかのようだな」
吉睦はゆっくりと立ち上がった。
「その通りだ。だが、これは模倣ではない。“正確な再現”だ」
「……つまり?」
「この斬り方を知っている者が斬った。おそらく、“試斬の技”を身につけた者だ。それも、我流ではない。訓練されている」
録之助は吐き捨てた。
「おいおい、まさか江戸の町にもう一人“御様御用”がいるってのか?」
「それはまだ分からん。ただ、次が起きれば――より深く、犯人が見えてくるだろう」
吉睦の声は静かだった。だがその目には、刀が語る“もうひとつの真実”を見据える色が灯っていた。