試斬と“斬れぬ刀”の謎
翌朝。小塚原・山田家の試斬場。
吉睦は一本の黒漆鞘を、試斬台の据え物に向けてそっと構えた。
中身は空。鞘だけ――。だが、この鞘が人を斬った。
「抜かぬまま……構えるだけで、斬るとは」
静かに息を吐くと、吉睦は腰を沈め、両手で鞘を持ち、袈裟懸けに振り下ろした。
ズン……という鈍い重音とともに、据え物の藁胴が裂けた。
録之助が目を見開く。
「……斬れた!? おい、何だ今の音!」
「斬ったのではない。“裂けた”のだ」
吉睦は即座に鞘を手放し、裂け目に指を滑らせる。
切断面は、まるで内部から破れたかのような感触。刀身による滑らかな斬断とは明らかに異なる。
「圧……いや、振動だ。おそらく、共鳴か……?」
「鞘の中に仕込まれた何かが、動いたのか?」
「――否。“鳴いた”のだ」
吉睦の瞳が細くなる。
「この鞘の内部には、“空洞”と“響き”がある。
それが、特定の角度と速度で振るわれることで、一点に衝撃波のような振動を発する……」
「それで、内臓だけが破裂した……」
録之助は息を呑んだ。
「つまり、“刃のかわりに音を使って殺す”ってのか? そんなバケモンみてぇな鞘があるかよ」
「“刀を抜かずに殺せる者”が、存在したのだ」
吉睦は、試斬に使った鞘の鍔元の内側をじっと見つめた。
そこには、わずかに、焼き入れされた痕のような鉄片が埋め込まれていた。
「これは……鉄砲の火蓋構造に似ている。もしこれが“気密圧”を調整していたのなら……」
「火薬の力を使ってんのか!?」
「いや。――人の“気”だ」
「は?」
録之助がぽかんとした表情で固まる。
「おそらく、この鞘は、“仕込み”というより、“記憶の再現装置”に近い。
使い手の意図が強く刻まれた時、内なる“斬りたいという念”が反響し――
その圧力が、形を持って対象を裂く」
「……そんなもん、刀じゃねぇ」
「刀ですらない。だが――“斬った記憶”を封じる容れ物としては、理に適っている」
吉睦の言葉に、録之助は背筋が冷たくなった。
「斬った者の“記憶”が、鞘に宿る……? それを振るうだけで、また誰かが“斬る”ことになるのか……」
「記憶は、受け継がれる。斬痕ではなく、“形なき痕”として――」
沈黙が落ちた。
鞘は静かに、試斬台の上に転がっていた。
まるで、自らを“語らぬ道具”として、静かに主を待っているかのように。