香月堂と奇妙な注文帳
昼下がり、湯島天神の裏手――。
吉睦は、香月堂の店舗跡を訪れていた。
殺された番頭・徳兵衛が勤めていた、江戸でも数少ない“仕込み刀専門”の刀剣店である。
店内には、長押に掛けられた脇差の外装、錆びた鞘、油紙に包まれた部品の山。
番頭の死によって営業は停止され、店主も京に出向中で留守だった。
「いかにも胡乱な商いだな。御禁制すれすれの仕込み鞘をずらりと……」
脇から声がした。与力の録之助である。
店の奥、畳がまだ生々しく湿っている部屋に立つと、彼は鼻を鳴らした。
「死人の帳面は口ほどにものを言う、ってな」
吉睦は、机の抽斗から一冊の帳面を取り出した。
香月堂 注文台帳――文政九年 冬付。
「……ふむ」
彼の目が、ある記述の前で止まった。
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> 「仕込み鞘 一口。刃未入。中空構造にて、音鳴らず。外見、黒漆鞘にて真打風。対価五両」
注文人:不記(当日持参にて受領。羽織に“斜三つ巴”の家紋あり)
備考:先月も同型を一口受注済。受渡後、同日返却あり。理由不明。
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「……刃を入れてない? だが、使った気配はある。返した理由は書かれていない」
「奇妙すぎるな。抜かずに使える“鞘”を作らせたのか?」
録之助が眉をひそめる。
「この“斜三つ巴”の家紋……見覚えがあるような」
「山城家中に多い印だ」
吉睦はぽつりと呟いた。
「……“返された鞘”は、どこへ?」
「まだ保管棚に残ってるはずだ」
店の奥――埃をかぶった木箱を開けると、黒塗りの鞘が無造作に放り込まれていた。
吉睦は手に取り、軽く振った。
――音は、しない。
それどころか、中に空気がないような、奇妙な感触があった。
「これは……“刃を隠すための鞘”ではない。“刃が鞘そのものに宿っている”かのようだ」
録之助がごくりと唾を呑んだ。
「まさか……鞘だけで、人が斬れるってのかよ……」
「それを確認するには、試すしかない」
吉睦の目が、試斬台に向けられる。