<6>
目指す建物に辿り着いたあたしたちは目を見張った。
この、いやな空気。マンションの周りだけが暗い。晴れているのにそこだけ雲がかかっているように、暗かった。
おまけに今日は比較的あたたかい日なのに、一歩、マンションの敷地内に足を踏み出した途端、寒気がした。
「なに……急に、寒い……」
ブルッと身体を震わせたあたしの両脇に、狩野君と夜城が立つ。
「まずいな、狩野。取り込まれたみたいだぞ」
「うん……悪い気配がする」
悪い気配?
「織名さん、絶対に俺と夜城の側から離れないで」
あたしの肩を抱いてそう言った狩野君の声と顔がすごく真剣で、いろいろ訊きたい事があったのだけれど、おとなしく頷いた。
それよりこの頭痛何とかならないのーーー? さっきまで彼女の――初美さんの感情が鮮明に伝わってたんだけど、ここに来た瞬間読み取れなくなってしまった。
代わりに、頭痛。いろんな雑音が頭の中を掻き回す。
気分が悪い以前に、腹が立つ。そーよあたしはとことんか弱くないわよ。
「……大丈夫? 織名さん」
気遣わしげにあたしの顔を覗き込む狩野君。いい子だなぁ。大丈夫よ、腹は立ってるけどっ。
「織名、何階だ」
前を行く夜城が頭上を睨みながら訊く。
名前を勝手に呼び捨てにした件については、後できっちりオトシマエをつけることにしよう、と頭の隅で考えて、あたしは彼女がいると思われる部屋の窓を指差した。
「たぶん……あそこ」
「行くぞ」
中に入った夜城は、エレベーターを無視して階段をまっすぐ行った。エレベーター、苦手だからいいけどさ。……五階だよう?
「静かだな……どういうつもりだ?」
聞き取れるくらいの小さな呟きを夜城が洩らしたとき、進行方向の踊り場が火を噴いた。
生き物のような動きで炎が床を走る。
うきゃああああこっちくるうううっっ!
「―――――――、」
火があたしたちに到達するより早く、落ち着いた声で狩野君が何事か発する。
ふっと炎が掻き消えて。
思わず拍手したら狩野くんは照れたように笑って、夜城は呑気な奴、とため息を吐いた。
悪かったわね、いつでもどこでもどんな時でも明るいってのがあたしのウリなの。
なんでも楽しまなくちゃ。
マイナスの気持ちでいると、ココロぶすになっちゃうんだから。
どんなことがあっても、気持ちはプラスでいたい。
力説してから、あ、しまった笑われちゃうかなって思ったんだけど、二人は笑わなかった。
いや、笑ったのは笑ったんだけど。
「それは、正論だね」
「ああ」
って、やわらかく微笑ったの。狩野君はともかく、夜城まで、よ!
なんて言うかな、二人の笑顔を見た瞬間、ほわほわって胸のところがあったかくなった。もう、何でも来いっ! ってパワーを貰ったような。
佐東君に振られちゃったのも、この二人と出会うために必要な出来事だったんだって思うと、いいやって気になっちゃう。
だって、あそこで佐東君と律ちゃんに鉢合わせしなきゃ、屋上なんかに行かなかっただろうし、という事は必然的に二人にも逢えなかったってことだ。
だから、もういいや。
佐東君と律ちゃんに、仲良くねって、心から言えるよ、あたし。
あと一回上れば彼女がいる五階。ふと、夜城が立ち止まった。
「走るぞ」
えっ、と思う暇もなく突然二人は走り出した。狩野君に肩を抱かれていたあたしも、同じく。でも、速い、速いよ! なんでイキナリ……っ。
その理由は五階に着いた瞬間わかった。
奥から、二番目の部屋の扉が開いている。倒れている人影。ボンヤリとした姿で、その上に乗っている彼女が見えた。―――首を絞められているのは、くそばか男―――。
「やめてっ初美さん!」
あたしが叫んだのを聞き取ったのかわからないけれど、初美さんが顔を上げる。
なんて―――暗い、歪んだ瞳。
夜城が舌打ちする。
「やっぱりだ。取り込まれてやがる」
「取り込まれてるって……どういうこと?」
「心の隙につけこんで、悪い方へ引っ張られたんだよ。魔に利用されてるというか――自我を失っている」
眉を顰めて彼女を見据えていた狩野君がささやいた。
「説得……は、無理か」
「当たり前だ、ああなっちゃ聞く耳もない。無理矢理引き剥がす」
「危険だけど――やむを得ないな」
あたしは彼らがそうやって話しを決めてしまうまで、何も出来なかった。
何も出来ない自分に、焦燥感がつのる。
夜城が呪文のようなものを唱えつつ、ゆっくりと、彼女に近付いていく。
彼女が男から離れた。
『ドウシテ、ジャマヲスルノ』
感情のない声。表情のない顔。やっぱりどこか歪んでいるような感じがした。
さっきまでの彼女じゃない。
『ジャマナンカ――』
足元から這い上がってくる嫌な気配に背筋が粟立つ。
『――サセナイワ』
ぐあ、と床の表面が持ち上がり、にじみ出た何かがどろりとした獣の形を取る。
気持ち悪すぎるううううっっっ!!
思わず狩野君の後ろに隠れちゃったわよ。
威嚇するように獣が吠えた。
その瞬間、グイと背後から髪を引っ張られて、あたしは振り返る。
「………っ! やだあああっっ!」
後ろの壁から手のようなものが生えていて、すきまなく蠢くそれがあたしの髪を掴んでいたのだ。
き、気持ち悪い気持ち悪いいいっっっ、嫌いだあたしこんなの―――!!
「はあっ!!」
あたし自身を掴もうと更に伸びてきた腕を、狩野君が気合いのようなものと共に手に握った光の剣のようなもので斬り払い、続けざまに壁に突き立てる。ばっと白い光が散って、腕が消えた。
よろめいたあたしを狩野君が支えてくれる。
「織名さ……」
「うううううきもちわるううういいい」
狩野君の腕にしがみつきながらあたしは決心する。
絶対絶対あたし今日帰ったらすぐ髪洗う、二回洗う―――!!
夜城は黒い獣と向かい合っていた。
さっき、狩野君が持っていたような、揺らめく光で出来た剣を構えて。
あたしには意味のわからない呪を唱えて、その光を更に輝かせる。
彼女がビクリと身体を震わせた。顔を歪める。
「ねえ……、夜城、何をするつもりなの?」
「力であいつを消し飛ばす。上手く行けば、獣だけを消せるはず―――」
上手く行かなかったら……彼女は!?
身を屈めた獣が、床を蹴った。尖った爪が夜城に届く―――。
寸前、身をかわし、流れるような動きで剣を振るう夜城。
まぶしくてよく見えなかったんだけど、光剣は獣の胴を真っ二つにし、建物が揺れるような咆哮が耳に届いたあと――跡形もなく、獣は消えていた。
彼女は消えていない。
嫌な空気が半減したような気がする。呼吸がしやすい。
やるじゃん、夜城ー!
でも、まだ終わったわけじゃなかった。
『どうして邪魔するの! 嫌い、大嫌いよ、みんな―――!!』
初美さんが叫んだ。
再び炎が上がる。もしかしてこれって、彼女の能力なのかしら?
さっきより火の勢いは強かった。
狩野君が前に来て、庇ってくれる。あたしは初美さんを見つめた。
切れていたつながりが戻っていた。
憎い。
全てのものが憎くて、嫌いで、破壊したい、消してしまいたいという気持ち。
何が狂ってこうなってしまったんだろう。さっきまでの彼女は、裏切られ傷付いて、泣いていただけだったのに。
今は自分自身のことさえ憎んでいる。
たまらなくなってあたしは叫んだ。
「もうやめてよ、初美さん! もうやめようよっ!」
離れるなという狩野君の声さえ聞こえない。あたしは初美さんに飛びついた。
炎の中に突っ込んだのに、熱くもなかった。
変な話だけど、そのとき実体のないはずの初美さんの身体にあたしは触れたの。触った感触が確かにした。
でもそんな事に気が付いたのはずっと後のこと。そのときのあたしは、彼女しか見てなかったから。
初美さんを抱きしめて、あたしは一気に言った。
「裏切られて悔しいなら仕返しすればいいとあたしも思う、でもこんなの間違ってる! ちゃんと自分の身体に戻って彼を直接殴ろうよ! あたしいくらでも協力してあげるからっ。初美さんの気が済むまで、仕返ししよう、だから、身体に戻って! こんな男のために死ぬなんて馬鹿らしいよ! 殴って終わりにしよう、しばらくは忘れられないかもしれないけれど、それでいいの! 次に逢う人のために綺麗になろうよ、こんなの男のこと、すっぱり忘れて!!」
初美さんの顔が、ふっと緩んだ。普通の少女の表情に戻っていく。
同時に火も消えた。
『……どうして、泣くの? あなたには、関係ないのに。どうして、泣いてるの……』
「く、くやしいじゃない、たった一人の男のために、これからがなくなっちゃうんだよ? もっとこれから、いい事たくさんあるはずだもの……っ」
『いい、こと……?』
「いい事だよ! あたしも今日、振られたけど、そのお蔭でカッコイイ男の子と知り合えたし、こうしてスッゴイ体験しちゃってるし、初美さんっていう可愛い友達になりたいひとを見つけた! マイナス一だけど、プラス3で、おつりが来てるし!」
もとの、ふんわりした雰囲気の少女に戻った初美さんが、あたしをじっと見つめる。
『……いいこと、あるかなあ……』
「あるに決まってるじゃない! ほら、現にあたしと知り合えたでしょうっ」
くしゃりと泣き笑いのような顔になった初美さんが、呟く。
『ヘンな理屈……でも、』
―――ありがとう―――
そして、そうささやいて、消えてしまった。
あたしはしばらく床に座り込んでいた。
ゴシゴシと目をこする。
……消えちゃった? どうなったの彼女……戻ったの?
「戻ったよ、ちゃんと。自分の身体に」
ふわりと優しい声がして、顔を上げると狩野君があたしを見ていた。声の通りの優しい微笑で。
「ホントに……?」
まだぼうっとしてるあたしに手を貸して、立ち上がらせてくれる。
でも、いったいどうなったの?
きょろきょろと辺りを見回す。あたしの目の前にあったのは、普通の廊下だった。
ぐろぐろも全部消えてる……。
「すごいね、織名さん」
にこにこと、嬉しそうに狩野君が言ったんだけど、あたしには何のことかさっぱりわからない。
「大した女……説得しやがった。むちゃくちゃな論理で」
そう言った夜城の顔も、何となく優しい。
説得……。したのかなあ、あれで。
「ねえ織名さん、こいつ殴んなくてもいいの?」
狩野君に言われて足元を見ると、くそばか男がまだ気を失って転がっていた。
腕に包帯を巻いてて――これって女といちゃついてた時に初美さんにやられた怪我よね、きっと。悪いけど、ざまあみろだわ、女の敵。
あたしは微笑った。
「いいの。今度初美さんといっしょに、殴りに来るんだもん」
そのときのことを考えて、楽しくなったあたしの心は、なんだか温かいものでいっぱいだった。
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