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5.メッセージ

 ――あの女性(ひと)の時計は、六十年前に停まったきり、ずっと同じ年の春を生きているのさ。……ロス辺境伯の婚約者に選ばれたころの時間をね――


 あてがわれた部屋に戻った私は、ぼふんとベッドに倒れ込んだ。


(ま、当然といえば当然か)


 ダニエル様は82歳。今でこそ独身かもしれないが、あの外見で、おまけに大貴族だ。

 過去には婚約者どころか、結婚だってしてたに違いない。

 ごろりと仰向けになった私は、何もつけていない左手を顔の前に持ってきた。

  

(結婚指輪、結局もらいそこねちゃったな……)


 オランジュリー侯爵夫人と初めて会った、あの日の記憶がよみがえる。


『会いたかったわ。愛しい方』


 両手を広げて歩み寄った侯爵夫人を、ダニエル様は親しげに抱擁した。


『やあ、セレナ。元気にしていたかい?』

『ええ。今日はあたくし、あなたにお土産を持ってきたのよ』

 

 そう言うと、侯爵夫人はまっすぐ私のほうを見た。


『そこの貴女。お茶を用意して頂戴』

『マダム、お茶をご所望でしたら(わたくし)が』


 慌てたように進み出るトビアスさんに、侯爵夫人はちっちっちっ、と指を振ってみせる。


『あらあら、ダメよ、トビー。あなたには別のお願いがあるのだもの』

『別のお願い、とおっしゃいますと?』

『あたくしのカウチセットが動かされているわ。元の位置に戻して頂戴。……ほら、貴女。何をぐずぐずしているの? あたくしはお茶を用意してと言ったのよ』

『――セレナ。彼女はメイドではないよ』


 さすがにダニエル様がそう言って止めてくれたけど、私のことを妻とは紹介しなかった。


『うん、僕らは席を外そうか』


 ジャレットがさりげなく私をエスコートして、ドアのほうに連れていく。

 出ていきしなに振り向いてみたら、執務机の上にあったはずの結婚指輪は、いつの間にか消えていた。


「…………」


 ベッドの上で、組んだ両手を顔に当て、私は深いため息をつく。

 この結婚はあくまで形だけのもの。私にはあの方の妻を名乗る資格はないのだ。


(それでも)


 一年間だけは、あの方と同じ屋根の下に住み、あの方のおそばで働ける。

 ならば、私は自分にできるだけのことをして、少しでもあの方のお役に立とう。


(そうすれば、もしかしたら)


 離婚しても、私はここを出ていかずに済むかもしれない。

 あの方のそばで働かせてもらえるかもしれない……。


 ◇◇◇


 サリス王国の西の国境に接する辺境領は、かつては痩せた土地がどこまでも続く不毛の荒野だった。

 度重なる魔物の襲来に怯えて人は住みつかず、さりとて国防の面から人手を割かないわけにもいかず、王国のお荷物とまで言われていたという。

 そこに葡萄の苗を植え、国内はおろか大陸中の喉を潤す芳醇なワインの一大産地に育て上げたのは、若き日のダニエル様の功績だった。

 今では葡萄の搾りかすを飼糧に肉牛を育てたり、肥料として再利用したりと、ロス家の事業は幅広く展開されている。

 主な取引先としては、領地を接するフエンテ子爵家、王国の肥沃な穀倉地帯を抱えるゴードン伯爵家、そして………。


「ねえ、そろそろ晩餐だけど。今夜も食堂には行かないつもり?」


 タウンハウスの図書室にて。

 私はそれまで読んでいた本をぱたりと閉じて振り向いた。

 お茶のトレイを手にしたマリーが、心配そうな顔で立っている。

 初日こそ衝突したものの、彼女とは今ではすっかり気のおけない間柄になっていた。


「行かない。ごめんね、毎回わざわざ部屋まで運んでもらっちゃって」

「別にそれは構わないけど。ダニエル様、ずいぶん心配してたよ?」


 途端に嬉しくなってしまう私は、我ながらずいぶんチョロいと思う。


「ま、晩餐に出たくない気持ちはわかるわ。面倒くさいもんねえ、セレナ様」


 そうなのだ。

 セレナ・オランジュリー侯爵夫人がやってきた日の晩餐は、控えめに言って地獄だった。

 長テーブルの一番端、暖炉を背にした主人の席にダニエル様。これはいつもと変わらない。

 だが、これまで私の定位置だったダニエル様の右隣には侯爵夫人が座り、私の席はテーブルをはさんでダニエル様の向かい側にセットされていた。ダニエル様は私ではなく侯爵夫人をエスコートして食堂に入り、私はジャレットのエスコートで席につく。

 ジャレットが私の右隣に座り、そうして始まった晩餐がどうだったかというと――……。


『リリアナ嬢。明日の予定だが……』

『明日はあたくし、あなたとお買い物に行きたいわ、ダニー。王都は昨シーズン以来だし、もうじき園遊会もあるし』


 ダニエル様が私に話しかけるやいなや、侯爵夫人が甘えた声を出した。


『セレナ、買い物ならわざわざ街へ下りることはない。出入りの商人を呼んであげるから、好きな物を選ぶといい』

『まあ、本当? 嬉しいわ、ダニー!』

『…………』


 とまあ、一事が万事この調子で、ダニエル様と私の会話が成り立たない。


『街といえば、リリアナ嬢は王都見物がまだでしたね。僕でよければご案内しましょうか』

『ご厚意はありがたいが、ジャレット卿。卿には他にやるべきことがあるのでは?』


 見かねたジャレットが私に話を振れば、今度はダニエル様が割り込んでくる。

 おかげでその晩の食事はろくに喉を通らず、私は早々に部屋に引き上げた。

 以来、夕食はずっと自分の部屋に運んでもらって食べている。

 幸い、朝が遅い侯爵夫人と私が朝食でかち合うことはない。

 けれど、ダニエル様はここしばらく早朝から王宮に出仕しており、ここでも私たちはすれ違いだった。

 ダニエル様は午後には執務室に戻ってくるが、その頃には例のカウチセットは侯爵夫人に占領されており、私が座る余地はない。

 仕方なく、私はこの数日間というもの、図書室でロス辺境伯家に関する資料を探しては読み漁っていた。


「ねえ、マリー。セレナ様って、なんで毎年このお屋敷に泊まりに来るの?」


 ふと思い立ってマリーに訊いてみる。

 トビアスさんは何度訊いても「込み入った事情がありまして」の一点張りだし、ジャレットもあれ以上のことははぐらかすばかりで教えてくれない。

 その点、マリーなら古参の使用人たちから何か聞いているかもしれないと思ったのだが……。


「それが、古株の人たちは何も教えてくれないのよ。ま、使用人の口が固いのは、躾が行き届いたいいお屋敷の証拠でもあるんだけれど」

「むう……」


 と私が眉を寄せたところへ、銀盆を手にしたクラークが現れた。


「失礼いたします。旦那様からのメッセージをお届けに上がりました」

「えっ?」


 慌てて二つ折りのカードを開いてみれば、そこには走り書きの短い文字が。


 ――明朝九時 マーネ広場 時計台前 D


 私はマリーと顔を見合わせる。


「これって、もしかして」


 マリーは重々しく頷いた。


「旦那様からデートのお誘いよ」

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