3.サプライズ
前世の職場の社長室はカオスだった。
パソコン周りは雑に積まれた書類やカタログが山をなし、そこに、最新モデルのマッサージガンや誰かからもらったお土産や、エナジードリンクの空き瓶やお菓子の食べかすが散乱している。
何年も前のカタログや、とうに終わった案件のメモなど処分しても良さそうに思えるが、下手に触ると怒られるので、明らかにゴミとわかるものだけを選り分けて毎日捨てていた。
あそこに比べれば、ダニエル様の執務室は天国だ。
床もデスクも塵一つなく掃除され、本棚の中は整頓され、机上の書類もぴしりと角が揃っている。
とはいえ――……。
「何を描いているのかな?」
ノートのページに影がさしたと思ったら、ダニエル様の声が降ってきた。
「あ、これはですね。動線分析といいまして」
執務室の平面図。その上を、手書きの線が何本も往復している。ダニエル様の執務机に直行し、折り返してドアに戻るもの。いくつかの本棚を渡り歩き、執務机は経由せずに出ていくもの。かと思えば、本棚と本棚の間を行ったり来たりしている線もある。
私のいるカウチとドアの間を往復している線は、さっきマリーがお茶を持ってきてくれたときのものだ。
「こうやって人の動きを線で表すことで、よく使われている棚がどこか、反対に全然使われていない棚はどこかがわかります。あと、このカウチセットは皆様がよくお使いになる棚とドアを結ぶ線上にあるので、他の場所に移動したほうがいいかと」
「ほう」
感心したようなダニエル様の声に、ひそかにガッツポーズする私。
「この手法は、たとえば催し物の会場を設営する際にも使えます。人の流れがどこで渋滞しやすいかとか、接待する側の人間をどこに配置すればいいかとか」
「なるほど、これは素晴らしい。しかも、見取り図さえこちらで用意すれば誰にでもできそうだ」
「そうなんです! 字が書けない子も線なら引けますし!」
ふんす! と鼻息を荒くする私に、ダニエル様は微笑ましいものでも見るような眼差しを向けた。
「どうやら、この可愛らしいお頭には、とてつもない知恵が詰まっているようだ」
ぽんぽん、と頭を撫でられて、私はへにゃりと相好を崩す。
もう、ダニエル様ってば褒め上手! 私は単純だから、褒められればもっともっと、と頑張りたくなってしまう。
けれど、ダニエル様は手を伸ばし、私からノートを取り上げてしまった。
「さあ、今日はもうお終いだ」
「えっ? でもまだ日が落ちてもいないのに」
「朝早くから7時間も飲まず食わずで働いていて何を言う」
いや、さすがにお茶くらいは飲んだと思う。………飲んだよね? あんまり覚えてないけど。
「もしや、前にいた世界でもこんな無茶をしていたのか?」
「いえ、朝はもう少し遅かったです。寝るのが大体夜中の二時とか三時とかだった……ので……」
ダニエル様の険しい顔に、語尾が尻すぼみに消えていく。
「とにかく今日はここまでだ。来なさい」
有無を言わさず手を引かれ、立ち上がった途端にふらついた。
それ見たことか、と言わんばかりのダニエル様の視線が痛い………。
◇◇◇
いったん戻って着替えておいで、と言われて部屋に戻ったら、ベッドの上に見覚えのないドレスが置かれていた。
真珠色の光沢のあるシルクに、淡いブルーのチュールを重ねたエンパイアドレス。
ジャレットが「当座の普段着に」と買ってくれたドレスやワンピースも、平民の孤児には過ぎた贅沢に思えたものだが、これは明らかに物が違う。
「こ、このドレスは一体……」
「お館様からの贈り物です。今宵はこちらをお召しになるようにと」
気がつけば、室内にはマリーの他、侍女頭を筆頭にメイドの皆さんが勢揃いしていた。
戸惑っているうちに、着ていたドレスを剥ぎ取られ、花びらを浮かべたバスタブに首まで浸かるように言われ、髪を洗われ、顔も身体もマッサージされ………。
気づいた時には、今朝と同じ化粧台の前にいた。
「毛先が大分傷んでいるわ」
「でもお色は綺麗だわ。青味がかった黒髪なんて、神秘的でとっても素敵」
「お肌の肌理は細かいけれど、日焼けと乾燥はどうにかしないと」
「瞳の色はシルバーね。際立つように目の際は青と金で彩りましょう。唇にはこの紅が映えると思うけど、どうかしら」
などなど、メイドのお嬢さんたちの楽しげな囀りを聞いているうちに、髪とメイクが完成した。
これまたダニエル様からのプレゼントだという月長石のイヤリングを着けてもらい、全身が映る大鏡の前に立った私は――。
「………これが私?」
思わず定番の台詞が出てしまうくらいには、すごい仕上がりになっていた。
そこへ、コツコツとドアがノックされ、漆黒のディナージャケットに身を包んだダニエル様が現れる。
「! ! ! ! !」
ま、眩しい。
冗談じゃなく、周囲がきらきら輝いて見える。
素敵すぎです、ダニエル様……!
呆然と見惚れる私に近づくと、ダニエル様はおもむろに私の手を取って、指先に軽く口づけた。
「これはこれは。やはり貴女には青がよく似合う。美しいよ、リリアナ嬢」
「ダッ、ダニエル様も素敵です!」
うう、この感動の半分も伝えられない語彙力の乏しさが恨めしい。
ダニエル様は手慣れた様子で私をエスコートすると、「では行こうか」と私を部屋から連れ出した。
「わあ………!」
そこはタウンハウスの屋上のテラスだった。
身支度をしている間に日は落ちて、満天の星空の下、王都の灯が輝いている。
その夜景を一望できる場所に、薄絹の帷を天幕のようにさしわたし、二人がけのテーブルがセットされていた。
卓上には美しく生けられた花とシャンパングラス。揺れる蝋燭の光にきらめく銀のカトラリー。
「どうぞ、お姫様」
ダニエル様が自ら椅子を引いてくださり、夢見心地で席につけば、いつからそこにいたのだろう、執事頭のトビアスさんが、うやうやしくシャンパンを注いでくれる。
「では」
ダニエル様がおもむろにグラスを掲げ、私もそれに従うと、どこからか静かな楽の音が聞こえてきた。
この世界にはCDはもちろん、蓄音機もまだ存在しないはず。そう思って見回せば、広いテラスの片隅で、執事服を着た若い男性がハープを爪弾いている。
「リリアナ嬢。16歳の誕生日おめでとう」
「………………………へ?」
思わず漏れた間抜けな声に、ハープの音色が僅かに乱れ、ダニエル様が眉を寄せた。
「ジャレット卿の話では、今日が貴女の誕生日ということだったが」
「あ、はい。彼がそう言うのなら、おそらく合ってると思います。誕生日というか、拾われ記念日ですけども」
「っ!」
クレアモント地方の孤児院の玄関先で見つかった私には、まだ臍の緒がついていたという。生まれた直後に捨てられた証拠だ。
「すみません、孤児院には誕生日祝いなんてなかったもので、ちょっとびっくりしてしまって。それに………」
「それに?」
「前にいた場所でも、ずいぶん長いこと誰かに誕生日を祝われたことがなかったもので」
ふと、大学時代に付き合っていた彼氏のことを思い出す。
誕生日や記念日にはとことん疎い人だった。クリスマスはさすがにやったけど、それだって彼の部屋でケーキを食べてお終い。私はプレゼントをあげたけど、彼の方は金欠を理由に、駅前で買ったケーキがプレゼントだった。
二十歳の誕生日を忘れられた時には、さすがに泣いて詰ったら、何日か後に微妙なブランド物の、しかも明らかに使用感のあるネックレスをむき出しのままくれたっけ。
「リリアナ嬢?」
ダニエル様の声に、はっと我に返る。
「すみません。ちょっとぼんやりしてしまって」
「謝らなくていい、リリアナ。それはさぞかし淋しかったろう」
テーブルの上で、労わるように私の手を撫でるダニエル様の瞳はどこまでも優しい。
「知っての通り、我が国では16歳で成人を迎える。その大切な日を貴女と一緒に祝うことができて、私はとても嬉しいよ。さあ、あらためて乾杯しよう。貴女のこれからが、幸多き日々であるように!」
あー、もう。
あーもう、あーもう、あーもう、ダニエル様ったら!!
私は昔から単純なのだ。
そんなふうに優しくされたら、我慢できなくなるじゃないですか。
憧れだけじゃすまなくなるじゃないですか。
ダニエル様。
あなたを好きになってしまうじゃないですか………。