2.ここで働かせてください
こうして、私とダニエル様の夢のような新婚生活が始まった。
――なあんてね。
そう思ってた時期が私にもありました。
初顔合わせの翌朝、タウンハウスの客間にて。
「――っ!」
ぶちぶちぶちっと音を立てて、櫛に絡んだうなじの後れ毛がまとめて抜けた。
これは地味に、いやかなり痛い。
「失礼いたしました。クレアモント様のお髪は結い上げるには長さが足りないもので」
なら最初から上げるなよ。
鏡に映る涙目の私。その後ろに、櫛を手にした若い侍女。
櫛で良かった。鋏やカミソリだったら命の危険を感じる程度には、悪意のこもった目つきをしている。
私はため息をついて、鏡越しに侍女と目を合わせた。
「ええと。マリーさんでしたっけ?」
侍女は心持ち胸を反らした。
「マリー・フエンテ。フエンテ子爵が姪にございます」
出たよ。さりげなく訊いてもいない家名を出してのマウント。でも、父親じゃなく親戚の名前を出してくるあたり、ご本人の家柄はそこまで高くないと見た。
「マリ―さんは、私の専属侍女として雇われたそうですね」
昨日ここへ案内してくれた侍女頭の人が、そう言っていた。
「はい。フエンテ家は建国の昔から、代々ロス家にお仕えしている一族なのです。この度は、新たにいらした平民の方をお世話するよう、お館様からぜひにとお声がけいただきまして」
うんうん。お家自慢から私へのディスり。流れるようなコンボだね!
私は、にっこり笑って振り向いた。
「その櫛、こちらに貸してくれる?」
「……? はあ」
怪訝そうな彼女の手から櫛を取り上げ、私は素早く自分の髪をひっつめのお団子に結い上げた。
ジャレットが用意してくれたドレスの中から、一番シンプルな紺のワンピースを選び出す。
何代か前の転生者が持ち込んだファスナーのおかげで、この程度の普段着なら人の手を借りなくても簡単に脱ぎ着できるのだ。
あっという間に身支度を終えた私は、マリーの方には目もくれず、さっさと部屋の出口に向かった。
「え、ちょっ……! そんな恰好でどこ行くつもり?」
慌てたようなマリーの声に、背中でひらひら手を振ってみせる。
「朝食の間でダニエル様がお待ちだそうですから。ご覧のとおり、平民暮らしが長かったので、自分のことは自分でできるの。なのでお世話は結構よ」
「だっ、駄目よ! そんなみっともない恰好でお館様の前に出たら………!」
そう。主人の身だしなみは侍女の責任。罰されるのは彼女の方だ。
私はくるりと向きを変え、つかつかとマリーに歩み寄った。
鼻と鼻がくっつくほど顔を近づけ、怯えを浮かべた茶色の瞳をのぞきこむ。
「先に嫌がらせしてきたのはそっちよね?」
「…………」
「ま、わかるような気もするわ。子爵家のお嬢様が、ぽっと出の平民の世話をしなきゃならないなんて癪よねえ」
「………………じゃないんです」
ぽつりとこぼれた小さな声に、私は「え?」と耳を立てた。
「申し訳ありません。私も貴族じゃないんです。伯父はフエンテ子爵だけど、父はフエンテ家の末弟だから」
この世界、王侯貴族は基本的に長男が後を継ぐ。次男以下は跡継ぎのない家に婿入りするか、手柄を立てて叙爵でもされないかぎり、家名は名乗れても平民なのだ。
「さっきのことは謝ります。だから、どうかお世話をさせてください。今ここを追い出されたら、後は娼館で稼ぐしか……!」
私はやれやれとため息をついた。どこの世界も、女の子が一人で働くのは大変だ。
「わかったわ。平民同士、仲良くしましょ。正直、下手に位の高い貴族のお嬢様なんかに世話されるより、あなたの方が気楽だもの」
「……っ! ありがとうございます!」
あらためて、マリーの手で髪を編み込まれ、春らしい軽やかな色合いのデイドレスを着つけてもらった私は、ダニエル様の待つ朝食の間へと向かった。
◇◇◇
「おはよう、リリアナ嬢。昨晩はよく眠れたかな」
「おはようございます、ダニエル様。おかげさまで、すっかり疲れが取れました」
ああ、今日もダニエル様のお姿が尊い。
シンプルなシャツに黒のベスト、グレーのスラックスという、ともすれば地味になりがちな組み合わせも、ダニエル様にかかれば洗練されたモードな装いに変わる。
朝食はビュッフェスタイルだった。
壁際に並んだ焼き立てのパンやサラダ、スープなどから、好きなものを選んで自分で席に持っていく。
食後の珈琲――これまた何代か前の転生者が発見して普及させたそうだ――まで進んだところで、ダニエル様がおもむろに口を開いた。
「さて、今日この後の予定だが、リリアナ嬢には引き続き、好きなようにくつろいでいてほしい。王都を見物したければ、馬車と護衛を用意しよう。本来なら私が案内すべきだが、あいにく仕事がつまっていてね」
私はすかさず「はい!」と手を挙げた。
「そのことですが、ダニエル様。実は私からひとつ、ご提案というかお願いがあります」
「おや、何かな。そんなふうに愛らしくねだられては、聞く前に『うん』と言ってしまいそうだ」
「~~~~~~っ!」
あ、あ、愛らしいって。愛らしいって!
しかも何ですか、その唇の端だけくいっと上げたダンディな笑顔っ!
くうっ! これが歳を重ねた男の余裕、朝っぱらからこちらのハートを完膚なきまでに撃ち抜いてくださる……っ!
とはいえ、私だって昨日からいろいろ考えていたのだ。どうすればここでお荷物にならずにいられるか。
私は真っ赤な顔のまま、「あのですね」と口を開いた。
「私、こちらの世界ではご覧の通り十五歳の小娘ですが、転生前は一応社会人というか、成人して仕事をしてまして」
とたんにダニエル様の目つきが鋭くなった。
組んだ両手をテーブルに置き、心持ち上体を乗り出してくる。
「続けて」
「仕事は社長秘書……って、この世界にもあるでしょうか。具体的には、上司の予定を管理したり調整したり、お客様の応対をしたり、接待や催し物の会場を探して予約したり、設営の手配をしたり、プレゼン資料を作ったり……」
要するに社長専属の何でも屋だ。
私が勤めていたベンチャー企業は、社長を入れても社員はたったの四人。他にもクレーム対応やら、経理の子が辞めてしまった後は、会計事務までやっていた。
「ジャレットが言うには、転生者として私がお伝えできる技能は、すでにこちらにあるものばかりだそうですが、それでも何かお手伝いできればと」
「いや待て」
ダニエル様は、私の話の途中から、なぜか眉根を揉み始めた。
「つまり貴女は、本来、執事や家令、王宮ならば文官たちが分担して行うような仕事を、すべて一人でこなしていたというのか?」
「はあ。まあ、そういうことになります……か?」
「そんなことが、果たして只人の子にできるのか」
「やってましたねえ。十年くらいで過労で死にましたけど」
「っ!?」
ガタン! と椅子を蹴って立ち上がったダニエル様は、私のところにやってくると、おもむろに床に跪いた。――えっ、何なに、何事!?
動揺しまくる私の両手を、少し乾いた大きな手が暖かく包みこむ。
「リリアナ嬢。ここではそんなことはしなくていい。貴女にはひたすら健やかで、幸せでいてほしいのだ」
「…………」
あ、あれ? 何だろう。目頭が急に熱くなったと思ったら、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
掃除はおろか片づけもできず、荒れ放題だったアパートの部屋を思い出す。
地獄のような二十連勤を何とか乗り切り、明日こそ久しぶりに出かけようと思っていたのに、起きたら翌日の夜中だったこととか。
ゴールデンウィークや夏休み、レジャーに向かう親子連れでいっぱいの電車の中で、自分だけがスーツ姿で仕事に向かう切なさとか。
クリスマスソングも初詣に向かう晴れ着姿のカップルも、私とは次元の違う世界の住人みたいに、ただ脇を通り過ぎていくだけで、こんなのが一体いつまで続くんだろうと鈍った頭で考えていたこととかが――……。
滂沱と流れる涙とともに、洗い流されていくようだった。
「よく頑張った。偉かったな」
がっしりとした胸板を通して、ダニエル様の声が聞こえてくる。
いつの間にか、私はダニエル様に抱きしめられていた。
「自分を大いに誇りなさい、リリアナ。貴女にはそれだけの価値がある。私も貴女を誇りに思う。貴女は素晴らしい人だ」
「…………」
無言のまま、涙だけをぼろぼろ零しながら、私はふいに悟っていた。
もうずいぶん長いこと、私はこれが欲しかったのだと。
誰かに認められること。
誰かに気にかけてもらえること。
そうして、望むものが得られた今、私の心の奥底から、ある衝動がふつふつとこみあげてきたのだった。
◇◇◇
「――で、どうしてこういうことになるのかな?」
ダニエル様の執務室にて。
マリーに頼んで用意してもらったノートと万年筆を小脇に抱え、私はダニエル様の前に仁王立ちになっていた。
「ここで働かせてください!」
某アニメの主人公よろしく深々と頭を下げる私に、ダニエル様は困ったように眉を下げる。
「言っただろう。ここでは貴女はそんなことをしなくていいのだと」
「でも、ここで働きたいんです」
ゆっくりしろ、くつろげと言われても、そんなの昨日のうちにやりつくしてしまった。
前世はもちろん、孤児院時代も、物心ついたころからやれ掃除だ、洗濯だと追い立てられ、少し大きくなってからは、領主様の屋敷の手伝いにしょっちゅう駆り出されていた私だ。
たっぷり休んで体力がありあまっている今、いつまでもソファでごろごろなんてできないし、図書室で娯楽本を読んでいても、こんなことをしていていいのか、という謎の焦燥感がこみあげてきて落ち着かない。
ならばと客間を掃除しようとしたら、マリーに「私を馘にさせるおつもりですか!」と悲鳴を上げられてしまった。
「私、ある程度働いてからでないと、身も心も休まらない体質なんです」
何たる貧乏性。社畜体質。
自分で言ってて悲しくなるけど、実際そうなのだから仕方がない。
そんな私を見おろして、ダニエル様はふうっとため息を吐いた。
「だが働くといっても、具体的に何をするつもりかな? 言っておくが、私の妻になる人にメイドや下働きの真似事など絶対させられないよ?」
「おまっ……お任せください」
ちょっと噛んでしまったのは、「私の妻になる人」というパワーワードにうっかりときめいてしまったせいだ。
「ダニエル様にも、お屋敷の他の方々にも、すでに決まったお仕事がおありだと思います。それを邪魔するつもりはありません。ただ、この部屋にいさせてくださるだけで結構です」
「……まあ、貴女の気がそれで済むのなら」
遂に根負けしたように、ダニエル様は頷いた。
やったね。ダニエル様のお許しゲットォ!
「ありがとうございます!」
私はいそいそと持参の筆記用具を抱え、執務机の脇に据えられた、なぜかそこだけやけにラブリーな花柄のカウチセットに陣取った。
カウチの前のローテーブルにノートを広げ、部屋の中をぐるりと見渡す。
正面に重厚なオークの扉。突き当りにダニエル様の執務机があり、両側の壁を埋め尽くした本棚には、天井から床までぎっしりと書類やファイルが詰まっている。
私はノートにさらさらと万年筆を走らせ始めた。