郵便斬り
うららかな春風が柔らかくそよぎ、花の匂いを運ぐ。この時分になると市井の足の凍えて強張っていたのが緩むのか、北町から王都エシッディアへと続く街道を行く姿は、日に日に盛んになる。道の脇に茂り出した雑草も、〈道草を食う〉の語源通りの馬の食べる物となるので、馬車の行き交いも増えてゆく。行く者来る者は足取りもこころなしか軽い。
その朗らかな街道筋の木立の陰に、身を潜めて息を殺す男が一人――
そうとも知らず、ある旅人がひょこひょこと街道を上って来ている。まだまだ王都から遠い小村の辺りにもかからわず、すでに物見遊山の気分でいるようで、木々や飛ぶ鳥を見上げ、往来をすれ違う地元の者を眺め、どうという事の無い小屋の作りのような些細な事にいたるまで、森羅万象に感嘆する事に忙しい。
――カモだ!
男はこの旅人に目をつけると、人目をはばかりながらもすぐに汚れた顔を木の反対側に出し直し、息を殺して街道の様子をうかがっている。
旅人は今度は街道の舗装の石が整ってきたのに気付くと「おお」と声を漏らして、石畳に注目するため一時立ち止まって下を向いた。
周りは見えてはいまい。
男はこの瞬間を狙い澄まして、木の幹の後ろから一陣の風となって飛び出した。
錆びの目立ち始めた鞘から古い長柄両手剣を慣れた手つきで抜き放ちつつ怒鳴った。
「そこの奴、そこで止まれ!」
旅人は竦み上がってしまい、足が動かないのか血の気が引いた顔で目を白黒させたままでいる。
突如凶刃を振り回しつつ旅人へ突進するこの恐ろしい男は、乞食か歩くカカシも同然の格好だった。周りを野原と森と近隣の村の牧場に囲まれたこの道で、男は場違いな漁服に身を包んでいる。それも酷く色あせるやら汚れが染みつくやらで、まだらの鼠色になっていて汚らしい。そこへ元々何の紐だったか分からない物で腰元を結び、その上から安物の革鎧と思しき傷だらけの胴当てを着けている。つばの広いぼろの帽子を目深にかぶり、顔には裂いたシーツのようなものを巻いて隠しているものの、はだけた両端から長い尖った耳の汚れた先端がはみ出している。
男は旅人の目の前でだんびらを見せつけるように突きつけ、くぐもった声でうめくように身の毛もよだつほどのどすを聞かせて脅した。
「騒ぐな、逃げようと思うなよ」
「へ、へっ……」
「命が惜しいか?」
「そ、そりゃ、もちろん……」
「なら、黙って有り金全部、置いていけ」
「げえっ……」
旅人はだんびらを首筋にあてられた上に凄まれて動転し、恐慌のままに逃走を図った。男は旅人が無防備な背中を見せたところへ、
「ぐわあっ……」
全身の筋肉を怒張させて豪剣の刃の真ん中あたりまでを、力づくで致命的に貫き刺してしまった。
旅人が胸から切っ先を生やした直後、ずるりと刃が血糊をまとったまま抜けた。事切れた旅人の体はそのまま街道の舗装された石畳へ倒れ伏し、その体の表裏からあふれ出した赤黒いもので路面に悲惨な池を作り始める。
それを尻目に、男は旅人の亡骸の服の裾で豪剣の刃の穢れを容赦なく拭うと、手早く故人の手荷物を漁り始めた。
色の薄い伸び放題の髭、垢だらけの頬、鋭い目つきの下で卑しく乱杭歯を剥き出しにした口元。追い剥ぎを働いているこの男、名前をゲルト・パッセマンと言って、見た通り無法で糊口を凌ぐならず者である。
種族はシルフ。元は東南の海岸沿いにあるなんとかという漁村の生まれであった。
皮なめし職人の親方とその下男の間に生まれたゲルトは、自身も親の稼業を継ぐ道を歩んでいた。しかし成長するにつれ、毎日クリスタルメルルーサの胸鰭と鱗を取った裸革とジャイアントリザードの鱗皮を、水と石灰となめし液にくぐらせて漬けるだけの暮らしは、若い活力を持て余す当時のゲルト少年には退屈に感じられるようになった。田舎ゆえハイカラな遊び場も無いため、村の年上悪童から悪い遊びを教わると途端、五日と上げずに二つ村を越した先の地方都市までわざわざ足を運んでまで悪所へ入り浸るようになった。遊び金に飢えるようになるのも時間の問題だった。それからというもの、ゲルトは親に毎日のように金の無心をした。
ゲルトがぐれたのは、地方だったからでも環境が劣悪だったからでもない。地元の神殿は子供の教育に深い思慮があり、わけても読み書きと道徳にはたっぷりと時間を割いてこんこんと説き教えたものだった。ただただ当人の聞き分けが悪かった。辛うじて字はいくらか覚えたものの、説教臭い事となるとすぐに居眠りを始めたり騒ぎだしたりしたものだった。
ある日。
堪え性の無いゲルトは何の計画も無しに、都会で遊び暮らそうと考えだした。これもまた親から金をせびればよい、王都へ出ると言えば勝手に仕送りを期待してたっぷり持たせたうえで送り出してくれるだろう――という、予測を願望と混同した企みからである。
その日の仕事を終え、夕食の麦と魚の汁をすすった後、
「なあ母さん」
「ゲルト、またお前はなめし液の仕込みをしてなかったね。近頃お前は仕事に身が入っていなくて困るよ」
「忘れてただけだって」
「それと、お前は干し場の窓を開けずに出てっちまったね。皮は乾燥しなけりゃ人様に渡せるヌメ革にならないんだ。友達と遊ぶ事ばっかり考えてちゃダメだって何度言ったら分かるんだい?」
「それなんだけどな」
「何だい」
「ちょっといくらか小遣いの前借りを――」
「またかい! お前ね、いい加減不真面目が過ぎるよ。分かったよ、もういい。腹を痛めて産婆さんに取り上げてもらった我が子だからって、甘くし過ぎたよ。これじゃあ神様の四柱に顔を上げてお祈り出来ない。これからは他の職人と同じように厳しく使ってやるからね!」
「そうじゃあない、俺は王都で食っていこうと思うんだ」
「馬鹿言うんじゃないよ、この考え無し! お前みたいな不真面目なとうしろうがのこのこ出て行ったところで、生き馬の目を抜く王都じゃあ餓えてくたばるのが落ちさ。それに家業はどうするんだい? 分かった、お前には二度と金なんか出さないよ。真面目にやんな!」
「舐めやがって、この婆あ!」
逆上したゲルトは頭に血が上ったまま、しまい忘れてそばに落ちていた解体用ナイフを手に握り、そのまま衝動のままに母親の首筋を斬りつけてしまった。
斃れ伏した母親が見つかったのは、翌日の早朝に防具鍛冶の弟子が革鎧の材料のヌメ革を受け取りに来た時の事で、すっかり冷たくなって血も黒々と乾いた後であった。息子の姿は見えなかったという。
凶状持ちとなった若きゲルトは、その日のうちに村を出奔していた。
昼過ぎ、何の考えも無く慌てて街道へ飛び出してしまったゲルトを、偶然通りかかった行商人が見つけた。村の凶事を何も知らない行商人は、半ば着の身着のままのゲルトを哀れに思い、その場で彼を下人として雇ってやる事にした。しかしゲルトは、生来自分のために自分の生涯を費やす男である。ゲルトはしばし行商人と共に荷物持ちをして旅をしていたが、丸二日経たないうちに、客商売に身を置いている事実に背骨がむずがゆくなるような不快感を覚えだした。ラバに一々物を食わせたり水を飲ませたりして世話してやる事にも嫌気がさしてきた。ゲルトは都会に近づきだした頃には短気を抑えられなくなり、彼すら絞め殺してしまった。腹いせにラバまで杖で殴り殺した後、売上金を奪って逃走した。
こうしてゲルトは王都エシッディアへ流れ着いた。ゲルトは城門の衛視に行商人の名前を騙って城下町へ入った後、適当な宿酒場へ入ると、すぐに行商人の懐からくすねてきた金で酒をかっ喰らっていぎたなく寝てしまった。
王都では寄る辺無いゲルトにも出来る生業というと冒険者くらいしか無く、真っ先に某フリーカンパニーの所属となった。得物の長剣は冒険者稼業のため、蔓延るゴーレムの外殻を叩き割れるようこの頃に調達したものである。が、こういうろくでもない男が上手くやっていけるわけも無く、依頼人とは問題を頻繁に起こし、同業者ともよく不要に対立していたので、立場を失うのも時間の問題だった。信用の無い、信頼の出来ない冒険者というのは、ならず者となんら変わるところは無い。すぐに生活は荒れ、根無し草の、刹那的な、威迫力頼みの、無理を通して人の道理を引っ込めさせるような破綻した暮らしとなった。貧困にあえいだ末、十年前に通行人に対して恐喝を働いて以降、衛視やそれらに雇われた(元)同業者が張り巡らせる公的秩序の監視の目を恐れ、市井の中にも居場所を無くした。脛に疵持てば笹原を何とやら、真っ当な世渡りはもはや難しい。身から出た錆、報いと言って差支えないが、今やすっかり食い詰めている。
ゲルトもまた妖精界コッティングリアに生を受けた一人の妖精であるので、たとえどれだけ町の文明の中で暮らせないまま野宿暮らしをつづけていようと、火を焚いて調理もすればテントで寝泊まりするし、他の妖精から奪窃した品の中に金貨があると後生大事に取っておく。
街道から少し離れた森の入り口辺りに昔取った杵柄で野営をしてねぐらを拵えたゲルトは、地面の湿った黒土の上へ今日の簒奪の成果を並べた。金貨が一枚あった。銀貨が三枚。水袋が一つ。ひったくれるだけ抱えて持ち去った標的の外套や衣類。あとは銅貨が十数枚と、他人の旅の着替えやら何やら、価値の無い小物ばかり。この実入りでも収穫の良い方である。
古くてほとんど角を打ち尽くし火花の出が悪くなった火打石を慣れてしまった手つきで打って火を焚くと、火種となる枯れ枝や燃えそうながらくたの中に生木が交っていて、白い煙が大量に燻り、それが目に沁みる。昼の旅人の荷物にはおらが村で作られたのであろう干し肉・干し野菜の余りがあった。それを火にくべ、干し肉にがっついて口の中へ押し込む。今のゲルトには料理と呼べそうな物が食べられる機会をありがたく感じてしまう。
水袋の貴重な中身をちびちびと舐めるように飲んでいると――
「む……」
ゲルトの体へ鋭敏に緊張が走る。
剣を手に取りつつ街道の方へ眼をやると、やはり聞こえるものがある。車輪がわだちを作りながら騒がしく回る音に、馬の足音が混じっている。
――こっちに気がつきはしないだろうな……。
それだけを願いながら、じっと動きを止めて身構えている。今ゲルトの前には、血の匂いの染みついた両手剣と、今日の強盗行為で手に入れた物品が並んでいた。それを見られた暁には、彼の〈生計〉は立ちどころに看破されてしまうに違いない。
焚き火とその煙があるので、彼自身が息を殺したところで関係は無かった。彼は胸の内で、
――気づいたとしても、間違っても俺を怪しんで近づいて来るな。通り過ぎた後も、どこへも通報してくれるなよ……。
その事だけを一心に願っている。
馬車は四輪の標準的なキャリッジを四頭立てで牽いていた。快速に駆けるための牽引である。
にもかかわらず、街道を下り方向へ走る速度は遅かった。それどころか、ゲルトへ近づくごとに、歩様はみるみる緩んでいる。
実はこの時、馬車の中は騒ぎになっていた。郵便配達員の一人がひどい腹痛を起こし、悶えていたのだ。町まで保ちそうな様子でもなく、このままでは走り続けられないと判断した。そこで「揺れる車内では体が休まるまい。一旦馬車を止めて、外で休ませて様子を診よう」という事情があったのだが――
――いかん、俺のそばで停まってしまう……。
後ろ暗い身の上のゲルトにはそれが致命的である。
よりにもよってであった。彼が最も都合の悪い展開として思い浮かべた通り、馬車は街道の途中、ゲルトの潜む森の焚き火から直線距離で最も近いところで歩みを止めた。その馬車から真っ赤な外套に身を包んだ郵便配達員が、ぞろぞろと三人降りて来た。うち一人が他の者の肩を借り、立って歩くだけでも青息吐息の様相であった。彼等は野営しているゲルトの事など知らず、森へずかずかと近づいて来る。
エシッド王国の郵便制度は、商人が営む民間の飛脚問屋と郵政省の束ねる国営の郵便局が入り乱れている。後者の配達員達は、政府の構成員の末端を担っていると言って良い。
残念ながらこの手の木っ端役人には多いものだが、目下に対して居丈高に振る舞いたがる連中というのはいるものだ。
「おい、そこの男……冒険者と見るが、一人か?」
「……」
「公務の者だが、身内に病があってな。薬草を煎じるために火をもらうぞ。良いな?」
「……中にいるのか?」
「病人か? いや、こいつなんだ。今馬車の中で一人残って、薬を――」
「四人なら、どうにかなるやもしれん」
「馬鹿を言うな、全員じゃなくてこいつだけ腹が痛いんだよ」
「俺を見たからには、殺す」
うめくように呟くや、杖よろしく地面に突いていた鞘の石突を地面に押し付けたまま柄に手をかけてひっぱり、引きずるようにずるりと長い両手剣を引き出したかと思うと、露になった長大な厚刃をいっぺんに跳ね上げた。
先頭の配達員の左のあばら骨の下から右の鎖骨までを叩き割られた躰が、血煙を纏ったままもんどりを打って転げ飛ぶ。
馬車鞭と共に草の上に墜落した仲間の遺体に、二人目とそれに肩を貸している三人目の顔が途端に青くなった。
逃げ出そうとしたが、片方が肩の貸し借りでようやく立っている有様では歩き出すのも遅い。
すかさずゲルトはあとの二人の間合いまで深く踏み込み、今度は横へ振り回し、長い刃で二人の胴をまとめて払ってしまった。
「むうんっ……」
「ぐうっ……」
肩を組んで絡み合った二人の体が、凄絶なものを噴き出しながら一まとめにうつ伏せへ斃れ伏す。
「何だ、何があった!」
馬車の扉が乱暴に放たれ、偉ぶった金刺繍のある横乗り用の長スカートを翻す女役人が、異状を察知して飛び出してきた。もはや動かない同乗者達の姿に瞠目した時にはすでに、柄の護拳と鍔を合わせて〈R〉字を逆さにしたような形の、格調高い拵えの細身な片手半剣を抜き放っている。
いくらか心得のある者らしく、乳房の肉を落として眉間へ移したような盛り上がった皺眉筋で柳眉を逆立てる精悍な女役人だ。女役人は半身にした上から奥手を腰に当て、前手で細身のひと振りを正眼に構え、その切っ先越しにゲルトをねめつけた。
「下郎!」
吠えざま、そのまま迅速に駆け寄り、手元の剣の〈R〉字の鍔の間に咬ませて捉えんとゲルトの刃へ鋭く突き込んでかかった。
この刺撃を、彼は剣を引き頭を退げてかわす。細身の間髪入れぬ追撃を、ゲルトはそのまましゃがんでくぐり、瞬時に潜り込んだ懐で大の豪剣を横一閃に振り抜いた。
「うおっ……」
腿が切り払われて弾け飛び、大腿骨を見せる。女役人は無念の表情でよろめき、ついには立っていられなくなってしまった。役人は地に膝を折ってなお目の前の不埒者から勝機を見出さんと草の露の中でのたうっていたものの、傷は深く、裂かれた内股の急所から鮮血がどくどくと流れ出、さして時間も経たないうちに役人からは、もがき苦しむ力も目の光も失われた。
だが、最後に立っていたゲルトの顔は、今斬って動かなくなった役人の体よりも先に青くなっていた。
――とうとう役人を斬ってしまった……それも、四人も……。
今までこのような大それた犯罪まではしでかしてはいなかった彼は、女役人が力尽きる様を愕然と見つめ、その後もしばらく死屍累々の森の脇で立ったまま放心していた。
ゲルトははたと正気に戻った。証拠隠滅をしなければならなかった。犯行時に偶然誰も通行人がおらず、誰にも目撃されていなかったらしい事は、元冒険者としての長い経験から察知している。
――まさか、馬車の中に他に誰かいるまいな?
不安に駆られ、ゲルトはようやく剣を鞘へ納めながら郵便馬車へ向かった。
中を見たが誰もおらず、杞憂に胸を撫で降ろした。
馬車の座席や床の上には当然の事ながら、方々から方々へと送られる郵便物の大きな袋が三つ床に鎮座していた。
その時、緒がほどけた袋の中に、小包や配達先までの路銀が露わになったのをゲルトは見つけたのである。
「――そういう訳でねえ、町まで噂が届いていて、みんな恐ろしがっているのよう」
厚塗りの口紅を憤懣でねじ曲げながら嘆息しているのは、年嵩の商人である。と言っても、実は店主アーグステ・ズブレッツィは未だに、サラマンダー達のトカゲ面を見ても全く性別や年齢が判別できなかった。もしも目の前の依頼人が入店してすぐに飛脚問屋〈ドゥーンクヴィスト・アンド・ドーターズ〉の主人イレーネ・ドゥーンクヴィスト、つまり女だと名乗ってくれなかったら、アーグステ店主は相手をどの敬称で呼ぶかで分の悪い賭けに出なければならない危険な瀬戸際だった。口紅にも気が付かなかっただろう。ドゥーンクヴィストの緑色の鱗は心労で色がくすみ、丸眼鏡のつるの片方が角から外れて傾いているのにも気づいていない様子だった。来客椅子に座った時から震え通しなのは、決して店主が大女なのに怖気づいているわけではない。依頼するにあたって自分達の過去の被害をまざまざと思い出し、悔しいのである。彼女は鱗に覆われた太く長い指で器用に持ったペンを、差し出された依頼票の依頼者名欄の上に滑らせている。ドゥーンクヴィストは自らの屋号だけでなく、同業者の大部分および郵政省の名前まで書き連ねた。官民でいがみ合っていて統一的なギルドを組織出来ない郵便制度界隈が一つにまとまって依頼を出しに来たという事は、それだけ界隈にとって深刻な影響を被っている事を意味する。
ここはエシッド王国の王都エシッディアの通りに建つ特に大きな建物の中で、屋号を〈赤き戦斧亭〉という。店主アーグステ・ズブレッツィの剛毅な見上げるほどの巨体がそのまま象徴しているように、この店はエシッディアの冒険者ギルドに属する〈冒険者の宿〉である。店舗形態としては宿酒場の体裁を採る〈赤き戦斧亭〉の中では所属冒険者達が昼からエールを飲んで騒ぎながら、一角では得物をぶつけ合わせて片手半剣の研鑽に励み、剣術談議に花を咲かせている。
その様子を眺めるドゥーンクヴィストの目には縋るような期待がにじみ出ている。
「あそこの方々の、誰が討伐に行ってくれるのかしら?」
「それはあたしが責任を持って、所属する人材から良いのを選んでよこしますとも。被害状況を考慮しながらね。察しますに、街道の辻馬車強盗の討伐依頼ですね?」
「そう、そうなのよ――あとは依頼内容を伝票に書けば良いのねえ?」
「いえ、まずは状況をお聞かせください、マダム」
「状況? 困ってしまうわ。この上なくはっきりしてるけれど、大事な事だけは分からないのよう。街道の不自然なところで馬車が停まっていて、あるいは横転していたり、ハーネスごと馬が斬られて殺されていたり。通りかかった人が不審に思って近づいてみると、御者も飛脚も血まみれで斃れてるの。役人の郵便配達員だろうと関係無しよ。ひどいわ……ウチの店の奉公人は四人も殺されたのよ!」
「心中お察しいたします……馬車の中の被害は?」
「斬られた配達員の懐はみんな漁られてるし、路銀を入れた金貨袋は空っぽにされてるか盗まれてるかのどちらかよ。衛視さんも『金目当ての犯行だろう』ですって。状況は毎回変わらないわ、進展は無く、追い剥ぎは潤い続け、郵便制度の担い手の体と信用だけがいたずらに傷ついていく」
「それだけの被害なら、社会問題になりかねませんね。さぞ衛視の方でも大慌てで調べて回っている事でしょう」
「それがそうじゃないのよ!」
ドゥーンクヴィストは興奮のあまり机を叩いて立ち上がったかと思うと、すぐに卓上へ頭を抱え込んで突っ伏してしまった。
「なりかねないんじゃなくて、もう社会問題になってるのよ。模倣犯が王都の市中で現れ始めてるそうなの。市街の近距離便の郵便馬車を襲う奴が目の前に現れたら、市内を守る衛視はまずそっちを追わなければいけない。だから市外の街道の郵便馬車強盗までは、手を回したくても回せない――そう言われたわ。ひどい話だけど、残念ながら道理だわね。ここの店もね、店主さん、その衛視さんからおすすめされたの。慌てて同業者にも郵政省にも手紙を送ったわ、もう冒険者さんに頼るしかないわよってね!」
飛脚問屋ドゥーンクヴィストは悲痛に叫んだ。その訴えを店主は片眉をひそめて受け止めた。
「ちょっとばかし気になった事がありまして、ドゥーンクヴィストさん……よろしいですかね?」
「何かしら?」
「今『郵便馬車強盗』っておっしゃいましたね?」
「ええ、郵便馬車が山ほど被害に遭っているわ」
「しかし、それ以外の馬車は襲われていないのですか?」
「……そういえばそうだわ。あたし、聞いた事無い……相乗り馬車や貸馬車業の方と相談した時、あの人達は他人事だったわよう」
「つまり、その追い剥ぎは郵便馬車だけを狙って襲っている?」
店主は、巨体に連なるあまりにも大きな手のひらを、それと並べて比較するとあたかも極めて小さく見える豪放そうな顔の顎元へ当てつつ、思わず唸った。
「――なるほど。確かに、街道を誰も通らない日はあっても、郵便馬車は一年中ずっと走っている。飛脚問屋の馬車は路銀を抱えているし、郵政省も色々小銭になりそうな小物を役人に持たせている。それで襲ってみて、高い物を入れた小包が入っていればさらに儲けもの。実入りのあるか分からない駅馬車やら儲けの微々たる通行人やらを襲うより、確実に一定額儲かる獲物だけに狙いを絞る、か……確かに、待ち伏せの現場を見つからないようにだけ気をつければ、そう簡単には捕まらない。これは理に適っている。いや、よく考えたものだ。実にあっぱれ」
「強盗を褒めないでちょうだい!」
ドゥーンクヴィストに怒鳴られてしまったので、アーグステ店主は心の中で名犯罪者へ拍手を送るのを止めた。
店主は丸太のように太い腕を、所属冒険者達の三倍は分厚い胸板の前で組んで悩んだ。もちろんこの依頼は受理をする。型通りに裏も取るつもりだが、さすがに怪しいところもあるまいと考えている。むしろ、依頼票を掲示板に載せた後でどう所属冒険者へ差配するべきか店主は考えあぐねていた。犯人は人数も分からなければ素性も察しがつかない。この有様では、どんな冒険者が向いている依頼なのか判断出来ないのだ。依頼票に〈目撃者がいない〉と書かれたのは犯人が元冒険者だからか、それとも野外生活に慣れた魔族ゆえか。〈死体にはいずれも刃の厚い剣による傷あり〉とあるが、これでは犯人像を絞れない。むしろある種の大型肉食魔獣の鉤爪はちょうどそう見えるものだ。相手が違えば、その対処に求められる腕前や得手不得手、つまり担当させるべき適切な人材も変わってくる。そこで誤りがあってはいけないのが店主――アドベンチャーキーパーの仕事であって、悩ましい。
春が訪れると潮の匂いは時折生臭いほど濃くなり、今日のように一年に一度か二度は王都の東側三分の一まで潮風が押し寄せて立ち込める日がある。海岸近くに建つこの店では屋内まで浪の花の匂いが鼻についた。鼻をくすぐられた店主がふと窓のあるテーブル席の方へ目を遣ると、互いの武勇伝を聞かせ合っていた冒険者達は未だに、木剣を叩き床を踏み鳴らす音が店の外へ漏れるのも構わず剣の稽古に励んでいる。そこへ周りの客が茶々を入れて酒の肴としていた。
これをふと見て、黙考していた店主の頭に突然浮かんだものがあった。
「おたくの飛脚や、配達のお役人さん方は、積んでる金を狙われてるんですよねえ?」
「ええ、そうよ。皆怖がってるのよう。もちろん解決して下さるのよね? お願いよ、嫌と言わないでちょうだい」
「それは当然ですが……金があるんなら、それで護衛などは雇わなかったのですか?」
「護衛?」これにはドゥーンクヴィストは鼻で笑った。「冗談を言わないでちょうだい、ウチは飛脚問屋。手紙や小包の数だけ、どこへでも行かなくちゃいけないし、何件も回らなくちゃいけないのよ? 最初は雇ったりしていたけれど、駄目よ。費えが保たないわ、金貨が何枚あっても足りないわよ。郵政省でも今じゃ郵便馬車にわざわざ護衛なんか乗せてないし。こんなの業界の常識よ?」
「――つまり、どこも危険な地域を通って配達する可能性を認識した上で、従業員に予防策を何ら採らせなかった、と?」
「そ、それは……」
ドゥーンクヴィストは途端に弱々しくなって目をそらした。口を滑らせた事を後悔して顔を背け、目を合わせようとしない。
店主の顔はみるみる厳しくなる。
痛い所を突かれた彼女はそのまま固まってしまった。いくつも修羅場をくぐってきている店主に睨まれると、誰であれ逆上する勇気が出ないものだ。ドゥーンクヴィストにいたってはすっかり緑の鱗の間から汗を垂らし始めている。
目先の金を惜しんだ界隈の失策が、何人もの飛脚や郵便配達役人を落命に至らしめたのだ――その事実への怒りが、店主の頭に血を上らせる。店主が固く結んでいた口をようやく開いた。
「聞いてますよ、特別な小包や手紙は一覧を書いてまで大切に届けてるって。あたしだったら、絶対に丸腰で街道なんか渡らせませんがね」
「で、でも……」
「やっぱりそうかい、そういう話こそウチへさっさと相談に来てもらいたかったんですけどねえ!」
そこまで大きな声を上げて一喝したわけではなかった。にもかかわらず、ドゥーンクヴィスト女史はサラマンダー族の種族固有の立派な大トカゲの体を、哀れなほどばつの悪そうに縮ませていた。
「良いでしょう、こうして依頼を出していただきましたから。事件の解決? こっちも相手がどういう奴か分からなきゃあ手が打てませんでしたし、ちょうどよろしい。あなた方が杜撰な対応をしてくれたおかげで、たった今妙案が浮かびましたからね」
「そ……それは?」
「剣術の稽古が上手い奴を、今依頼票に記入して下さったお店とお役所の全部へ、いっぺんに派遣しましょう。あんた方の奉公人を全員ウチの者に目いっぱいしごかせますから、何が何でも飛脚や配達役人に身を守る術を覚えさせなさい。馬車にも配達の護衛をさせます。依頼料の嵩まない新人か暇してる奴をちょいちょい寄こすんで、市中の短距離便の馬車にそいつらを乗っけなさい。それで模倣犯は抑制できるでしょう。まずはそいつらに情報収集させないと手の打ちようが無いかと思いますんでね。事件の調査に剣の指南と護衛まで合わせて依頼票を書いていただきますよ、良いですね!」
「い、いや、そこまでは――」
「金ケチって護衛雇わないならお宅ら飛脚・配達員が剣を学びなってんだ! その指南役ならウチからいくらでも出せる。もともとお前らがそこを物惜しみしたから出てきた辻馬車強盗なんだろうが!」
「ひいい……」
ドゥーンクヴィストの額から大粒の汗が眼鏡のレンズに滴り、その眼鏡も鼻からずり落ちてしまって、失神しかねないほど震えあがっていた。この時店主は依頼人のドレスの胸倉を掴んで怒鳴っていたので、ほとんど恫喝に近い〈受理〉であった。
後日、飛脚問屋と郵政省の役人達がそれぞれ、荒くれた指南役を迎え入れに渋い顔で店を訪れた。
王都エシッディアの大通りの近くには当代随一の大神殿が建っており、妖精界コッティングリアの天地を開闢し世の妖精達の祖先を創出し給うた神々四柱の他、現人神・小神と成った幾多の大妖精が合祀されている。そのすぐそばには銭湯がある。聖職者や近隣住民に入浴サービスを提供する市井の憩いの場だ。そこから気分良さそうに、字面通りの湯上り肌で出てくる男が一人いた。男は卸したばかりのギャンベゾンをそのまま街着にした上から薄い麻のマントを羽織った冒険者態で市中を閑々と歩いている。その足はふらふらと雑貨屋へと向いて小間物や小粒の焼き菓子を気まぐれに買った。雑貨屋を出た後は焼き菓子をつまみつつ床屋へと入り、髪と髭を切りそろえてさらに身なりを整えた。
古めかしく整然とした旧市街から離れると、南方には猥雑な活力であふれかえる新市街がある。新市街は元々スラムを開拓して開発された歴史の無い区画だけに、伝統や常識に囚われない奇抜な発想で一旗あげようという新興の商売人の受け皿になっている。今ゆっくり男が歩いているこの大通りはそれが顕著であって、新市街の一角を貫くゾラリンメ・アヴェニューには、店構えだけは小ぶりな一癖も二癖もある店が街路樹の間に林立している。男の足はここへ伸びたにもかかわらず、けばけばしいほど派手な色遣いの看板を掲げるいかがわしい商売の店には、まるで目もくれない。ゾラリンメ・アヴェニューの脇には名も知らぬ低木の市街並樹が並ぶ。その一本を目印に道を逸れるとすぐのところに、色のくすんだ壁も屋号も汚れて読めない、客商売をする気の無さそうな小体の酒場が、人目を憚るように建っている。酒場は屋号を〈グリフォンの杜松亭〉という。男はこの店を前々から知っていたと見え、迷わずこの店の閉め切られた木の扉に手を掛けて開けた。
男は郵便馬車強盗、ゲルト・パッセマンである。
この店は中も薄暗く、カウンター席五脚に四人掛けテーブル席が二つばかりのウサギ小屋と見まがう坪数にも関わらず、椅子を一つ飛ばして座ると他の客の顔も見えるかどうかというほどである。客は数名、いずれも陰湿な顔と擦り切れた胴着を粗末な座席に沈め、薄めたエールを半分だけ入れた安作りの陶器に口をつけながら、店へ入って来た見ない顔の男の客、小綺麗なゲルトを神経質そうな目で睨んでいる。そんな店内をゲルトは堂々と入って行き、意気揚々カウンター席に着く。
座っていた赤毛の中年ドワーフの客は、わざわざ隣に座って来たゲルトへ怪訝そうな顔を浮かべていたが、
「あれっ、ゲルトじゃあねえか」
「よう、親父」
「おお……」
座っていた客は思わぬ場所で会った男に目を丸くした。この男は小店の主だが、店先以外で客としてのゲルトとしか会った事が無かったのだ。
このドワーフの男、名前をコナー・ズザンドーターといい、あだ名は赤ひげ、一見するとただのしょぼくれた雑貨屋の主。だが裏へ回れば、故買もすればご禁制品も取り扱い、しまいには妖精攫いまでして金と引き換え、頼まれれば何でも売り買いする手合いである。彼は過去を詮索されたがらないが、噂によれば騎士階級の生まれで、素行の悪さから不法行為で生計を立てるようになった、俗にいう強盗騎士だか無頼浪人だかの身の上らしい。無論というべきか、ズザンドーターの客筋も真っ当な連中ではなく、後ろ暗い者共が後ろ暗い行為のために彼を大いに贔屓にしている。
ゲルトもその内の一人である。ゲルトが現役冒険者という名のごろつきであった頃、彼を問題のある者だと承知でご法度な物品を含めて色々と都合したのも、ゲルトが市外へ逃げ出した後に強盗によって手に入れた小物を時折買い取っていたのも、何を隠そうこのズザンドーターである。
「雑貨屋の父っつぁんとは、また妙なところで会うもんだな」
「お前、すっかり羽振り良くなったもんだなあ……」
中年の客は、ドワーフの魂であるにもかかわらず短く切り揃えている顎ひげに手を当て、未だに信じられないという風にゲルトの顔を、鼻梁のがっしりとした太く低い鼻を近づけてまじまじと見ている。
ゲルトはけらけらと笑って見せながら、
「奢らせろよ。今までは無理の言い通しご無沙汰のし通し、迷惑かけ通しで悪かったと思ってよ。いや、早くこう詫びたかったんだが、俺の体たらくを知ってるから分かんだろうが、俺も長らく商売沈んだっきりだったもんでね。中々浮かび上がれなかったのさ」
「とんでもねえ、うわさは聞いてらあ。大浮かび上がりだってよ。繁盛が過ぎて、お上までてんてこ舞いさせてるらしいじゃあねえか」
「やっぱり裏は話の回んのが馬車より早えな」
「そりゃあお前は、首尾よく静かに物事片づけるって事が出来ねえからな」
「おめえだって女にゃだらしねえくせによ。三人に媚びてよ、それに隠れて二人唾つけといてよ……」
「言ったな?」
憎まれ口のたたき合いでも、ズザンドーターの顔には喜色が漏れている。ゲルトの方も、久しぶりに誰かと打ち解けた会話をするのが心地よかった。
「にしてもゲルトよ、郵便馬車襲うのってそんなに儲かんのかい?」
「一台一台はそんなでもねえ。それこそ盗った物みんなマントに包んで、抱えて逃げられるくれえの微々たるもんよ。だが毎日欠かさず走って来て、護衛も乗せねえで黙って襲われてくれて、中には必ず十分な実入りがある。おまけに郵便ってのは一日遅れたり欠かしたりするわけにいかねえから、向こうが対策したくともそう簡単には出来ねえ。郵便馬車だけ狙ったら、失敗が無えのよ」
「なある、そりゃぼろい話だ。だが役人にゃあ剣術の出来る奴もいてやがるだろう?」
「まあなあ。実を言うと俺が最初に襲った郵便馬車には、なかなか馬鹿に出来ねえ腕の奴が乗ってたもんさ。俺様ほどじゃあなかったが……しかし相手はお役人様、こっちは初めてで、まあ慌てたね。おまけにこっちは襲いたくて襲ったわけじゃなしに、お上に姿を見られたから捕まらねえために斬っただけだったしよ。だがみんな返り討ちにして殺した後、馬車を漁ってみたらどうだ、手頃な金品だらけよ。こりゃあ儲からあ、って始めたのさ」
「へえ、人にも事業にも歴史ありだ……しかしお前、どうして馬車強盗なんか出来るんだ?」
「どうしてって何の事だよ」
「お前、馬なんか操れたのかって」
「俺があ? 俺と馬がどうして関わるってんだ」
「馬車を襲うにゃあ、そっちも馬車が無えと、獲物に追っ付けまいし停められまいよ」
「それが実は……操ってねえ。こっちは馬車なんか要らねえんだ」
「じゃあなおさらどうやってるのか聞きてえね」
「えっへっへ……俺の飯のタネだぜ」
「俺っちとお前の仲だろう? 顔つなぎだと思ってくれよ」
「――まあ良いか。大したやり方じゃねえんだ……郵便馬車は朝と昼に出て夕方帰ってくるもんだし、通んのは細道よりも大きな街道だと相場が決まってらあ。獲物の通る時間と場所が分かっちまうんだから、それに向かって用意進めて待ち伏せるだけでいい。ここが郵便馬車強盗のミソなのさ」
「なあるほど……」
「それで待ち伏せて停めるんだが、郵便馬車かどうかは遠目からでもはっきり分かる。郵便を入れた袋を載せてたり、途中で客を相乗りさせてたりするからな。飛脚問屋の紋章や配達役人の制服もすぐに覚えられらあ。それで郵便馬車が来たら、そいつを停める。通り過ぎようとしたところへ馬か御者かをバッサリ斬ってやるんだ。馬具が切れるだけでも十分だ、そしたら馬が馬車を牽けなくなる。あるいは丸太か何かを道に差し渡して塞いでやってもいいし、馬に水を飲ませようと川べりまで来るところで襲ってもいい。罠を仕掛けられるんだから、やるなら手を変え品を変え、だ。
停めたら飛脚だろうと配達員だろうと皆殺しにしてやるのさ。そうすりゃ足がつかねえ。馬車に籠られたら面倒だから、おびき出す手か扉を壊せる物を用意してから停めんのが良いやな。あとは中の物を全部がめておさらばよ。素人は襲った郵便馬車の馬に乗って逃げれば良いと思うかもしれねえが、駄目だ。襲った後は馬が怯えちまってるから、逃げる時の足に使えねえんだ。だから端から、やる事やった後で身をくらませられる場所を選んで待ち構えるのさ。総じて、仕込みでみんな決まると思ってくれていいぜ」
「へえ……さすがは第一人者だねえ」
「慣れると大したものじゃねえ……」
ゲルトは、ズザンドーターが感心しながら見ているのとは対照的に、陰鬱そうに安酒をいっぺんに呷った。その顔色に彼は気づいていない。
「父っつぁんの仕事はどうだい? 雑貨屋の方は」
「後ろ暗え稼業してると毎日の事だが、順風満帆とはいかねえよ。特にこの頃はお上の目がどこから見てるか分かりゃしねえ。合法の仕入れもおっかなびっくりの有様よ。おおかた色んな所に密偵が潜んでるんだろうが、それがどいつかは見当もつかねえから、まるで付き合う魔族の方に交じってるんじゃねえかって思うくらいでね。ずいぶん前に話した奴がいたろう、あいつもあの後すぐに取っ捕まっちまって、こっちは大損よ」
「そうかい、本当に……」
「それにゲルト、お前さんの前だがね、今どきは何だね。冒険者崩れで何か犯罪して食ってるような奴は、頼んだ仕事もろくに出来ねえ木偶の坊ばっかりよ。それで表で食っていけねえから流れ着いてきたんだろうが、裏に来てもろくに仕事が出来ねえってんで、どこも持て余してやがる。まあ、俺はそいつらを食い物にする事でも糊口をしのいでるのだが」
「つまり商売あがったりって訳だ?」
「そこまでじゃあねえ。お前が郵便馬車にいたずらしたおかげで、最初は他人事だった馬車貸し全体が今や震えあがって、物流って奴が止まりだしてる。そしたら俺っちの闇市の出番よ。何せ本当は痛くも痒くもないはずの問屋が杞憂して品物運びの仕事をしねえんだ、こっちだけ仕入れして大儲けよ」
「しかしそれも問屋が気づいたらおしまいだろうよ」
「だからパッと太く売り捌いてパッと引くさ」
「なるほど。で、その後はどうするね?」
「その後、って……おいゲルトやい、お前一体何が言いたいんだ、ええ? らしくもなく回りくどいじゃねえか」
片眉を上げて身を乗り出すズザンドーターの前で、ゲルトは苦々しげにさらに安酒を流し込む。
「実はな、父っつぁんはもうすでに知ってるかもしれねえが……俺の手際の良い仕事を黙って指をくわえて見てる事しか出来ねえトウシロウ共が、俺の猿真似し始めやがった。せっかく俺が城壁の外で野営までして生かさず殺さず、警戒されすぎねえ程度にだけ郵便馬車を襲ってるってのによ」
「模倣犯か。話は聞いてらあ、王都の市中の方の郵便馬車まで襲われだしてるって奴だ。噂じゃあ新市街のチンピラ共の仕業だってよ」
「だろうよ、畜生め。あの何をするにしても他の後追いしかできない連中、やる事も見境が無えから、よりにもよって市中の短距離郵送便を食い荒らしてやがる。これじゃあ早晩馬車に護衛がついちまうだろうぜ。そうなりゃこっちはおまんまの食い上げだ。郵政省まで動くかも分からねえ。俺は今まずいんだ、切羽詰まってる」
「おいおい、そりゃあ言いすぎじゃあねえのか? 郵便馬車なんて王都を何台走ってるか分かんねえくらい多いんだ、そうそう早くは動きようもねえと思うんだが――」
「だから俺ぁ郵便馬車強盗は、たった今日から手を引くつもりだぜ」
「手を? そんな早急に事を決めなくたって良いじゃねえか。上手くいってるうちに稼ぎ切っておいた方が良いと思うが」
「いいや、まずい。脂が乗りすぎた」
ゲルトは安酒の陶器をいっぺんに傾けて中身を飲み干した。それをテーブルの上にどんと置いた時、ズザンドーターはゲルトが一転、にやりと不敵な笑みを浮かべているのを見た。それは彼が冒険者だった頃の、何か大胆な悪事を企んでいる時の表情だった。
「その代わり、別の金儲けの手を考えてあるんだ。それでよ、恩返しって訳じゃあ無えが、ちょっとばかし俺の尻馬に乗って手伝わねえか?」
王都エシッディアのうち、旧市街は王城を中心に放射状に伸びた大通りと同心円状の運河を基準に開発された都市である。複雑な様相を呈しているが、一般的には中央の王城に近づくほど商店や宿屋・酒場なんかが増えるとされ、実際そのように栄えているのが目に見えて分かる。円の中心付近にあるいくつかの区画では、貴族や成金の大商人などの大きな屋敷が増える、いわゆる上流階級の町となっていると考えていい。
イーヴ家が王家としてエシッド王国を治めるようになって長いが、女王アーリニエ様の治世となって初めてこの区画に明確な境界線が付けられた。多くの屋敷が王宮に仕える都市貴族のもので、高貴さを示す純白の外壁の屋敷が好んで建てられた事、ほとんどが広い庭を有していて競って庭の木にヤドリギを実らせているのが外からも見える事から、その街並みの外観から取って白緑町と通称される。
空は高い。ただ柔らかいだけの日差しだったのが、生命を躍らせる陽光が日に日にその熱の強さを増していく時節である。昼飯の釜から上がる湯気を避けるように、太陽が天球からずり落ち始めている頃。
この白緑町の閑静な高級住宅街に、少しでも見合った身だしなみであろうとしている姿が見えた。ゲルト達である。彼の酒場での再会から、二日ほど経っている。ゲルトは草木染めの麻のマントの下を、元がプレートアーマーの中着であるギャンベゾンから変えて、グロースランド風のロングコートの下に革鎧を仕込んだ、いかにも手堅い冒険者が町で活動するために人見栄えと護身能力を半々に取ったという格好をしている。隣できょろきょろとしているのはコナー・ズザンドーターで、こちらはとことん濃く染め抜いた草木染めの厚手なローブ姿の仮装で、いかにも一見上等そうな重い樫の杖をついて歩き、魔術職を気取っている。二人の後ろを、険のある顔の三、四人の男女が佩いた片手剣を揺らしながらぞろぞろとついて歩いている。その中でも、先頭でラバを引いて歩いている女はアランニェ・ウーリといって、その道では知られたウンディーネの女空き巣である。ズザンドーターは頻繁に彼女から盗品を買い取っており、その縁で彼女をゲルトの儲け話に誘っていた。彼女は今、慣れない革鎧やすね当ての上からさらに身分不相応の外出用ドレスを身に付け、いかにも着心地悪そうに歩いている。そのほかもまた、アランニェの紹介を経由してズザンドーターがゲルトの代わりに雇った放蕩無頼のめぼしい役者達である。
一行は正規の冒険者の一隊に扮していた。腰のベルトにもっともらしく革袋やベルトポーチを下げている。ゲルトは元々本職である。当時彼が先達から教わった事の一つによれば、依頼遂行中に会う人や依頼人に対して角が立たない服装を心掛ける事も冒険者が信頼を築く上で大切であり、そのための振舞いの一例に、血を見る行為を連想させるものが好まれない地域や状況では、それを避けたりなるべく目立たないようにするべきだ、という(最も、この知恵は今初めてゲルトに活かされている)。その地帯は神殿の境内が代表的だが、上流階級の生活圏もまた有事の予防のためにそうだった。つまり、薄い鎧を服の下に、ゲルトは両手長剣はラバに背負わせて片手半剣をマントの下に――という格好は、武張った装備を服装で隠しているのであって、一隊の一見不格好な服装には意味があった。冒険者なりに気を遣っているという風をさりげなく見せる事で、高等教育を受けてなまじ半端な知識のある富裕層に対して、扮装はかえってより巧妙に作用する。
「この辺だと思うんだが……」
しかし辺りを見渡す一行の顔は浮かない。
ゲルトは目的の屋敷を探して辺りの街並みに目を凝らしているのだが、
「分からねえなあ。みんな同じ屋敷に見える」
白緑町と呼ばれるだけあって、並ぶ建物はみな上流階級らしい建築様式で統一されていて、そろって小市民の彼らには目当ての屋敷とそうでない屋敷の見分けがつかなかった。全員が内心で歯噛みしていた。こんな事なら、ブラウニーの水売りに道を尋ねた時、目的地まで水先案内をさせれば良かった。道順をたどるにも、まずその目安や目印となる建物が分からないのだから。
「父っつぁん、どうだい……この辺来た事あるかい?」
「いんや……この辺はご縁が無くて不案内だよ。お前もこの辺りに知り合いなんかいたりしないか?」
ズザンドーターはアランニェにも振ったが、
「あったら今頃あたしゃ左団扇だよ」
「そいつもそうだ」
「本当に儲け話になるんだろうねえ?」アランニェは眉をひそめながら、後ろの連中を顎で指した。「あんたが雇わせたこいつらもみんな、本当に儲かるのか未だに半信半疑なんだよ」
「任せとけって、大船に乗ったつもりでいろよ……こんなところに住んでる奴らが、金目の物を持ってない訳がねえ。手はず通り芝居をすりゃあ、まず金は儲かる。事の次第によりゃあ今日は引き上げるが、少なくともカモは金づるに出来るはずだ」
「そのカモってのが、クルツェってえ貴族様かい?」
「それだけじゃあ無え。手頃な物持ち共の名前が、このゲルト様の頭ん中にゃあ何人も浮かんでんだ」
わざとらしく人差し指の先で突つくように自らの頭を指差して、大きく振る舞おうとするゲルト。
その横っ腹を不意に、ズザンドーターが小突いた。
「この道、さっきも通ったかもしれないぜ。あの木は見覚えがあるような無いような気がする。クルツェって伯爵様のお屋敷ってのは、一体どこにあるのやらだ」
ズザンドーターはため息をついた。それにつられてゲルトも首を横に振ったものだ。ゲルト達は手元の物から、ツェツィリア・フォン・クルツェ伯爵、という名前とその住所だけは把握している。しかしそこから何を割り出すという事も出来なかった。あの水売りとさっさと別れてしまったのが、やはり悔やまれる。
「さっぱり分からねえなあ。このままじゃ野宿だ」
「こんなお屋敷町でかよ? 屋敷の庭に野営したらとっ捕まるぜ、ええ?」
「通行人に聞いてみるかあ」
ゲルトはぼんやりとつぶやいた。だがズザンドーターやアランニェ達どころか自分自身にもそれが上手くとは思えなかった。こういうお高くとまった地域では、昼から道端に座り込んでたむろしているような輩などいないのだ。些事で外出する際でさえ自前の馬車で移動するという家も多い事だろう。しかし今の一行は、話しかける相手はなるべく少人数、出来れば一人きりの通行人を所望していた。これから一仕事してやろうという「儲け話」の犯人にとって、目撃者は少ない方が良い。しかしそんな都合の良い通行人と巡り合うという幸運など、ここいら一帯ではそうそう叶わないと分かっているがために、暗澹たる気持ちになるのだ。
と、思っていたのだが――ふと前方の曲がり角の方へ視線が行った時、女の姿が目に留まった。種族はノームである。さすがというべきか、ここでは被っている長い円錐形のとんがり帽子というありふれた物でも仕立ての良い物だ。伝統を守っている長い帽子が中央から後ろへ折れているところを見るに、若い教授か、学士か、哲学者か、懐に余裕のある詩人だろうか。しかし片手に白ブナの魔法の杖を携えているので、魔術を修めた宮廷魔術師のような役人の類というのが一番答えに近そうに見えた。一方、ひもを通した鉄筆を首に下げているを見ると、技術職で画家と画商のどちらかだと言っても通るかもしれない。服装は今ズザンドーターが扮装で身に着けているローブと似ているが、やはり落ち着いた光沢のある紺色の生地にも、細部まで丁寧に処理のされた立体感のある縫製にも品位がある。鉄筆と魔術杖の女は十字路の脇に立ったまま、一人で何もせずに立っている。そして四方へ伸びる道の遠くをのぞき見るように辺りを眺めながら、ただ無為に時間を潰しているように見えるのだ。
「おっ……ちょうどそこに学者様がいらあ」
ゲルトが指した方を見たズザンドーターの顔も晴れた。役者として雇われたごろつき達も、つまらないトラブルで難航する事無く仕事を終えられるのが見込めて安堵する。唯一、窃盗犯という職業柄ほとんど猜疑に近い警戒心の強さが身に沁みついているアランニェだけは「向こうも何か目を光らせてるみたいだよ、大丈夫かい?」と見て取った。しかし女を遠くから眺めてこそこそ話している声が、閑静なお屋敷町では鉄筆の女のいる十字路まで十分響き渡ってしまい、女の方がゲルト一行に気づいて目も合ってしまった。
「大丈夫なんだろうねって、ゲルト」
「なあに、聞くだけならタダだ――そこの先生、遠くから指差して騒いでて申し訳ございません、ちょっとお尋ね申し上げたくってですね」
「はあ、何でしょう。何か私にご用でもありますか?」
鉄筆と魔術杖の女はきょとんとした顔でゲルトに反応した。その顔は若いわりに顔つきがしっかりしており、こうしたところでも育ちの良さ、ひいては地域全体の水準が垣間見える。
「ええ、その……道を尋ねたくてですね。俺達、依頼のために少々人を尋ねる用事があるんですが、この辺りには縁が無いもんで」
「なるほど。その服装や背中の物から、冒険者の方だと見ましたよ。尋ねたいという方のお名前を伺ってもよろしいですか? それとも尋ね先は依頼人になるから明かせない、とか」
「いや、依頼人じゃないんで……近頃、郵便馬車を襲ってる連中がいますでしょう」
「いますねえ。みんな恐ろしがってますよ、特にここは馬車を自分で所有している家も多いですから」
「左様で……実は俺達、それを捕まえる依頼を請けた者でしてね。依頼人は、まあ明かしていいって言われてますから言っちまいますが、飛脚ギルドの代表様なんで。それで、俺達は一つか二つ強盗グループを見つけて摘発したんです。それで盗品を検めていたら、金貨袋や宝石と一緒に、何点か配達されるはずだった郵便物が見つかりましてね。ほら、郵便馬車ってのは、高価だったり中身が特殊だったりするお手紙や小包は、羊皮紙に特別な郵便物の一覧表にしておいて、手抜かりなく配達するのに使っているそうですが――」
「らしいですね。よくご存じで」
「はい、襲われた郵便馬車を調べている時に、その一覧表は無事でしてね。それで、強盗連中を監獄送りにした後、俺達は出てきた手紙と小包を宛先か差出人かへ届けて回ってるんですよ。念のための聞き込みも兼ねてね。でもこの手紙は宛先がグロースランドの王城なんで、さすがに黙って外国へ持って行くわけにはいきませんから、差出人のクルツェ伯爵へ一旦戻して、再配達するかどうか尋ねようと思ってまして。それでクルツェ家のお屋敷を探して回っているんですが……」
無論、ここまで全てゲルトの嘘八百であった。この辺りの言い訳はあらかじめ考えてあった事で、この名目で屋敷の中へ堂々と入れてもらう算段である。
「ふうむ、郵便馬車強盗を、ね……」
鉄筆と魔術杖の女は顎に手を当て、いましがた聞いた言葉を口の中で反芻しながら、ゲルト達を観察している。そうしてしばらく何かを考えていたようだったが、意を決したように顔を上げ、
「今、クルツェ伯爵と言いましたね?」
「確かに俺は今申し上げました」
「実は私、申し遅れましたが名前をアルヴェアー・アルヴィンソンといって、いくつかのお屋敷の魔術指南役を任ぜられている者ですが」
一行はこの苗字を耳にして、思わず居住まいを正した。さすがは白緑町である――
これは歴史に理由がある。かつて人族は魔族によって支配され、家畜として文字通り牛馬のように扱われていた。この時代を〈人形時代〉と呼ぶ(魔族達が駆使した事で発展しその時代の象徴となったゴーレム技術と、人族が物扱いされていた事を掛けてそう呼ぶ)。しかし人族は各地で結束し、ゴーレムの普及が魔族社会に及ぼした社会の歪みに乗じて反乱を起こした。次第に人族は魔族に対抗できるだけの力をつけ始め、人族の支配領域を広めだした。現在人族は半分以上が魔族による支配から脱却し〈巻き返し期〉を迎えている。人族は、自らの社会と文化を取り戻す中で、魔族領に組み込まれなかった地域も含めて人族社会の多くが、魔族の支配下で蹂躙される前の時代への回帰を求める運動から母系社会・女権制社会へ移行した。このような歴史を持つ人族社会において、アルヴィンソン――〈アルヴィンという男性の息子〉という意味を持つ――という人族系言語の父称姓とはつまり、かつて人族が男系社会の抑圧下にあった時代の名残そのものであり、そのうちの半分はその人物が〈人形時代〉から存続している由緒正しい古家の生まれである事を意味していた。世の者がこのような姓の持ち主に会った時、それがろくでもない者だったためしがない。
余談ながら、今ゲルトに同行している故買屋コナー・ズザンドーターの姓は〈スーザンという女の娘〉を意味する。
そのアルヴェアー・アルヴィンソンは、やはり折り目正しい一礼をして、ゲルト達をかえってさらにかしこまらせた。それから右手で己の胸を、左手でどこか遠くにあるらしいクルツェ家の屋敷の方角であろう方を指して、
「ツェツィリア・フォン・クルツェ伯爵からも光栄にも教授を頼まれ、こちらの屋敷へは月に五回は通っておりますよ」
「えっ! つまり先生、伯爵様のお師匠でいらっしゃる?」
「お師匠などというのはこそばゆいですが、もちろん仲良くさせてもらってますよ。さ、案内しましょう。冒険者さん方、伯爵のお屋敷、見つからないはずですよ。お屋敷は全くの反対方向ですよ」
アルヴェアー女史はくつくつと小さく笑いながら、真っすぐ広げた手でゲルト達が来た道を指した。
クルツェ家の屋敷はひと際大きい。他の屋敷があくまで高級住宅街の中の邸宅に相応しい規模で建てられているのに対して、ここはさながら郊外の広々とした土地にのびのびと設計されたカントリーハウスを思わせる広さだ。
中もやはり豪華だった。外壁と同じ純白の漆喰の壁には何枚も絵画が掛けられていて、床の板張りにはそれはそれは大きなポホヨラ絨毯が敷いてある。ゲルト達が通された応接間の長机と椅子も、使う木材から切り出したデザインまで全て上等だ。
アルヴェアー女史はそこに着くようゲルト達を促すと、なぜか真剣な顔で応接間を出て行ってしまった。しかしすぐに戻って来て、何事も無かったかのように一行にお茶を振る舞った。酒場のようなエールと丸パンではない。温かなハーブティーと茶菓子だった。心安らぐ芳香と主張の強くない甘さはいわゆる〈上品な味〉という奴だった。それが美味いとは感じたので、全員がそのハーブティーの味に惚れて一度に半分も飲んでしまった。しかしその場の全員が今まで高級品など一度も味わった事の無い貧民であったので、どういう反応がTPOに則った怪しまれないか分からず、存分に口をつけたっきり黙りこくってしまった。
しかしアルヴェアー女史はこの無作法には何も言わず、ゲルト達がお茶を飲んだ事を確認すると、
「伯爵をお呼びいたしますので、しばらくお待ちください」
と言い残して、やはりまた小走りで去っていった。
アルヴェアー女史がいなくなった後、ゲルトは茶菓子を置いて部屋をぐるりと見まわし、絢爛な調度品や小間物を目の当たりにして、
「何から何まですげえなあ、お偉方は」
呆れるように感嘆の声を漏らした。
「全くだねえ」
ズザンドーターもまた部屋の調度品に注目と興味を抑えられないでいる。彼は雑貨屋の男主人(そして盗品商)だけあって、他の仲間の気付かないような些細な物品に目を止めては、その意匠や材質・古さなどからそれがどれだけ高価な物品かを見抜いて、貴族という身分が経済的にいかに恵まれているかを思い知っていた。長机は木目の密なウォールナット。その上のティーポットも小棚の上の壺も、よその国の骨董屋か歴史学者の手元にあってもおかしくない古渡りの拵え。シャンデリアはさっぱりした見た目で部屋の広さに見合った小ぶりなものだが、いかにもセンスの良い高級品だ。鏡はダイヤのような透明度で、きっとトゥーリッキ・ユリ=ヴァイナあるいはそれと比肩するような、当代では十指に入るガラス職人の手によるものに違いない。
そして、それを聞きながら彼以上に部屋中を見回しているのがアランニェである。彼女は小物を見つけるたびに手に取って舐めるようにひねくり回し、
「赤ドワ公のちび爺い、こいつはきっと高価なものだよ! あたしはそう思うね。見てるだけで金の匂いが匂ってくるようだよ! どうだい、どうだい?」
「今度そう呼んだらぶちのめすぞ――そうさな、卓上小像か。彫り方のタッチを見るに、おそらく神具師ではなく近代彫刻の芸術家の作だ。そもそも神像ってのは通常その神話から台座を四角形に作るものだが、そいつのは丸いしな。裏は何て彫ってある?」
「あーっとね、〈ヴィーダ・ザンクトリンドヴルム〉だってよ。偉い人かい?」
「なるほど、道理で。有名彫刻家だな。辺境伯様の家の次女っ子で、ドワーフ彫刻の地位向上に尽力してるって奴だ」
「ドワーフかい、ウンディーネとしちゃあちっとばかし良い気分じゃないが……で、で? どうなんだいって!」
「裏で売ればほぼ高いと見ていいだろう」
「やったっ! こいつはあたしの儲けだからね!」
アランニェは手に取った卓上小像を小躍りしながら革袋へいそいそとしまい込む。
ゲルトの計画した金儲けの話とは、盗みであった。これはと思った家の住所を調べておいて、後で忍び込み金目の物を持ち去っても良い。あるいは適当な名目で屋敷へ入り込み、昼は何にも手をつけずにおいて、夜に忍び込むための仕込みとしてはしごや脚立を物置から拝借して裏庭かどこかにあらかじめ立てておいたり、窓の鍵をこっそり開けておき門や扉の鍵をくすねたりしてから帰るという手もある。そうして深夜まで待ち、人通りの無くなった頃を見計らって、寝込みを襲っても良い。
これでも十分なのだが、最悪の場合は最も確実で手っ取り早い手段を選ぶ事にしていた。つまり、今この場で白昼堂々強盗を働いてしまうのだ。
そのためにズザンドーターは剣に覚えのある冒険者崩れを役者として雇ったのである。土地柄、庶民の平屋と異なり門番のような警備担当者を置いている屋敷も多い事だろう。それゆえ、数でいっぺんに家人を皆殺しにしてしまうのが最も安心できる。犯行の目撃者を消し、衛視への通報を予防出来るからだ。郵便馬車強盗でもゲルトが実践してきた金科玉条だった。そして哀れなクルツェ家は、その第一の標的に選ばれたのである。
クルツェ家の命運が尽きたきっかけは、隣国に宛てた一通の手紙にあった。王宮の牛馬や猟犬の管理・監督をつかさどる典厩長官の任を授かるツェツィリア・フォン・クルツェ伯爵は、歴任者は皆そうなのだが、就任当初より悩みの種があった。長らく魔族と激しい戦争状態の隣国・グロースランドが軍馬をねだるのへ、もっともらしい理由をつけて断ってやり過ごし続けるという永久に終わらない仕事だ。自国とその治安を守れるだけの軍馬の確保で精いっぱいの状況で、同盟国に融通できる頭数の少ない中、外交関係にひびを入れずに馬の世話と行き来を取り仕切られねばならない。その折衝もまた伯爵の役割で、本来の業務たる王宮の厩舎の管理よりも気を遣うのだった。そのための行政上のやり取りも頻繁で、定形的な返答を記した封書程度なら役人である郵政省の配達員に任せたのである。それがゲルトに襲われ、盗まれた。金は入っていなかったが、ゲルトはこれに封筒の上等さから目をつけたのである。
クルツェ家の手紙だけではない。ゲルトは郵便馬車を襲うたび、金目のありそうな家宅や店舗が差出人・宛先の書かれた郵便物を手に入れ、その住所と名前を早い段階から収集していたのだ。
アランニェは他の冒険者崩れに手招きをして呼び、小像以外にも換金に期待できそうな物が無いか、彼らと共にさらに収集し始めた。一人が脱いで床に広げた麻のマントの中に高級品が並べられ、マントでくるまれていくを見て、ズザンドーターも気の早い勘定を始めて落ち着かない様子である。
それをゲルトは出されたハーブティーをすすりながら見ていたが、
「待て。お前ら、これは浮かれてたらまずいかもしれねえぞ」
「何がいけねえ」
「屋敷が静かすぎる……」
ゲルトのつぶやくような指摘に、他の仲間達もようやく気が付かされた。確かに自分達の出した音以外に耳にしていない。まるでこの世から他の妖精が全て消えてしまったかのようだ。ゲルトは、その後も誰かが二階の床を踏み鳴らすのを待っているかのように、じっと天井を見上げている。
「なあお前ら、何か妙だとは思わねえか? ここまで大きなお屋敷だったら、使用人も一人二人じゃあ無え。侍女、金庫番、料理人……どう少なく見積もったとしても五人は雇ってるはずだ。手紙の差出人のお役職を見る限り王宮じゃ偉いお立場だからな。それが俺達が屋敷に入ってからというもの、今の今まで足音一つ聞いてねえ」
「そりゃあきっと……伯爵は外出してらっしゃるんだろう」
「だとしたらなおの事おかしいぜ。俺達を出迎えたのは、あの魔術指南役って奴一人こっきりだ。伯爵家ともなれば家令に執事に庭師もいるだろうに、どうしてその誰も主人の留守を預かってねえで、通いの魔術指南役が我が物顔でお茶なんか振舞ってんだ? この屋敷はいるべき奴がいねえで、あいつだけがいてやがる」
「だけどさ、ちょいと待ちなよ。さっきの魔術指南役は『伯爵を呼んでくるから待ってろ』って言って出て行ったじゃないかさ」
「そいつだよ。そこが道理に合わねえ。こいつはちったあ用心した方が身のためかもしれねえぜ。事によると、とんでもねえ屋敷に足を踏み入れたかもしれねえ……」
苦虫をかみつぶした顔でうめくように言いつつ、ゲルトは座ったまま、得物の剣を背中のマントの裏から腰帯の左側へ佩き直して、いつでも抜いて急場を斬り抜けられるように身構えた。一隊の他の面子にも顔に、凶兆に対する緊張と不安が、妙にべたべたする額の汗としてすでに現れだした。
いつの間にか日が傾き出しており、繊細な調度品で飾られた部屋は暗くなり始めていて、慎ましい小窓から入る光は赤らみだしている。
「お待たせいたしました」
アルヴェアー女史が応接室へ戻って来た。街着のローブに杖を携え、首には鉄筆。円錐の帽子を脱いでいる事以外は、外で会った時と変わらなかった。それが屋内にいるというのに不自然である。
彼女の他に入って来た者はいない。一人である。ゲルトはもちろん、家の物を物色していたアランニェ達も自分達の行動を取り繕う事も忘れて、疑惑の目で身構えている。
「伯爵ってのはどこだい」
アルヴェアーはゲルトの正面のソファーに座った後、
「じき、参ります。ご用件は先ほど伺いましたが、改めて聞かせてください。当家を訪問しようとした理由を」
「……俺達は、郵便馬車を襲った連中をとっ捕まえた。それで、盗まれた手紙を取り戻したんで、届けに来た」
こう言うゲルトの言葉を、アルヴェアーは一切口を利かず、噛みしめるように聞いている。何か重要な、今や彼女の中では明らかなものとなった事実を、齟齬が無いかどうか確かめているかのようだった。その事はゲルトにもありありと察して取れた。この女の態度はそれを微塵も隠そうとしていないのだ。まるで「もはや何を心配して、こんな連中に気を遣って見せる必要があるのか」とでも言わんばかりに。それがゲルトには解せず、不可解だった。ゲルトは無意識に茶を口と喉へ流し込んで湿らせていた。
事ここに至ってゲルト達は、自分達の行動に致命的な失敗があった可能性の存在を察し始めている。
なおも押し黙っているこの胡乱な魔術師へ向かって、よりはっきり言って聞かせてやろうと思って出した声は、隠しきれない不安を帯びて震えた。
「俺達は郵便馬車強盗の依頼を受け、解決した。何かおかしいか?」
「おかしいですねえ」
「ど、どこがおかしいって言うんだ?」
「だってそれは、我々ですから」
アルヴェアー女史の言葉は、一同を簡単に固まらせてしまった。クルツェ家の屋敷へ踏み込んだゲルト達の全員の顔色が悪くなった。特に元冒険者のゲルトと、まさに今それの扮装をしているズザンドーターは完全に生気を失っていた。冒険者に魔法使いは付き物なのだ。特にアルヴェアーのような服装の魔法使いは。
致命的な存在を前に、誰もが黙ってしまった。その静寂の中で、彼女だけが笑んでいた。
「改めまして、アルヴェアー・アルヴィンソンと申します。〈赤き戦斧亭〉所属の冒険者でして、普段は魔術師ギルドで日々精進に勤めながら細々とした事をして生計を立ててまして、今は魔導書の写本の内職なんかもしてますよ。
魔術の指南役のお役目の話は本当ですが、こちらのクルツェ家には抱えられてません。しかし他家で色々、市民階級生まれの家庭教師では教えられないような内容を指南していたのを、クルツェ家のご家令様がご存じでいらっしゃいましてね。その縁でちょっとお借りいただく事が出来たんです」
「か、借りるって、何のためだ?」
「それはもちろん、郵便馬車強盗を捕まえるための活動拠点としてですよ。
いや、これは我らが〈赤き戦斧亭〉の店主のご明察です。我々が事件現場ですとか、後は貸し馬車の駅を訪れて調べて回ってるとですね、金だけでなく小包が盗まれているのは分かるんですが――中身が高い物だったりしたら嬉しいでしょうからね――しかし小包でないただの手紙も、郵便袋から盗まれているのを見つけたんですよ。それをちょっと店主に話してみたら、店主は『きっと最初に強盗を働いた奴は、そろそろ模倣犯に辟易して手口を変える頃。もし別の手を考えるとしたら、手紙の住所と文面を元に金のある商家や貴族から強請りたかりを働くに違いない』と我々に推測してみせたんです。我々は街道で調査していて市中の模倣犯の情報は仕入れられていなかったので、目から鱗とはこの事でしたよ。店主様には頭が上がりません。
ともあれ、それで我々は、すぐに特別郵便一覧を参照して盗まれた手紙を導き出し、その宛先や差出人の家の最も多かった白緑町で見張りをする事にしたんです。そうすれば、ろくでなしの卑怯者共を待ち伏せできると踏んだんですよ。被害者の一人でいらっしゃるクルツェ伯爵は、見張りの拠点として二つ返事でお屋敷を貸して下さいました。今は皆さま全員で別荘の方へ――」
言い終わるのを律儀に待つ事無く、ゲルトの方から剣の柄へ素早く手を伸ばし、目にも止まらぬ速さで座ったまま女史の喉笛へ斬り付けようとした。
だがこれを予期していたアルヴェアー女史が杖を前に突き出した。切っ先は乾いた鋭い短音を立てて逸れる。
ゲルトが追撃するよりも先に彼女はそのままソファーの座面の上に飛び乗り、見た目より身軽な動きで背もたれを飛び越えてその裏へ身を隠した。
その音を合図にどやどやと何人も、応接室へ踏み込んできた。厚手の丈夫な布の服の上に麻のマント、革の腰帯という姿である。一人は片手剣と反対の手に大盾を構え、一人は腰ほどの高さしかない槍を長めのメイスのように振りかぶっている。一人が一瞬アルヴェアーと目を合わせた。
郵便馬車強盗を追捕せんとする、正規の冒険者達であった。
「畜生!」
アランニェが悪態をついた。と同時にいつの間にか懐から剃刀のように鋭利なナイフを抜いて逆手に構えている。それとほぼ同時に、後の冒険者崩れ達もだんびらを屋内で抜き放った。そのまま各々が剣を振り回し、目の前のアルヴェアー達〈本物〉へ斬りかからんと猛然と距離を詰める。
ところが、その勢いは唐突に失われた。
「しかし、まあ、今日は我々も卑怯という事ではあなた達に引けを取りません。先ほどのハーブティー、毒が盛ってあります」
アルヴェアーと他の一人が突き放すように、辛うじて彼らの元まで歩みを寄せる事の出来たアランニェの体を杖や盾で押し返した時、冒険者崩れ達は一様に腹を両手で押さえつけるように抱え、いっぺんに脂汗を顔中から噴き出し、苦悶の表情を浮かべる顔の上からカモシカの新生児のように力無く笑う膝の下まで全身を震えさせながら、体を〈く〉の字に不自然に折り曲げて濃紅の絨毯の上に重なって倒れだした。だんびらもまるで焚き火へ足される柴のように床へ落ちる。見てくれだけの杖を取り落としたズザンドーターが口の端から泡を吹いて崩れ落ちたはずみでテーブルが倒れ、上のティーカップが高い壊裂音を立てて割れた。
ゲルトは、つい先ほどまで自らが口をつけていたそれを、震えながら見ている。
「薬学は専門ではありませんが専門家並みでしてね、特にある特殊な技術体系や素材に明るいんです。これは決して死にはしません。が、並の苦しみではないでしょう? 私の傑作毒物ですよ。
あなた達は、何でしたか。飛脚問屋ギルドだか郵便ギルドだか何だかから依頼を請けたと言いましたがね。先日〈赤き戦斧亭〉にいらっしゃった依頼人代表のドゥーンクヴィスト様曰く、郵便制度の界隈では官民でいがみ合っていて、統合的なギルドは発足に至っていないらしいんですよ」
冒険者アルヴェアー達の顔はもはや勝負は決したりと言わんばかりで、口角が上がるのが抑えきれないでいた。
日はすっかり落ち、小窓から西日が一筋射している。両手長剣を今まで奪窃してきた郵便物と一緒に背負わせておいたロバがアルヴェアーの手の者に押収される様は、ここからでは見えない。
せっかく雇った手勢は毒薬で一網打尽、ズザンドーターとアランニェも板張りの上で溺れるようにもがいている。今や立っているのはゲルト一人。あとは、社会的破滅をもたらすべく取り囲む忌々しいお上の手先の冒険者共だ。
「強盗自らこの屋敷へ来てくれたのは重畳でしたよ。クルツェ伯爵が出した手紙を運んでいたのは初期に襲われた馬車です。あなたが最初に郵便馬車強盗を始めた奴ですね?」
「それが、どうした」
「そいつらはその時からの仲間ですか?」
この問いかけにゲルトは耳を貸さない。窮地を切り開く活路を何としてでも見出さんと、剣を正眼に構えて遮二無二アルヴェアーへと突っ込む。
その間に大盾の冒険者が割って入って行く手を塞いだ。すらりと背が高く、端麗な顔は中性的で、身に着けている革鎧も補強の鋼が輝かしく、武勲画になっても恥ずかしくない。大盾には妖精界を開闢した神々を示す四ツ石が白く染め抜かれている。
若きゲルトが吟遊詩人の歌をもとに夢想した、王都を凱旋する冒険者の姿そのものである。
それが彼を逆上させたかもしれない。
――畜生。どいつもこいつも、俺の邪魔をしやがって!
ゲルトは相手の右手側へゆっくりとずれ動きつつ、両手長剣の操法そのまま片手半剣を常に上下左右に揺らしつつ、大盾の冒険者が右手に構えるメイスの先端に切っ先がいつ掠め合うかという間合いを保っていたが、
――ここで一太刀で斬って、そのまま入口付近の奴を押しのけてやる!
機を見て瞬時にあえて左手側へ切り替えして飛び、大盾の外を巻くように強烈な右上段斬りを飛ばした。
しかし追い詰められた焦りと力みで剣先の動きは鈍く、その決死の一撃はまるで見切られていて、
「あっ……」
瞬時に大きくのけぞりつつ退がった冒険者の大盾の上部に切っ先はしかと受け止められた。
一般的に盾とは柔らかい木材で出来ているものであって、剣を強かに受け止めるとそのまま刃が突き刺さる事を期待してそう作られている。
ゲルトの剣もまた大盾の上部に切っ先が深々と食い込んでしまった。慌てて柄に力を込めて引き抜こうとするも、まるで抜き差し出来ない。慌てて今度は足を盾に突っ張って、刺さった剣を全身で引き抜こうとする。
その動きを見たアルヴェアーはすかさず口の中で複雑に絡み合った真言を唱え、白ブナの杖の先端に握りこぶしほどもある浮遊した赤い結晶を生成した。その次の瞬間にはすでに結晶はゲルトの胸板めがけて目にも止まらぬ速さで飛び去った後で、実際には盾にかじりつく彼の肩口へめり込んでいた。その強力な移動エネルギーは不安定な体勢のゲルトに踏ん張れるものではなく、彼の体を容易に吹き飛ばした。
ゲルトは板張りの床の上に倒されてなお己の劣勢を受け止め切る事無く、ただ生存本能と保身と反発のままに抵抗を続けようとし、瞬時に再び立ち上がって腿に鞘を固定したダガーの柄に手を掛けた。
戦闘で張り詰めていた彼の緊張の糸が、鋭く激しい痛みによって内側から切断されたのは、その時だった。ゲルトの体にも、毒薬がついに巡り始めたのだ。もの凄まじい刺すような痛みが、肉体の中枢から全器官に強烈に伝播した。臓器の全てを引き千切って暴れる雀蜂の暴風のような激痛で、意識が痺れ、薄れ、目の前が霞むほどだ。もはやこれ以上立っていられなかった。劇的な刺痛が居座り続ける腹部へ、戦闘態勢を維持できるだけの力は足からも奪われ、ほどなくゲルトもまた膝をついた。
ズザンドーターとアランニェ達が目の前でアルヴェアー一味によって一人一人麻縄で縛られ、衛視へ突き出すための用意が進められてゆく。
転倒した拍子に曲がって盾から抜け落ちた剣の横で、絨毯の上にうずくまって悶絶するゲルトの視界に辛うじて映ったのは、アルヴェアー・アルヴィンソンが〈赤き戦斧亭〉の同胞達と共に、彼を見下ろしているその目だった。
アルヴェアーは横の仲間二人が、腹を抱えたままのズザンドーターを引きずって部屋から連行し始めたのを確認すると、自分も束ねた麻縄を腰帯に吊った小袋から取り出しながらゲルトの手首をつかんで固く拘束した。
「畜生、畜生……」
「郵便馬車も貴族も食い物にしようとするとは、なんたる不逞の輩。公的な存在を侮蔑しているとしか思えません。さ、縛るから立って下さい。あなたはこれから本当に郵便馬車強盗の依頼を解決するんですよ」
もちろんアルヴェアーはこれをただの嫌味として言ったつもりだった。だがそれを聞いたゲルトにはふと思い出したものがあった。都会に飛び出してきたばかりの青年が夢見ていた、冒険者ゲルト・パッセマンの英雄譚の青い想像である。