第6話 莫迦な男の賭け (ロシュフォール視点)
セリスに会いに行くときにはいつも二つの花を持っていく。
一つは女児が戯れで作るシロツメクサの花冠。もう一つは数年前にセリスの名を冠した白バラ、レディセリスの花束。
セリスがシロツメクサを自分の花とするといったとき「どうしてそんな草を?」と聞いたことがあった。内緒と言って彼女は教えてくれなかったが……セリスの親友であり異国に嫁いだシャグラ王妃に指摘されるまで忘れていた自分が情けない。
セリスはグリーンヒル侯爵邸の裏にあるシロツメクサで覆われた丘が好きだった。その丘からは彼女が愛する両親が暮らす屋敷が見えて、よくあの丘で俺たちは遊んでいた。
シャグラ王妃に殴られた夜会のあと、俺は秘密裏にグリーンヒル侯爵邸を訪ねて丘に登った。小さな頃は大きかった丘は思ったよりも小さかった。
緑が広がる場所で少年と少女がシロツメクサの花冠を頭にのせて笑い声をあげる。それはどこにでもある風景だろうが、花冠を乗せていたのが少年の俺というのは珍しいだろうな。
俺は黒髪に花冠を乗せながら「男なのに」と不貞腐れていたはずだ。そんな俺を見ながらセリスは笑う。彼女のミルクティ色の髪が楽しそうに揺れていた。そして彼女は俺の手を取って言ったんだ。
――― 私、セリス・フォン・グリーンヒルはロシェ様を幸せにすることを誓います。
誓いの言葉に俺は驚いて、そんな俺にセリスは「返事は?」と首を傾げた。恥ずかしかった俺は「それは男が言うんだぞ」とムキになって言い返すしかできなかったのだけれど、そんな俺にセリスはおかしそうに笑った。
――― ロシェ様は私より泣き虫で弱虫ですもの。だから私が守ってあげますわ。
あの頃のセリスは男の俺より先に成長期を迎えていて、体の大きさを強さの象徴と考えていた子どもの俺はセリスより小さいことがひたすら悔しかった。
数歳上の貴族の男たちに小さい子ども扱いされた悔しさとは違う悔しさだった。
当時はどうしてあんな風に悔しかったのか理由が分からなかったが、今ならあの時の悔しさの理由がよく分かる。好きな子より小さくて、しかも守ってあげると言われるなんて男にとって屈辱でしかないのだ。
――― ロシェ様。
楽しそうに、屈託なく笑う彼女が好きだった。
「ごめんな、セリス」
シロツメクサの花のように広がった結晶の中で眠るセリスが俺の声にこたえることはない。
「好きだ……大好きだよ」
俺はセリスに一度も好きだと言ったことがない。だから、好きだと言ったら彼女がどんな反応をするのか想像することもできない。
ただ、信じられないと言うだろうとは思っている。
俺は彼女への恋心を否定しようとした。
そして実に愚かな真似をした。
十四歳のとき、俺の婚約者候補の一人としてセリスが城で過ごすようになった。
腕白な彼女は規格外の令嬢だと思っていたが、知識欲が強くて真面目な性格をしていたセリスはあっという間に淑女になった。
この頃、俺はようやく背が伸び始めたことに安堵していた。セリスは「まだ私の方が」とムキになり、背を抜いたばかりのときは馬のしっぽのように頭上で紙を結んで背を高く見せるなんて悪足掻きしていたが、やがてセリスの俺を映す目が少し変わったことに気づいた。
背が伸びて守ってあげたい感じが薄れたことでセリスは俺を「男」として見るようになった。そして俺もセリスを「女」として意識するようになった。
幼い感じが薄れたセリスは瑞々しく爽やかな色香を放っていて、それが俺は気になって堪らなかった。セリスにだけ感じるモヤモヤ。
もしあの頃に戻れるなら俺は俺を殴り飛ばして自分の恋心と、男としてセリスに欲情していることを自覚させただろう。残念ながらそんな導きがなかった当時の俺はセリスを見て感じるモヤモヤが不快だった。
モヤモヤがなぜ不快だったか。
俺の器を作った二人が性に貪欲で奔放だったため、幼い頃から男女の濡れ場に遭遇することが多々あった。神の許しなく獣のように交わり合う男女。すかさず侍女や侍従がやってきて「見てはいけません」とでも言うように彼らを俺から隠す。情欲は汚らわしい、いけないことと感じるのに十分だった。
そんな情をセリスに対して抱いているなど当時の俺には到底認められるものではなく、俺はセリスと二人になることを徹底的に避けた。
セリスは勘がいい。俺の態度から距離を置きたがっていることを察したのだろう。セリスは俺に理由を問うことなく、セリスのほうからも俺と距離をとるようになった。幼い頃から呼ばれていた「ロシェ」の愛称は消え、彼女は俺を「ロシュフォール様」と呼ぶようになった。
この頃すでに俺の婚約者候補はセリスしかいなかったが、俺とセリスの間に距離が生まれたことで周りは婚約者の選び直しを期待した。そして彼らは娘を城に連れてきては、何かしら口実を設けて俺に接近させてきた。
一番狙われたのがセリスとのお茶の時間だった。
セリスと二人になることは気まずかったものの、婚約者候補との交流として週に一回数時間の茶の時間を設けていた名残だったのでズルズルと続けていた。黙って、少し視線を逸らしながら茶を飲む俺たちの間に割り込むチャンスがあると思ったのは当然だろう。
無遠慮に割り込んでくる女たちに不愉快だったが、咎めたらセリスと二人でいたかったと言うようなものだと思うと言えず、俺は彼女たちの邪魔を喜んだ振りをして受け入れ続けた。
不機嫌を隠すため、騒がしい彼女たちと取り止めのない会話に適当に相槌を打った。セリスとは碌に会話もしないのに、人が変わったように楽しく彼女たちと話す俺を見てセリスが誤解するのは当然だった。
やり方を間違えたのだと気づいたのはセリスの十六歳の誕生日だった。
誕生日なのだからとよく分からない理由をつけて、この日は誰にも割り込ませないようにと侍従たちに言いつけた。そしてそわそわしながらセリスが来るのを待っていたのだが、侍女に案内されて現れたセリスの髪型に驚いた。いつも垂らされてふわふわ揺れていた髪がきっちりと、後れ毛ひとつなく綺麗にまとめられていたのだ。
――― 殿下、本日はお招きありがとうございます。
セリスに殿下と呼ばれたのは初めてだった。あまりの衝撃にこの日の茶の席で何を話したのか全く覚えていないが、最後に「殿下もお忙しいでしょうから」と前置かれて今後は茶を共にしなくても結構だとセリスに言われた。
俺はセリスと二人でお茶を飲む時間が好きだったのに。
なぜ「楽しい」の一言もいわなかったのだろう。
風に揺れる彼女のミルクティ色の長い髪を見てるだけで幸せな気分だったのに。
なぜ笑顔の一つも向けなかったのだろう。
どうしていいのか分からないまま何もできず、セリスの笑顔どころか顔すらも見ない時間がどんどん延びていった頃に俺たちは成人の儀を迎えた。成人の儀は天神の力が最も高まると言われる夏至の日に、その年に十六歳になる生徒が学院の講堂に集められて行われた。
神力は遺伝的な要素も大きい。ローナの血を持つ俺はひそかに神力が使えることを期待されたが、鑑定結果は「神力なし」だった。ローナから引き継ぐものなど何も欲しくなかったから良かったと思う。
王子の俺がいたからか先に男子生徒が鑑定され、自分に神力があることに喜ぶ何人かの声を聴きながら講堂を出た。いつもと違うから誰一人として教室に戻る気配はなく、神力や天獣の加護を持つと分かった者を囲んで騒いでいると講堂から大きな声があがった。
俺のもとに城の騎士が走ってきて、彼女はセリスの護衛騎士だから嫌な予感がしたことを今でも覚えいている。
「聖女だと言われて、君は泣きそうな顔をしていたな」
動揺する彼女に駆け寄って、俺に気づいたセリスが真っ先に言ったことが「申し訳ありません」という謝罪だった。どうしてあのときセリスが謝罪をしたのかはもう分っている。
――― 陛下が私のことを嫌っていることは分かっております。
子が無事に生まれた喜びに浸る間もなくセリスにそう言われ、驚きのあまり否定の言葉さえ浮かばず頭を真っ白にしていた俺のもとにスタンピードの知らせが届いた。
それを逃げ道として、彼女の言葉を否定しなかったことを俺は心底悔やんでいる。
セリスが眠ったあと、俺は祖母に頼んで国とオスカーを預けて天竜が棲むという山に向かった。天獣はその住処を公にしないが、知的好奇心があり好戦的な天竜は自分の住処を公にして「加護が欲しくば我に挑戦せよ」と言っていることは有名だった。
最強の天獣である天竜の加護が与えられるものは数百年に一人。そのため勝って加護を与えられるということは最強の騎士の称号であるのだが、俺が欲しかったのはそんな称号ではなく加護によって得られる長寿だった。
過去の文献に天竜の加護を与えられた者は二十年ほど寿命が長くなるとあった。実際に加護を与えられて分かったのだが、どうやら体内の時間がゆっくりになるようだ。
俺はこの長寿に賭けている。
一秒でも長く生きられればセリスと再会できるかもしれない。俺は彼女の風に揺れるミルクティ色の髪を見ながら、ただ一言「好きだ」と告げてから死にたい。