第18話 (ロシュフォール視点)
気が狂って聖女でなくなったら俺に捨てられる。
セリスの頬にあてた手が濡れ泣いていると気づくと俺はまたセリスに口づけていた。
「……ごめん、本当にごめん……セリス、愛している」
「それは私が聖女だか……」
「聖女だからじゃない、ずっと君が好きだった」
セリスは「嘘」と呟きながら耳を塞ぐ。
あのとき「仕方がない」と言った臆病者の俺の言葉はセリスに届かない。
でも、届かないからとまた言わないでいたら駄目だ。
「セリス、俺が君を避けるようになったのは君に劣情を抱いたからだ」
「れつ、じょう?」
「君に欲情したんだ」
セリスが俺の腕の中で「よくじょう」と復唱する。
最初はぼんやりとしていたけれど、理解が追いついたらしくセリスの体が固くなる。
「俺は、それがとても汚らわしいことに思えた。ローナたちが愛人たちと戯れるのを子どもの頃から何度も目にしていたから、俺にとって男女の交わりは醜いものだったんだ」
それなのにセリスに欲情した。
「君以外には何も感じなかったから、だから君だけ避ければいいと思った。君に欲を抱いていると知られたら軽蔑される。俺は君に嫌われたくなかった。だから……セリス、初めて会ったときから、君だけが好きだった」
信じて、という気持ちで俺はセリスの目元に口づけを落とす。
セリスの涙に触れて、俺は後悔を味わう。
セリスは「嘘」とは言わなかった。
「いつ君のことが好きになったのか、分からないくらい昔のことだったから、これが世にいう『好き』だと気づくのが遅くて……どうして気づかなかったんだろう。君に名前で呼ばれなくなって、あんなに寂しかったのに……君より背が低いのが、あんなに悔しかったのに」
セリスが俺の顔を見て、頭のほうに視線を移して、「背?」と首を傾げる。
「悔しかったんですか?」
「悔しかった。お祖母様には女の子のほうが成長が早いだけだと笑われたけれど、悔しくて毎日牛乳を一瓶飲んだ。最初の頃はよくそれでお腹を壊していた」
思い返せば、小さな男のプライドに固執して馬鹿なことをする恋する男そのものではないか。
「君とお茶をしているとき、他の女の子に乱入されるのは嫌だった。腹立たしくもあった。だけど、そう言ったら君と二人でいたいと言うようなものだから、黙っていた」
「彼女たちと楽しくお話していたのに」
「そう見えるように頑張った」
二人でいるのは気まずいけれど、セリスといたい。そのことから、格好悪くて、酷いことをしてしまった。二人きりを避けるにしても、もう少し格好いいやり方はなかったのだろうかと何度も後悔した。
「陛下は、馬鹿です」
「うん、馬鹿だな」
まだ呼び方は『陛下』だけれどセリスが俺を馬鹿だと言った。
幼い頃、セリスは俺に口喧嘩で勝てないとなると目にうっすらと涙を浮かべて「ロシェ様の馬鹿」と言た。そのあと決まって王子である俺にいけない言葉を使ったと後悔するのだけれど、生来の負けん気がそうさせるのか負け惜しみの「馬鹿」は俺が他の女の子と仲良くするまで耳にしていた。
久し振りに聞いた「馬鹿」。
馬鹿と言われたことを喜びたくなるのは俺くらいに違いない。
「俺が君に嫌なことをしたら、馬鹿と言って怒ってくれ」
「それは……引っ叩いてしまうかもしれませんよ」
「懐かしいな」
そう言えば「ロシェ様の馬鹿」と言いながらセリスは俺を叩くこともあったっけ。癇癪で、どうしていいのか分からない気持ちで叩いてきたんだと思うけれど、そんなとき俺は―――。
「痛っ」
セリスの悲鳴に俺はハッと体の動きを止める。そして自分が無意識にセリスの髪を撫でていたことに気づく。
「髪が……」
「髪?」
「何かに……恐らく袖口のボタンかなにかに絡まってしまったかと」
手探りで袖口を探れば、確かにボタンに髪が絡まっている様だった。
「取れますか?」
「暗くて無理だ」
背中のほうでのことなのでセリスが俺にどうかしてほしいと頼むのは分かるが、俺は暗さを理由に却下する。実際はボタンを取ってしまえば髪を放すことはできるが、セリスのふわふわとした髪を放したくなかった。
「陛下?」
「オスカーの髪に似ている」
「え? あ、ああ、そうですね」
オスカーの髪の黒色は俺譲りだが、髪質は柔らかくセリスの髪と同じくふわふわしている。
「君の髪が風でふわふわと揺れるのを見るのが好きだったよ。このミルクティ色の髪が日に透けると金色の輝いて、まるで妖精か女神のようで……」
「あの、見えているのでしたら取って……」
「見えていない」
セリスが離れようとしたから、俺はセリスの髪をつまんで軽く引っ張る。
「さっきよりももっと絡まった気がするのですが」
「それなら尚更取るのは無理だ」
「でも見えて、茶色い髪だって……」
「ミルクティ色。君の綺麗な髪が、髪を揺らす君の姿が、俺の脳に焼きついているだけ。想像できるだけ……セリス?」
離れようとしていたセリスが何故かくっついてきた。
いや、それは嬉しいのだけれど。
「なんでそんな恥ずかしいことを平気で」
セリスが俺の胸に顔を埋めている。本人は照れた顔を隠しているつもりかもしれないけれど、そんな仕草は可愛いだけだ。
「暗いおかげ、かな」
暗闇に感謝する。
情けない顔を見られることもないし、彼女の顔を見て言葉を選んでしまうこともない。
「君と話をするために天竜のところまで言ったというのに、君の顔を見たら話せないとは情けないが」
「え?」
セリスが驚いた声を上げた。
「俺が天竜の加護をもらったのは国のためじゃない。加護の副産物である長寿を手に入れて、君にまた会いたかったんだ。まだだ。俺が君を嫌いだなんて、誤解されたままは嫌だった。君に好きだと言うまで死にたくなかった」
同じ国に生まれたセリスならば、天竜の加護の条件は分かっているはず。それがどんなに難しいことかも。
「そんな無茶を……一国の王が、なんて馬鹿なことを」
馬鹿だという癖に、縋るようにまた胸に顔を埋めてくるセリスが可愛くて、愛おしい……さて、話すか。
「セリス、マチルダのことを話したい」
セリスの体がふるりと震えた。
「まず、彼女は俺の恋人でも何でもない。好きどころか、嫌悪している」
「え?」
どんな表情をしているのかは想像だけれど、驚いた声の中に猜疑的な響きがあったから俺の言葉を信じ切れていないだろう。
「鑑定した子どもは、俺の子どもである可能性もあった。でも、それは、意図したことではなくて……」
当時のことを思い出すと、腹立たしさとか屈辱とか無力感で言葉が詰まる。
「避妊に失敗……」
「いや、そうではなく……俺は、成人する少し前に閨教育を受けた。国のしきたりだ。日程も、指南役も全て議会で決められるもので、婚礼の儀の一つでもある」
セリスは少し間をおき「存じております」と言った。
「閨教育の日、俺の指南役だったのが彼女だった。もちろん議会が彼女を指南役に認めたわけではない。俺の本当の指南役は彼女の従姉で、彼女は従姉と共謀してあの場に現れた」
セリスは黙ったままだった。
貴族令嬢どころか人間として非常識極まりない行動に驚き戸惑っているとも考えられるが、俺の胸に添えられたセリスの手に力が籠ったことから驚き以外にも何かを感じているように思えた。
「言いたいことは言ってくれ……我慢しないで」
俺の言葉にセリスは迷う雰囲気を漂わせたあと「分からなかったのか?」と疑問を口にした。
俺の言葉を信じ切れないことを申し訳なく思っているようだが、思ったことを口にしてくれて俺は嬉しかった。
「全く。内容が内容だけにプライベートなことに感じるかもしれないが、俺にとってはダンスのレッスンと変わらなかった。講師にだって関心はなかった……いや、多少はあったかな。本当の講師はルディル子爵夫人だったし」
「ルディル子爵夫人……先王陛下の愛妾だった、あの方ですか?」
「そう。お祖母様の問いに対し、子爵夫人はただ俺を慕っているという従妹に一夜の夢をみさせてあげたかったと答えたらしい……そんなことを言う者の企みにまんまとのせられるとは……」
子爵夫人だけの企みではない、あの背後には先王がいた。
そう思うといつも頭の中がじわりと熱くなる。
「……君だけには知られたくなかった」
できれば墓場まで持っていきたかったこと。
口にして、身を焦がす怒りと同時に、セリスの前から消えてしまいたいと思うような恥ずかしさを感じて、俺の頭に浮かんだのは性暴力の被害者の女性たち。彼女たちは被害者なのに、「知られたくない」とまるで自分が悪いことをしたように恥じいっていた。
自分は男で、王子で、体も鍛えていて……だからこそ、恥ずかしかった。
セリスは何も言わないまま俺に寄り添ってくれていた。
その温もりに、俺のシャツが薄っすら濡れる感触に、脳の熱がじわじわと冷めていった。
「俺は、このことをなかったことにすると決めた。貴族会議の決定を侮辱するような真似でもあるし……黙っていれば、君に知られることはないと思った。事後処理の協力を頼む必要があったからハディルにだけは話したが、あいつも同じ意見だった」
俺の口調から、俺が落ち着いていることが分かったのか、セリスは少し体を離した。
ぐすっと鼻をすする音は聞かなかったことにした。
「しばらくしてマチルダから妊娠したと言われた。閨教育で体を機能させるために用意される薬酒には避妊の効果があるから俺の子である確率は低かったがゼロではない。俺たちの手には負えない、そう思ってお祖母様に相談した。お祖母様は子爵夫人を罰したが、王家の子である可能性もあることからマチルダの処罰は延期してご自分の宮で秘密裏に出産させるとマチルダを引き受けてくださった」
有力貴族カールトン侯爵家の令嬢であるセリスを婚約者に迎える俺が男爵令嬢のマチルダを孕ませるなど国家を揺るがす醜聞。だからこそお祖母様は「行儀見習い」と称してマチルダを軟禁したというのに、マチルダの父親は愚かにもそのことを周りに吹聴した。
事情を話せないため俺もお祖母様も「一時的に預かっているだけ」と言い続けたが、縁もゆかりもない相手を一時的に預かるのは不自然極まりない。
しかも宮の使用人からマチルダの妊娠も周りに知られ、いくつもの噂をばらまいても俺とマチルダの噂は消えず、結果として何も弁明することなく事態が収拾できるようマチルダの腹の子が俺の子ではないことを二人で真剣に願うしかできなかった。
「マチルダの子であるサブリナは神殿の鑑定通り先王の娘だ」
「……偽証したという話は?」
「事実無根。サブリナが俺に似ているのは異母妹だからだ」
他にはないかと促すように尋ねれば、セリスが妊娠中に俺の執務室でマチルダに遭遇したことを話してくれた。
「サブリナ王女に陛下が会いたがっていると……」
「あの二人といてまともに養育されているか心配だっただけだ。定期的に様子を見ておこうと思っただけで、乳母に連れてくるように命じてマチルダは呼んでいない」
絡まった糸を解すように、俺の質問にセリスが答え、セリスの質問に俺が答える。
暗闇のおかげで言いにくいことも言えた。
「これからは、ちゃんと話そう」
「はい」
約束するというように、セリスの腕が俺の背中に回る。俺も、セリスの背中に回した腕に力を籠めたとき―――。
『もしもーし』
!!??
セリスが悲鳴を上げて俺を突っぱねて離れようとするから、俺は慌ててセリスを抱き込む。「陛下!」とセリスの抗議する声が聞こえたが、どんな表情をしているか分からないけれど、もしかしたらとても可愛い顔をしているかもしれないセリスを天竜なんかに見せるつもりはなかった。
『お前、加護する天獣を”なんか”って……まあ、いいか。いいところで悪いんだけど、そろそろ限界。聖女の力があっちからこっちに移ってくるぞ、嫁、覚悟はいいか?』
覚悟……その言葉に俺はセリスの体を抱く腕に力を籠めた。




