第17話 (セリス視点)
何かが割れた音と同時に大きな何かが体の中心から膨れ上がる。頭に浮かぶのはどれも覚えのあること。
これは私の記憶だと理解すると同時に息が詰まった。
思い出すことに私がついていけない。
衝撃で瞬きの仕方も、呼吸の仕方も、分からない。
目が痛い、喉が苦しい。
誰か、助けて―――。
「……っ」
唇に何かが掠めたのを感じた瞬間、唇を塞がれる。その感触に体が一斉に感触を思い出したのか、大きな手がゆっくりと背中を撫でていることに気づいた。
この手を、思い出した。
――― 落ち着いて、ゆっくり息を吸うんだ。
初夜の床で、初めてのことに恐怖した私の背を撫でてこわばりを解し、優しく声をかけて宥めてくれた。久し振りの、優しい声。幼い頃に蛙のいる穴に手を突っ込んだ私の周りをうろうろしながら、おっかなびっくりとかけられた声と同じだった。
なんでこんなときに初夜の床を思い出したのか。
自分はそんなにはしたないのかと思ったけれど、陛下とこうして口づけするのはもちろん、触れ合うことは数えるほどしかない上に全て閨でのことだった。
幼い頃はよく一緒に過ごしていたけれど、陛下の婚約者候補に選ばれて暫くすると一緒に過ごすことがなくなった。
最初は能天気に他の候補者と公平にするためかなと思ったけれど、私には「忙しい」と言ったのに他の婚約者候補の子たちとは一緒にいる。他の女の子といる陛下を見てもやっとした。そこにいたのは私の知らない男の子だった。
何か気に障るようなことをしてしまったのかと、鈍感な振りをして聞いてもよかったけれど、聞く必要はないなとも思った。
聞いても仕方がないから。
「違う」と言われても信じられないし、「そうだ」と言われても王太子の婚約者争いを失恋を理由に辞退などできない。
モヤモヤしつつ、未練たらしく初恋に縋りついていたら婚約者候補が私一人だけになった。
それでも陛下は私を婚約者にしなかった。
どうしてかも聞いていない。
聞いても仕方がないから。
「もう少し遊びたい」と言われても複雑な気分になるし、私では嫌だと言われても他にもう婚約者候補はいないから。仕方がないから諦めてくださいなんて、私から言うのは惨めだ。
――― もうしばらく婚約者候補でいてほしい。
成人の儀はもう目と鼻の先でそう言われた。ここでようやく気付いたのは、陛下には想い人がいるということ。その可能性にそれまで気づかなかった自分の鈍感さに自分で呆れた。
そのことをシャグラに相談したら、陛下と結婚しないなら一緒に異国に行こうと誘ってくれた。
シャグラはお母様が国唯一の公爵家出身で、国交の為に政略で異国に嫁ぐことが幼い頃から決まっていた。
それもいいと思った。
婚約者に内定した私が他の男性と結婚できるとは思えなかったし、頑固の自覚がある私が陛下をチラチラと視界に入れながら他の誰かに恋をできるとは思えなかった。
でも事態は成人の儀で急転した。
私が聖女だと鑑定されてしまった。
手のひらを返したように周りが、そして陛下が、私を陛下の婚約者にすることを認めた。
――― 仕方がないだろう。
陛下はそう言った。
それまで陛下は私のことを好きではなくても、嫌いでもなかったと思う。
でも「仕方ない」という言葉で、陛下に仕方がない選択をさせた私は嫌われた。
私はずっと私のまま、何も変わらないのに。
周りはどんどん私を見る目を変えていく。
成人したら直ぐに陛下が国王になることは決まっていたから、婚約者になると直ぐに私は残りの王妃教育を受けた。私は王家の裏の裏も知り、私は王妃になる以外の道を塞がれた。
私を排して想い人を娶る方法もあったかもしれないが、父カールトン侯爵を回すほど王家に力はない。
国の安寧に個人の好き嫌いなど意味がない。
政略結婚とはそういうものだ。
陛下の想い人がマチルダ様ということは直ぐに分かった。
彼女の父親が、マチルダ様が王太后宮の行儀見習いになったことをそこかしこで吹聴していたから。
下位貴族の令嬢は、そのままでは国王の側妃にはなれない。
側妃になるには侯爵以上の家の養女になるか、行儀見習いとして城にあがり女性王族の後ろ盾を得るか。
王太后陛下は「一時的に預かっているだけ」と行儀見習いの線を否定したが人の口には戸が立てられない。マチルダ様が妊娠していて、王太后陛下は陛下に頼まれて彼女を保護したというのだ。
それを聞き、正妃となる自分を娶る前に愛人を妊娠させるなんて馬鹿にしているのかという怒りよりも、虚しかった。
陛下は私を警戒していた。
だから王太后宮で保護した。
王太后宮は私とカールトン侯爵家が唯一手を出せない場所だから。
陛下にとって私はそんな女なのか。
それならば、その希望通りマチルダ様を害してみようかと思った。
カールトン侯爵令嬢の私にはできなくても、聖女の私にはできる。
すぐにそんな考えは捨てたが、そんな風に考えた自分に私はゾッとした。
醜い嫉妬に染まってはいけない。
そう思うのに、陰謀渦巻く城内には私をよく思わない者は多く、彼らは私に聞こえるように噂話をする。
陛下は王太后宮に頻繁に出入りをしているらしい。
最近の陛下は常にイライラしている。
王太后宮で陛下は誰に会っているのでしょうね。
陛下がイライラしている理由は何かしら。
マチルダ様が御子を産んだ日、城内はいつもと違った。
城で子どもが産まれるのだ、当然だ。
私は必死で気にしていない振りをした。
陛下がどこにいるのかも尋ねず、いつも通り王妃教育を受けていた。
夜遅く、珍しく陛下に呼び出された。
執務室にいると王太后陛下もいて、二人とも疲れた顔をしていた。
どう言っていいか分かり兼ねているような二人の素振りに気づかない振りをして、呼び出された理由に全く心当たりのない振りをして、私は笑顔で陛下の言葉を待った。
陛下の口から語られたのは意外なこと。
驚いたことに、マチルダ様が産んだのは先王陛下の御子だという。
――― 鑑定をしたが、俺の子ではなかった。
そういう陛下に、歪みそうになった口元を私は扇子で隠した。
悪意ある者たちの噂で回ってくる点を除けば陛下も王太后陛下も上手にマチルダ様のことを隠していたのに、彼らはここにきて油断した。
鑑定をしたということは、陛下とマチルダ様はそういう関係だったのだ。
マチルダ様の産んだ御子が先王陛下の御子だと聞いたとき、陛下とマチルダ様の噂は嘘だったのかと一瞬でも喜んだ自分を私は恥じた。惨めだった。
そのあとの会話は、あまりよく覚えていない。
ただ決定事項のように話すから、ただ「是」というだけですんだのは幸いだった。
先王の御子を産んだマチルダ様は特例で先王陛下の側妃になった。
マチルダ様の産んだ御子、王女殿下は先王の庶子として認められた。
王女である点は良かった。
王子だったら王位継承権に関わる。
多くの愛人を抱える先王陛下だが、御子は聖女ローナ様が産んだ陛下のみ。
そのことから一応は「先王陛下も聖女ローナ様を気遣っている」と言える状態が維持されていたのだ、王女殿下の存在は公然の秘密扱いとなった。
そして多くの者が私に好奇心と猜疑心の籠った目を向けるようになった。
――― 聖女様が陛下が御子の父親であることは許さないと言ったそうよ。
この噂を聞いて、周りの猜疑心の理由を知った。
彼らは私が聖女の立場を盾にして、王女殿下の父親を陛下以外にするように迫ったと思っているのだ。
私をなんだと思っているのだろう。
溜め息と同時に答えは出てくる。
私は聖女だ。
聖女ローナ様が聖女の仕事を嫌がっていたため実質聖女は私一人。
魔獣との戦の要であり、いつか起きるスタンピードの被害を大きく左右するのが聖女の力。
聖女の気分を害さないように神殿の鑑定結果を捻じ曲げた。
真実味があった。
マチルダ様が王太后宮で保護されていたのは事実。
陛下が王太后宮に頻繁に出入りをしたことも事実。
陛下がイライラしているのも事実。
王女殿下の本当の父親は誰か。
幾度となく問い質そうとしたが、そのたびに諦観が止めた。
誰が父親であっても、それは陛下とマチルダ様の問題。
仮にマチルダ様が先王陛下と関係を持ち、それで陛下がマチルダ様に幻滅したとしても、陛下が私を好きになるわけではない。ただ嫌いな女が増えただけだろう。
陛下との結婚生活は、意外なことに穏やかだった。
夫となった陛下は小まめに花を贈ってくれたり、公式の場に出るときの為に宝飾品を贈ってくれたりした。情熱的ではないもの、時折優しい気遣いをみせることもあった。
それに何も感じないわけではない。
この急な態度の変化は、後ろめたさじゃないかという勘繰る気持ちが何度も湧いた。
でも、そう言っても何にもならない。
喧嘩三昧の日々よりも、穏やかな結婚生活のほうが望ましい。
何ごともなく、まるで愛する妻に接するようにふるまう陛下に感謝した。
シュバルツ国王と聖女が仲睦まじいことを世界が歓迎するのだから尚更だった。
でも陛下の手が触れるたびに、私でいいのかという卑屈な思いが止められなかった。
私との子作りは義務で、仕方がないと思っているのだろうなと思うと空しかった。
結婚して一年とちょっと、私の妊娠が分かった。
国王と聖女の子、国の後継ぎが生まれると言うことで国中がお祭り騒ぎになったが、私は悪阻で寝込むことが増えた。陛下は小まめに様子を見にきてくれた。
悪阻で食べ物はもちろん飲み物も受け付けない。
こんな地獄がいつまで続くのかと思ったが、ある日気持ち悪さが嘘のように消えた。
城の廊下をスキップしたいくらい高揚した気持ちになり、浮かれ気分で陛下の執務室にいくことに決めた。無計画なこの衝動が、私を現実に突き落とした。
陛下の執務室に行くと、陛下は不在で、マチルダ様がいた。
彼女は陛下によく似た女の子を抱いていた。
思いがけない事態に驚く私とは対照的に、マチルダ様は落ち着いていた。
――― 陛下なら、つい先ほど宰相閣下に呼ばれていきましたが。
あなたはなぜここに?
どうして、当たり前のようにこの部屋にいるの?
口から出たら惨めな気分になる。
私は必死で口を噤んだ。
――― 子どもに会いたいと陛下に呼ばれたのです。セリス様にも御子が生まれたら、こうして連れてくるのも憚られるので。
私「にも」。
この瞬間、体の中心に何かがドロリと絡みついた気がした。
ぼんやりとした脳に『邪魔だ』と響く。
この女は邪魔だ。
この女がいなくなれば、陛下はその目に私だけを映して、私だけを愛してくれるだろう。
あの子どもも邪魔だ。
見ているだけで気分が悪い子ども、陛下の子どもは私のお腹にいるこの子だけでいい。
邪魔だと思う黒い気持ちが全身に広がりかけたとき、ダメだと思った。
このままここにいては危険だから、私は逃げるように執務室を出た。
あの日から私の中には二人の私がいるようだった。
聖女に相応しい私と、聖女に相応しくない私。
聖女に相応しくない私を陛下に知られてはいけない。
知られるのは怖い。
愛されていなくてもいいからせめて陛下の傍にいたいと、報われない愛に泣く私を嘲笑う私はとても醜い顔をしていた。




