第9話 誤解と後悔 (ロシュフォール視点)
マチルダの産んだ子どもは俺の子どもではなかった。
俺に妊娠したと告げたマチルダは即刻お祖母様の監視下に入り、学院は休学という形で彼女は出産までお祖母様の宮で生活することになった。
このことは秘密裏にすすめた。
マチルダの身を一時預かるため、父マルソー男爵にはマチルダとルディル子爵夫人がやらかしたことを説明したうえで娘を城で預かると説明したのだが、彼は娘が俺の相手を務めて妊娠したところだけを都合よく抜き取り盛大に勘違いした。
王族を謀ったことに恐れ慄き口を噤むのが普通。その普通が通じない者がいるなど考えず、俺も祖母もマルソー男爵にさほど注意を払っていなかった。そしてマルソー男爵がある夜会で「娘は行儀見習いで城にいる」と吹聴していると報告を受けたときに仰天した。
行儀見習い。それは妻以外の者がその家に入るための便宜的な立場、それが王族ならば側妃として迎え入れたという意味になる。
男爵の娘を側妃にするなど国に利がないため笑い話にしかならないもの。しかしセリス自身やグリーンヒル侯爵家をよく思わない者やマチルダにすり寄って甘い汁を吸おうとする者たちによって噂はたちまち広がった。
俺はその噂を消そう様々な噂をかぶせて火消しを試みたが、お祖母様の宮にマチルダがいることは事実なため上手に火が消えなかった。しかし、マチルダと子爵夫人のことはいえない。八方ふさがりの心境で俺は口を噤み、セリスの物言いたげな視線から目を逸らした。
その最中、マチルダが予定日より二月も早く子どもを産んだ。
子どは平均的な体重の赤子、つまり早産とは考えられず俺と関係を持ったとき既に妊娠していた可能性が高いというのが医師の見立てだった。
しかし妙に俺に似ていて、もしやと思ったお祖母様は先王にマチルダとの関係を尋ねた。すると彼は呆気らかんとマチルダと関係を持ったことを認めた。そうしてマチルダは例外的に先王の側妃となり、彼女が産んだ娘と共に先王が暮らす宮で暮らすことになった。
予想外ではあったが俺としてはマチルダの子が俺の子ではなくて良かったの一言に尽きた。
自分や王家の恥部をすすんで晒す必要はない。狡い俺はやはり考えを改めることなく、それどころか肩の荷が下りたとばかりに正々とした気持ちでセリスとの結婚と向き合った。
特に理由なく婚約を延長させようとしたこと。
結婚の準備に気持ちが入っていなかったこと。
どれもセリスには筒抜けで、俺が結婚に乗り気ではないとセリスが誤解するには十分な態度をとってしまっていた。
そして俺はマチルダとのことをセリスに隠せていると思っていたが、セリスは俺がマチルダと関係を持ったことを知っていた。
セリスが俺とマチルダの関係を問い質したのはオスカーを産んだ日。
スタンピードが起きた日。
あの日まで知っているなど微塵も想像していなかった。
俺にとってセリスとの結婚生活は幸せでしかなかった。俺とセリスの結婚は国民たちに歓迎され、聡明なセリスは理想的な王妃として俺を力強く支えてくれた。
国政は課題だらけだったからセリスと夫婦として過ごす時間は少なかったが、「そろそろ後継ぎが……」と誰かが言い出した頃にセリスの懐妊が分かった。子は授かりものだと分かっているが、王は子を授からねばならない。懐妊したことでその責任の大半を果たせたと俺は安堵した。
腹の子に優しく語り掛けるセリスを一番近くで見られることが何よりも幸せだった。
セリスが懐妊したことで国内の不穏分子が活発化したが、ハディルと共に徹底的に奴らを排除してセリスの平穏を守り続けた。
皆の期待と希望を一身に受けながらセリスはオスカーを産んだ。あのとき廊下で聞いた産声を俺は一生忘れることはないだろう。焦れながら一刻ほど待ち、産婆たちの許しを得て産室に入るとセリスが丸めた布を抱いていた。「抱いてみますか?」と問われて初めてその塊が赤子だと分かった。
俺の腕に抱かれたオスカーは想像よりも小さくて軽かったが、その存在はとても重かった。この子と、そしてセリスのためなら何でもできるという気になった。
――― お願いがあります。
だからセリスの言葉は渡りに船。必ず応えて見せようと気合いを入れた俺にセリスが願ったことはオスカーと共に南の離宮で暮らしたいというものだった。
その言葉の意味を俺は理解できなかった。あまりにも意外すぎて「なぜ?」という問いかけも浮かばないほどだった。そのくらいセリスのお願いは思いもよらない事だった。
――― 陛下が私のことを嫌っていることは分かっております。
セリスの口から出る言葉は意外なこと過ぎて、かえって反応ができなかった。
セリスは言う、聖女だったから俺は我慢して彼女と結婚したのだと。セリス以外の女が子を産むと国内が荒れるから俺は仕方なく彼女に子を産ませたのだと。セリスが子を産んだら、俺は本当に愛する女性を今度こそ自分の側妃として召し上げるつもりだと。
――― そんな女いない!
不実を責められた気がして、セリスへの恋心を否定するために他の令嬢たちと懇意にしていた卑怯さを指摘された気がして、カッとしてそんなことを言った。それより先に気づくべきことがあったのに。
俺が誰かを愛しているかのようなセリスの言葉に、俺は気づくべきだった。
――― ずっと、陛下をお慕いしておりました。
だから愛されなくてもいいと、セリスは自分に嘘を吐いていたという。
彼女に微笑みかけると想像しただけで胸が潰れるのだと。
彼女に愛を囁くとその口を塞ぎたいと思ってしまう。
彼女とは誰だと、問い質す言葉をセリスの目から零れた涙が喉でせき止める。
――― このままここで貴方の愛を求めて彷徨う亡霊になりたくない。
彼女が憎らしいのです。
自分を愛してくれないならば俺を殺そうかとも思った、と。
――― 私は私のために、家族のために、この子のために、狂うわけにいきません。
狂ったように「お願い」と「離宮に行かせてくれ」と訴えるセリスは俺の言葉をもう聞く余裕などなくしていた。そんなセリスに焦れったく思っていたとき青い顔をしたハディルが飛び込んできた。
深淵の森からの魔獣があふれ出たとハディルが報告するとセリスの顔が青くなった。それもそもはず、妊娠していたため深淵の森の檻の点検ができていなかったのだ。
――― 陛下、私を―――。
その先を聞くわけにいかない。セリスの強い光を宿した目を見た瞬間、俺はそう感じた。だから俺はセリスが呼び止める声を無視してオスカーを産婆に託し、セリスにはオスカーを連れて南の離宮に向かうように指示した。
もちろん離縁するためではない。
深淵の森から王都を挟んで南にある離宮ならばセリスもオスカーも安全だと考えた。魔獣は人間を求めて人の多いところに向かう習性がある、だから魔獣が向かうのは人口の最も多いこの王都。
このとき俺は王にあるまじきことを考えた。
王都の人間たちを犠牲にしてもセリスとオスカーを守ろうとしたのだ。
もしかしたら今日世界は終わるかもしれない。
誰もがそう感じていた。
誰もが分かっていた。
ローナたちの所為で弱体化した国には戦力が足りなかった。半ば強制的に集めた形になった騎士たちは恐怖と緊張で新兵のように震えていた。
戦慣れした熟練者たちと共に彼らを励ましながら深淵の森に一番近い砦に向かう。砦に着いたら兵たちには休息をとらせ、俺は見張り台に登って深淵の森を見た。
森のあちこちで魔物の禍々しい赤い目の光をみていたとき俺は死を覚悟した。そこからの記憶は、少し曖昧だ。
記憶がはっきりしたのは、森に向かって突撃していたとき。森の最初の木が目に入ったと思った瞬間、王都のほうから金色の光がやってきて俺たちを背中から追い越した。
そのことに驚いて暴れる馬を必死に宥めているすきに金色の光はふわりと深淵の森の上空を舞い、次の瞬間にはガチンッと重い音を立てて深淵の森に次々と光の槍が刺さっていった。
一匹の大型魔獣が槍と槍の間を抜けようとしたが通れず、焦れて攻撃しても罅一つ入らない光の檻がそこにあり、檻の柱は空に向かってぐんぐん伸びていく。
こんなことができるのは聖女しかいない。
そしてそんな聖女はセリスしかいなかった。
密度の濃く攻撃性の強い気、通称「魔気」に吐き気を催していた魔導師が生気を取り戻して周囲を探索した。そして中型以上の魔獣は光の檻から出てこれずにいることを報告、檻の隙間を抜けてきた小型魔獣は落ち着きを取り戻した騎士たちの手で次々と討伐された。
数人の死人と大量の怪我人を出したものの、予想をかなり上回る兵たちが王都に帰還した。
帰還する兵たちの先頭に立ちながらずっと嫌な予感がしていた。出迎えた城の者の中にセリスがおらず、使用人たちが目を赤く腫らす姿に嫌な予感が膨らんだ。
兵士たちの帰還に湧いて城下は賑やかだったが、うってかわって城が静かだった。
出迎えたハディルから報告を受けようとしたが彼は顔を伏せたままで、その後ろからお祖母様が赤子を抱いて出てきた。なぜ母親のセリスではなくお祖母様が抱いていたのか。
――― セリスは祈りの間にいるわ。
そして俺は城の地下にある祈りの間の中央に咲く結晶の中で眠るセリスと再会したのだった。




