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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
序章 記憶のない少女
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記憶のない少女 #6


「!?」

 ガサッという小さな物音に、サラはビクッと体を強張らせた。


 この閑散とした冬の森に誰も居ないのは、既に何度も声を上げて助けを呼んだ後だったので確信していた。

 そんな状況下で、サラの耳は風以外の不自然な物音に敏感に反応し、瞬時に体が警戒の態勢をとっていた。

 バッと音のした方を振り向くと、すぐに、ガサリと枯れた茂みの奥から、痩せこけた狼が一匹姿を現した。

 獰猛な黄色い目がサラを真っ直ぐにとらえ、慎重にジリジリとこちらに向かって近づいてくる。


(……お、狼!……え? ま、まさか、私の事、狙ってるの?……)


 サラが動揺して青ざめている内に、更に別方向から、パキリと小枝を踏む音が聞こえた。

 近づいてきている狼に意識を向けつつ、慌ててそちらにも目を走らせると、そこにも別の狼がスッと木の幹の影から姿を現した。

 いや、二匹だけではない。

 みるみる内に狼の数は増え、泉のほとりで膝をついたまま固まっているサラを遠巻きにして、グルグルと円を描くようにゆっくりと動きながら、次第にその円を狭め、サラとの距離を詰めてくる。

 気がつくと、狼の一群れは、標的である小柄な一人の少女を、完全に包囲していた。

 これは間違いなく自分が獲物として狙われているのだと、サラも実感せずにはいられなかった。


(……そ、そんな……ど、どうしよう? どうしたらいいの?……わ、私……)


 サラが動揺と恐怖で震えていると、さっそく、一匹の狼が仕留めにかかろうと躍り出てきた。

 ガアッと声を上げ、鋭い牙の並んだ口を大きく開けて、一気にサラに迫る。


(……こ、怖い! 死んじゃう!……)


 その時だった。

 絶望するサラの意識に反して、その華奢な白い手は、パシッと足元に転がっていた枯れ枝を掴んでいた。



 その時サラには、全てがスローモーションのように見えた。


 噛みつこうと大きく開かれた狼の口に、ズバッと的確に木の枝が差し込まれる。

 狼は「キャウン、キャウン!」と悲鳴を上げながらもんどり打って地面に倒れた後、慌てて群れの奥へと引っ込んでいった。

 グルルッと、まるで仲間を痛めつかられた事を怒ったかのように、黒っぽい毛並みの狼が唸り、続いてこちらに飛び込んでくる。

 が、それも、牙がサラの肌に届く寸前の所で、バキッと腹を木の枝でしたたか殴られ、「ギャン!」と叫びながら地に落ちた。

 狼は慌てて逃げ去ったが、しかし、代わりに木の枝が折れてしまった。

 細めの枝だったため、加えられた強い力に耐え切れず、ポッキリと真ん中で千切れて飛んでいってしまった。

 こちらが武器を失った事を悟ったかのように、今度は左右から二匹の狼が飛びかかる。

 しかし、次の瞬間、至近距離に迫った狼の顔が、横から突き出された拳でメキョッと歪んだ。

 もう一匹も、蹴りをドカッと腹に食らって、後方に吹っ飛ばされる。


 その後の展開も、一方的なものだった。

 狼達は、投げつけられた石で顔や背中を強打され、再び手に拾った新たな木の枝で殴り飛ばされ、あるいは肘てつや膝蹴りを食らっては、次々と悲鳴を上げて地に転がる羽目になった。

 バギィッ! 木の枝で殴りつけられた一匹が、数メートル離れた木の幹にぶち当たって倒れこんだのをきっかけに、ジワジワと狼達の群れに恐怖の広がった。

 やがて、後方の一匹がきびすを返してタッと森の奥へと走り出すと、堰を切ったように、他の狼達も我先にと逃げ出して、あっという間に木々の向こうへと姿を消していった。


 つま先で地面に落ちていた枯れ枝を蹴り上げて、パシッと空いていた手に持った所だったサラは、しばらく仁王立ちしたまま辺りの物音に耳をすませて警戒していたが……

 狼の群れが完全に狩りを諦めて尻尾を巻いて逃げ去ったのを確認すると、ポイと、両手それぞれに握っていた木の枝を、枯れ草の上に投げ捨てた。



(……え?……)


 サラの頭は酷く混乱していた。

 自分の意思と行動が一致していない。

 サラの心が獰猛な狼の群れに囲まれてひたすら恐怖に震える一方で、サラの体はまるで生まれた時から会得している本能のように、次々と的確に狼の攻撃をいなしていた。

 体が勝手に動いていた。なんの恐れも、迷いもなかった。

 サラは、すば抜けた反射神経、運動神経、そして強力な腕力によって、獲物を群れで囲んで仕留めようとしてきた野生の狼達を、まるで赤子の手をひねるように、殴りつけ、叩き伏せ、蹴り飛ばし、圧倒して追い払った。


(……こ、これ、私がやったの?……私って、ひょっとして、凄く強いの?……)


 サラは、無意識の内に体が動いてあっという間に敵を排除した状況を目の当たりにして、自分の失われた過去に想いを馳せた。


(……私、なんでこんなに強いんだろう?……)


 どこかで訓練を積んできたのだろうか? これまで戦う事を生業にして生きてきたのだろうか?

 しかし、いろいろ可能性を考えてはみたが、どうもしっくりこなかった。

 サラは、自分の過去に全く実感が持てなかった。



 狼達の群れが去り静寂の訪れた泉のほとりの草の中に、サラは再び膝をついて、水面に映る自分の姿をジッと見つめた。


 緩やかに波打つ髪は、腰にかかる程長く、金色の絹糸のごとく美しくきらめいている。

 肌は新雪を思わせる白さと透明感を持ち、それでいて健康的な血潮の薔薇色が頰を愛らしく染めていた。

 金色の長いまつ毛に縁取られた瞳は、大きくつぶらで、清らかな空の高みが一雫の宝石となったかのようだった。

 端正に整った顔立ち、可憐な薄紅色の唇。耳もあごも首も、手足も指も爪も、体の全てが象牙細工を思わせる精緻な作りだった。


(……私……綺麗!……)


 サラは、泉の水鏡に自分の姿を映しながら、ペタペタと顔や体を触って確かめ、その美しさにいたく満足した。


(……これ、絶対可愛いよね! 私、凄く美人だよね! やったー!……)


 エヘヘヘ、と頰を緩ませ、泉に映る自分の姿をしばらく嬉しそうにニコニコ見つめていたサラだったが……


(……胸、は……あんまりないなぁ……)


 両手で胸を押さえてみた所、残念ながら、そこには、有るか無しかの僅かな質量しかなかった。

 もっと正直に言えば、ほぼ真っ平らだった。


(……ち、違う! こ、これは何かの間違い! 私は本当はもっと胸がおっきくって、お尻もポヨンッてしてて、でも腰はキュッと細くって……こう、魅力的な大人の女性って感じの筈!……た、たぶん。……良く覚えてないけど、そんな気がする。……いや、絶対そう! 私はもっとナイスバディーに違いないんだからー!……)


 サラは自分の貧相な体つきを実感して、強い反発を覚えた。

 あどけなさの残るまだまだ華奢な少女であるので、成熟した大人の女性の柔らかな肉体から程遠いのは、ごく普通の事なのだが。

 しかし、サラは、持ち前の前向きさから、すぐに気を取り直して考えた。


(……そうだ! 私はまだまだこれから成長するんだ、きっと! うんうん! すぐに、もっとグラマーになれるよね!……)


 一人納得し、腕組みをしてコクコク頷いていたサラだったが、ふと思った。


(……っていうか、私、何歳なのかなぁ?……えーっと……)


 改めて、泉の水の凪いだ表面に映し出されている自分の姿をじっくりと眺める。

 そこには、可憐で儚げな、小柄な少女の姿があった。


(……十七歳!……うん! 間違いない、私は今、十七歳! そういう気がする! 絶対そう!……)


 ピーン!と直感でひらめいたものの、水鏡に映っているのは、どう見てもせいぜい十三、四歳ぐらいの少女だった。

 しかし、サラは全く意思を曲げなかった。サラの中では、強い確信をもって、自分の事を「十七歳」と認識してしまっていた。


(……そう、私は今十七歳で……それから、えっと、私の名前は……)


 目を閉じて、空白しか詰まっていない記憶の奥底に必死に手を伸ばす。

 そうして、サラは、たった一つだけ、小さな答えを得た。


「……私の名前は『サラ』。……私は、サラ。……」



 サラが思い出せたのは、結局それだけだった。

 自分の名前は「サラ」で、現在十七歳だという事だけ。


 いや、年齢に関しては、見た目とあまりに釣り合っていなかった。サラの自意識がかたくなに自分は「十七歳」だと信じて疑わなかっただけで、実際は違う可能性が高かった。

 しかし、どの道、思い出せた事が真実か否か知るすべは、今のサラにはなかった。

 ならば、信じる他ない。

 そして、サラは、自分の直感を信じた。

 サラには、自分を信じられるだけの強さがあった。自分を信じる事によって、サラの中から強さはもっと生まれてきた。


(……行こう。いつまでもここに居ても、どうにもならないし。とりあえず、探さなくっちゃ。人とか、村とか。……)


 サラは、すっくと立ち上がって、歩き始めた。

 荒涼と冬枯れた寒風吹きすさぶ森の中を、一歩一歩確かな足取りで進んでいった。


(……見つけなくっちゃ、自分がどこの誰なのかを。失った記憶を取り戻さなくっちゃ。……)


 一糸まとわぬサラの、金色の長い髪が風になびく胸元で、濁った赤い石のペンダントが揺れていた。



 サラが見知らぬ森の中で一人目覚めてから、はじめて他の人間に会ったのは、二日程経った夕方の事だった。


 襲ってきたクマと全裸で戦い、2mを越す巨大グマを見事背負い投げた所を、森に狩りに来ていた地元の猟師に発見されたサラだった。

 宵闇が迫ってきた時刻でもあり、サラとクマとの格闘を見た猟師は、サラの事を、見たこともない化け物が居るとはじめ思ったが、よくよく見ると全裸の美少女で、酷く驚いていた。


 その後、年老いた猟師は、サラの事を心配し保護してくれた。

 サラはしばらく、猟師が森に留まって狩りをする時に泊まる小さな小屋に泊めてもらい、おさがりではあるが衣服も譲ってもらった。


 一週間程猟師とその小屋で過ごしながら、サラは老人から僅かばかり、この森の事、野生の生き物についての事、そして、この世界の事を学んだ。

 どうやら、サラが気を失って倒れていた森は、中央大陸と呼ばれる世界一大きな大陸の南東地方にあり、四季の移ろいはあるものの、真冬でも雪が積もったりする事はない温暖な地域だったらしい。

 衣服を持っていなかったサラには、不幸中の幸いだったようだ。


 更に、この時サラは老人から、基本的な狩りの仕方や獣の生態についても大まかに教えてもらった。

 もっとも、サラは一切武器を持たず、徒手空拳で森の獣達を次々狩り倒していったのだったが。

 サラの驚異的な強さを実感した老人は、この地に留まって狩人にならないかと話したが、サラはそれをキッパリと断った。


「私、もっといろんな所に行ってみたいんだ。」

「まあ、そうじゃなぁ。お嬢ちゃんの事を探している家族が、どこかに居るかもしれんからなぁ。」


 年老いた猟師は、森を出て近くの町に狩った獲物を売りに行く時に、サラをそこまで連れていってくれた。

 サラが獲った獣の皮や牙などを売ったお金は、サラのこれからの生活のためにと渡してくれた。


「元気でやるんじゃぞ、お嬢ちゃん。」

「ありがとう! お爺さんも元気でねー!」


 そうして、サラは旅立った。

 自分の失った記憶を取り戻すために。忘れてしまった過去を探すために。

 そして、もしかしたらどこかで自分を待っている、大切な人に出会うために。


 その後、次の町に行く途中、街道沿いの森の中で半月程迷いに迷い、自分がかなりの方向音痴である事にようやく気づいたサラだった。


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