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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第十三章 野中の道 <第十一節>野中の道をゆくごとく
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野中の道 #85


(……フウ……さすがにもう限界だな。……)


 『紫の驢馬』は、フゥーッと、細く長く胸に溜まった息を吐き出しながら、静かに瞼を下ろした。

 はじめてここまでの怒りの感情をあらわにしたティオの姿を、もっと見つめていたい気持ちに駆られてはいたが、この息をするのも苦しいような強烈な圧迫感には、いかな『紫の驢馬』と言えど長くは耐えられなかった。

 実際、『紫の驢馬』がティオを無言で睨むようにジッと見つめていたのは、酷く長い体感に反して、ものの数秒といった所だったろう。


「……失礼しました、ティオ殿。どうも私は少し調子に乗り過ぎたようですな。……」


「……ええ、確かに、先程の発言は、『表の事は表の人間が、裏の事は裏の人間がするが道理』という私の信念から外れておりました。未来ある子供に裏社会の人間が不用意に近づくべきではないというのも、もっともな事です。……」


「……先程の私の言葉は、どうか忘れてもらえませんか?……この先、私は一切、ティオ殿が守る傭兵団の人間には近づかないと誓いましょう。団長であるサラ殿はもちろんの事、チェレンチー殿やボロツ殿にも。……」


 そんな『紫の驢馬』の発言を受けて……

 ティオから発せられていた押しつぶされそうな重く強烈な気配が、スウッと掻き消えるように空気に溶けて消えていった。

 『紫の驢馬』は、自分の身体を縛りつけていた見えない茨の縄から解き放たれて、ホッと安堵すると共に……

 ティオの注意が自分から去っていく事に、どこか残念な気持ちを密かに覚えていた。


 再び『紫の驢馬』が目を開けると、そこには、先程と寸分たがわぬ、飄々としたティオの笑顔があった。


「ご老人に分かってもらえて、本当に良かったです。」



(……まあ、傭兵団の団長であるサラ殿の名前を出した途端ティオ殿のあの怒りようだからな。ティオ殿に「傭兵団を戦で勝利させる」という約束をさせたのが彼女だというのは、まず確定だろう。……)


 アジトの階段をしっかりとした足取りで一歩一歩降りながら、『紫の驢馬』は昼間の『眠り羊亭』での事を思い出し、フウと小さくため息を吐いた。


(……ますます、サラ殿がどんな人物か気になる所だが……ティオ殿のあの様子では、とても近寄らせてはくれまい。おそらく昨晩『黄金の穴蔵』にボロツ殿とチェレンチー殿の三人だけで来たのも、サラ殿を繁華街での騒動に巻き込まぬよう配慮した結果だろうしな。ティオ殿は、サラ殿を守るために用心に用心を重ねているに違いない。……)


(……さすがに私も、老い先短いとはいえ、うっかり虎の尾を踏んで死にたいとは思わないからな。……そう、せめてこの内戦の顛末を、ティオ殿が内戦の終結に向けてどう采配を振るうのかを、この目で拝んでからでないと、死んでも死にきれん。……)


 『紫の驢馬』は階段を降りながら、軽く首を振って、傭兵団の団長であるサラへの興味を断ち切った。

 このナザール王都の裏社会の首領として、ティオの機嫌を損ねる訳にはいかないというのはもちろんだったが……

 『紫の驢馬』個人としても、ティオの怒りによる威圧を目の当たりにした後では、ティオが守っているサラや傭兵団の人間に近づく気にはとてもなれなかった。

 元より、こちらの領分を荒らさない限りかたぎの人間には一切手を出さないのが、『紫の驢馬』とその組織の掟でもあった。


(……それにしても、やはりあの圧倒的な「気配」……)


(……ティオ殿が本気になれば、私やこの組織どころか、巻き添えを食らってこの街一つも簡単に吹き飛びそうだと感じる程だった。……)


 『紫の驢馬』は、ティオをまごうことなき天才だと捉えていた。

 そして、その天才振りは、もはや天災に通じるものだった。

 ティオに悪気はなかろうとも、その腕の一振りで、指一本動かしただけで、あっけなく凡人は吹き飛ばされる。

 それは、嵐や、津波や、地震や、火山の爆発と同じく、悪意は欠けらもないままに、多くの人間の人生や命が軽々と散りゆく、自然由来の大災害に良く似ていた。

 ただ、幸いな事に、ティオは自分が周囲に及ぼす影響の大きさを自覚しており、普段は周りの人々に気を遣って、自分の力の抑制に努めていた。


(……例えるなら、どんなものでも一刀のもとに断ち切る名刀を携えているが、普段はその刃をしっかりと鞘に収めており、決して抜く事はない……それがティオ殿という人物だ。……)


 とは言え、そんなティオであっても、思いがけず自分の命が危険にさらされるような事があれば、反射的に反撃してしまう可能性はあった。

 故に、『紫の驢馬』は、カッとなってティオの喉元にナイフを突きつけた頬傷の男を「死にたいのか?」と叫んで止めたのだ。

 あの時、『紫の驢馬』は、先程の夕食で頬傷の男に語った通り、微塵もティオの身を案じてなどいなかった。

 目の前を飛ぶ小蝿を払うがごときティオの反撃を受けて、頬傷の男が甚大な被害を負う事をとっさに恐れたのだった。

 結局、ティオは、一瞬我を忘れて、自分の奥底に秘めた未知の巨大な「何か」をほんのわずかに解放しかけたが、頬傷の男に対しては何もしないまま終えていた。


(……アヤツには、どう足掻いてもティオ殿を殺す事など出来はしない。アヤツにそこまでの力量がない、と言えばそれまでだが。……)


(……なぜだろうな。どんな大きな力をもってしても、ティオ殿を殺す事は叶わない気がする。……)


(……それは、たとえ、殺そうとする者が、ティオ殿自身であったとしても……ティオ殿自身が、いくら自分の死を望み、自分自身を殺そうとしたとしても……おそらく、それは不可能だろう。……)


(……あの、ティオ殿の内に潜む未知の「何か」が、勝手にティオ殿を生き長らえさせるよう守ってしまう、という可能性もあるだろうが……)


(……ティオ殿を見ていると、もっと大きな運命のごときものを感じるのだ。そう、ティオ殿が語っていた、『先見』という能力で知る「世界の大きな流れ」のようなものだ。……)


(……例えば……警戒心が強く全く隙のないティオ殿ではあるが……もし万が一、とっさに反撃出来ないような思いがけない命の危険にさらされたとしたら、その時に……いきなり強風が吹き、どこからか折れた木の枝が飛んできて、敵の顔面に当ったり……あるいは、地震で大地がひび割れて、敵が足を掬われたり……そういった荒唐無稽な事が起こっても、何も不思議ではないような気さえするのだ。……)


(……ティオ殿は、この「世界」に生かされている。……)


(……ティオ殿が、望むと望まざるに関わらず。……)


(……果たして、そんな人生が、ティオ殿にとって幸福であるかどうかは、矮小なる我が身には想像もつかないがな。それでも……)


(……果てなき草原を駆けゆく風のごとき、あのうら若く美しい青年の身に、その未来に、幸多からん事を祈らずにはいられない。……)


 『紫の驢馬』はコツコツと杖を鳴らしながら階段を降りきると、一度立ち止まって、麻の帽子のつばに手を掛け、わずかなズレを正した。



 『紫の驢馬』が一階に着くと、既に今日の護衛役の男が待っていて、ペコリと頭を下げた。


「親父。」

「ウム。今日は一旦北東の小道を回ってから東の大通りに抜けて、そのまま通りを行くルートをとるつもりだ。」

「分かりました。」


 『紫の驢馬』の身が一番危険にさらされるのは、アジトから組織の各店舗への移動時だった。

 アジトは常に組織の人間が何人も詰めており、周囲の警戒も行き届いている。

 また、『紫の驢馬』が一従業員として経理や接客などの仕事をしている組織の管理下にある繁華街の店舗は、どこも用心棒が控えているので、揉め事が起こっても対応が可能だった。

 問題は、『紫の驢馬』が外を出歩く場合だったが、そこはしっかりと、組織でも腕の立つ護衛役の人間が少なくとも一人、敵対組織に不穏な動きがある時には数人かがりでついていた。

 「護衛」と言っても『紫の驢馬』はもう何十年も世間に正体を明かしていない事から、すぐそばをいかつい男達が取り囲むような事はなく、少し離れて、そうとは見えないようにさり気なく見守る格好となっていた。

 移動ルートはいつも同じ道を行くと人の記憶に残ったり、襲撃計画を立てられやすくなるために、幾つかある道筋をいつも直前で『紫の驢馬』自身が選んでいた。

 更に、幾つか決まったルートがあると言っても、その日の人の流れを見て、その場で任意にグルリと寄り道をしたり、一本隣の道を行ったりするため、ほぼ特定が出来ない状態に保たれていた。

 現在王都で敵対勢力の活動は、ティオが麻薬を流していた者達の情報を警備兵に売った事もあって、ほとんど鎮圧されており、『紫の驢馬』はあまり身構える事なく外出出来ていた。

 一応常に一人は護衛を置いているものの、いざとなれば『紫の驢馬』自身も、昔とった杵柄で仕込み杖で応戦する事が可能だった。

 歳をとっているため、長時間走ったり、飛んだり跳ねたりといった運動はさすがに無理だったが、長年の経験に培われた勘と無駄のない動作で、酔って絡んできたゴロツキ程度なら一人でも余裕で撃退出来る程度の腕はあったのだった。


 『紫の驢馬』は、護衛の男に先んじて、アジトを囲む塀の一角にある木戸を通り抜けた。

 『眠り羊亭』でティオと別れた後、一時間半程して、ティオの予想通り雨がザッと降りしばらくして上がったが、夕食をとっている内にまた少し降ったらしく、アジトの前の、地面を踏み固めただけの細い路地の土が濡れていた。

 いつしか太陽は完全に王都の下町の街並みの向こうに沈み、辺りを青い宵闇が包み始めている。

 繁華街が賑わう夜が、裏社会の人間が忙しくなる時間が、もうそこまでやって来ていた。

 『紫の驢馬』は、麻の帽子を目深に被り、老いた背をわざと丸めて杖をつくと、ゆっくりと歩き出した。



 護衛の男が5m程後ろをきちんとついてきている気配を感じつつ、『紫の驢馬』はブラブラと下町の入り組んだ細い路地をしばらく歩き回った後、富裕層向けの高級商店が立ち並ぶ東の大通の中程に出た。

 不況と流行り病で、この数ヶ月の内にすっかり廃れて人気の少なくなったナザール王都であったが、さすがに東の目抜き通りには、この時間帯でも上等な服を着た人間の姿がまだ多く見られ、通りの左右に肩を並べる立派な二階建てや三階建ての石造りの店舗には、夜の訪れを迎えて、そろそろ灯が入りつつあった。

 水に濡れた石畳に、遠近の建物の灯が滲みながら映り込み、大通りに足を踏み出した『紫の驢馬』の目の前には、雨上がり特有の鮮やかな景色がパッと広がっていた。


(……ああ!……)


 その景色に、『紫の驢馬』の脳裏に刻み込まれた過去のある光景が、花火のごとく短くも鮮明に蘇っていた。

 甲冑を着た男が、兵士達を引きつれ、観衆の歓声に応えるように馬上から手を振りながら、ゆっくりと大通りを練り歩いていく、そんな光景だった。


 それは、もうかれこれ四十年以上も前の事であった。

 『紫の驢馬』の七十余年の長きに渡る人生の中でも、大きな転機と呼べるものは幾つかあったが、その光景を見たのが、最も大きな変化の時だったと、『紫の驢馬』は今も考えている。

 ちょうど、『紫の驢馬』が自分の生き方を大きく変える原因となった、仲間の男をカッとなって刺し殺してしまった事件の少し後の事だった。

 仲間の男を殺してしまった事に関しては、その男が仲間内でも「バカで鬱陶しい」と鼻摘み者だったため、『紫の驢馬』を責める者は、上にも下にも誰一人として居なかった。

 しかし、『紫の驢馬』自身は、その事件以降クサクサした気持ちが胸の中で燻ったままだった。

 元々『紫の驢馬』も男の事を嫌っていたため、彼を殺してしまった罪悪感はほとんど持っていなかったし、後悔の気持ちも薄かった。

 しかし……ただ、ひたすらに虚しかった。

 自分の人生とはこんなものかと、ほとほと嫌気が差した気分だった。


 親も無く、治安の悪い小さな町の片隅で、自分と同じような「悪い奴ら」とつるんで育つ内に、『紫の驢馬』は、生来の頭の良さと肝の据わり振りから、自然と一目置かれるようになっていった。

 そうして、その地域の裏社会に属するようになると、積極的にシノギに参加し、抗争に明け暮れ、皆がそうするように必死に上を目指した。

 同じ地域の中でも、派閥やグループがあり、権力闘争や縄張り争いが絶えない。

 シノギを重ねて上の人間に少しでも多く金を納めつつ、敵対する派閥のアジトに乗り込んで潰して回る事で、汚泥の中を這いずるような裏社会の中でも、少しずつ周囲に認められ、上に行けると信じていた。

 火の中に飛び込むような危険な真似も随分したし、実際、裏路地で一人きりの所を敵対する組織の人間達に囲まれ、夢中で斬り結んで命からがら逃げた事もあった。

 そんな若く向こう見ずだった『紫の驢馬』は、組織の中で飛び抜けた功績を上げ、みるみる周囲の注目を集めていき、「切れたらヤバイ男」として有名になっていった。

 しかし、一方で、『紫の驢馬』は、いつしか心の内に虚しさをかかえるようになっていた。

 稼いだ金をパッと使って美味いものを思い切り食べたり、仲間達と酒を飲み交わしてはバカ話で笑ったり、気に入った女を次々と抱いたりして、多少そんな虚しさを忘れる時もあったが……

 結局は、いっとき気分を誤魔化しているに過ぎない事に『紫の驢馬』は気づいていた。


(……俺は結局、一生こんな下らない生き方を続けるのか。……)


(……人を殴って金を稼ぎ、人を殺して敵を黙らせ、上の人間には金と女を貢いで機嫌を取り、酒に酔って喧嘩をしては、怒りに任せて相手を殴り倒す。……ずっとその繰り返しだ。……)


(……俺は、本当はどこにも行けやしないんだ。死ぬまで、この底辺のゴミ溜めの中から抜け出せやしない。……)


(……ガムシャラに頑張っていれば、いつかきっとこんな下らない不毛な生活から抜け出して、夢のような素晴らしい場所に行けると漠然と信じて、今まで必死にやってきたが……その結果が、これか。……)


(……カッとなって、下らない男を刺し殺した。殺す価値も無いようなつまらない男だった。……しかし……)


(……あんな男を刺し殺した、俺自身が一番下らない。……)


(……今まで散々、こんな世の中はクソだと思っていたが……なんの事はない、俺が一番クソだったって事か。……チッ!……)


 そんなじくじたる思いをかかえて、希望も目標なく日々を漫然と生きていた『紫の驢馬』は、四十年前のその日、たまたまその凱旋を見たのだった。


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