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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第十三章 野中の道 <第十一節>野中の道をゆくごとく
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野中の道 #84


(……アイツには、「ティオ殿を害するような事はするな」とは言ったが……)


 『紫の驢馬』はいつもながらの質素な夕食をしっかりと完食したのち、私室に戻ってくると、外出のために手際良く身なりを調えた。

 と言っても、昼間ティオに会った時のような、生成りの綿のシャツに、同じく綿の茶色のズボン、灰色の麻のベストという庶民が良くしているような素朴な格好であったが。

 服は元々数着しか持っておらず、それを丁寧に洗濯して着回していた。

 どの道、『黄金の穴蔵』につけば、従業員の制服に着替える事になる。

 持ち物は、几帳面に折り畳んだ清潔な木綿のハンカチと、財布として銅貨がいくばくか入っている小さな布の袋をズボンに入れているのみだった。

 木の櫛で、加齢により毛量の少なくなった白髪頭を綺麗に梳き、部屋の入り口の壁に掛けてあった麻の帽子を目深に被る。

 そして、その近くに立て掛けて置いてあった木の杖を手にした。

 この杖ももう十年近く同じ物を使っており、手の油の染み込み具合からも年期が入っている事が察せられるが、実は、昼間ティオに指摘された通り、いざという時のために中には細身の刃が仕込まれていた。

 当然のごとく、その刃は『紫の驢馬』自らが老練の鍛冶師に指示して打たせた名刀だった。


 身支度を終えると、『紫の驢馬』は自室を出て、ドアに鍵を掛け、その鍵をベストの胸ポケットにしまった。

 民家の個室のドアにつけるにはやや大仰な金属の鍵ではあったが、もしこのアジトが敵の襲撃を受けたのなら、この程度の鍵はあってもなくても同じである。

 体当たりすれば、簡単に木製のドア自体を破壊する事が可能だからだ。

 それに、このアジトで共同生活をしている部下達に自室を見られても、『紫の驢馬』は特に気にしなかった。

 粗暴な彼らに必要最低限の物が整然と調えられている自分の部屋に、土のついた靴でドカドカ入ってこられて持ち物を荒らされたのならさすがに不快に思っただろうが、皆『紫の驢馬』に遠慮して、呼ばれなければ部屋に入ろうとはしなかった。

 なんなら、掃除も洗濯も、服を畳むのも、シーツを交換するのも、湯を沸かして茶を入れるのも、『紫の驢馬』は自分の事は全部一人でやっており、誰かが彼の部屋に世話に入る必要もなかったのだった。

 しかし、それでも、あくまで習慣として、『紫の驢馬』は、自分の部屋のドアや窓には適宜しっかりと鍵を掛けていた。

 必要に迫られての事ではなく、「これから出掛ける」という気分の切り替えの合図になるのと、身の回りをきちんとしておくと、スッキリした気持ちになるからだった。


(……フッ……あんな事を部下に言っておいて、私がティオ殿を怒らせていては世話ないな。……)


 『紫の驢馬』はコツコツと杖をついて廊下を歩きつつ、昼間の出来事を思い返しては、薄い唇の端に苦笑いを浮かべた。



「それじゃあ、俺はこの辺で失礼します。」


 椅子を引いて立ち上がったティオに対し、『紫の驢馬』も椅子から腰を浮かしかけたが……


「それでは、店の外まで見送りましょう。」

「いえいえ。もう、ここで。ご老人は、このまま掛けていて下さい。あなたが動くと店の中に詰めているあなたの部下達がざわめくでしょう。俺もすんなり通り抜けたいですし、見送りは気持ちだけで充分です。」


 ティオが相変わらず飄々とした笑顔でそう言って見送りを断ってきたので、『紫の驢馬』は大人しく着席する事にした。


「本当に実りの多い会食となりました。今日誘っていただけて、ご老人に心から感謝します。」

「こちらこそ。ティオ殿と信頼関係が築けた事は、私にとっても私の組織にとっても僥倖でした。深くお礼申し上げたい。……では、ここに座ったまま見送らせてもらいますが、どうか気をつけてお帰り下さい。……いや、ティオ殿はこの後ドゥアルテ商会に馬を引き取りにいくのでしたな。すぐに部下に伝えて、我々の手の者もドゥアルテ商会に向かわせましょう。」

「ありがとうございます。……いやぁ、後一時間半程で雨が降り出すでしょうから、それまでに用事を片づけて王城の傭兵団の宿舎に戻りたい所です。」

「雨が降るのですかな? 確かに、雲行きが良くありませんな。」

「ああ、でも、降るとは言ってもいっときです。小一時間程で上がって、夜は星が見えますよ。」

「ティオ殿は、そんな事も分かるのですか?……私も長年この街で暮らしているので、なんとなく天候の予想はつきますが、時刻までは断定出来ません。……ひょっとして、ティオ殿も何か『未来予知』のような事が出来るのですかな?」

「ハハハ。俺のはただの経験則からの予想ですよ。」


 ティオは軽く笑い飛ばしていたが、その後実際、ティオが言い置いていった時刻に雨が降り出し、一時は車軸を流すような激しい降りになったのだった。

 そして、ティオが止むと言った時刻に、またピタリと雨が上がり、サーッとはけるように黒雲は引いていった。

 一方で、ティオはこの後向かったドゥアルテ商会において、『紫の驢馬』の指示でドゥアルテの所に『黄金の穴蔵』でのツケを取り立てに来た荒くれ者達と鉢合わせる事になった。


「ご老人も雨には気をつけて下さい。……また、機会があったらお会いしましょう。」

「ああ、ティオ殿!」

「なんですか?」

「聞き忘れていた事がありました。」


 『眠り羊亭』の二階のテラスから一階に降りる階段に続くドアを開けようとしていたティオを、『紫の驢馬』は呼び止めていた。

 首を捩じって顔だけこちらに向けたティオに、『紫の驢馬』は人の良さそうな笑顔を浮かべ、世間話のていで軽い口調で尋ねた。


「そう言えば……現在傭兵団の団長をしているのは、まだほんの十三、四歳の少女だという話ですね。とても美しく愛らしい容姿をしていると聞き及んでいます。しかし、見た目によらず恐ろしく剣の腕が立ち、あの『牛おろしのボロツ』さえも、簡単に打ち倒したとか。名前は『サラ』でしたかな?」


「一体どのような人物なのでしょう? なんとも興味が尽きません。一度会ってみたいものですな。」


 『紫の驢馬』は、ティオが「傭兵団を戦で勝利させ、内戦の終結に尽力する」との約束をした人間が誰であるか気になっており、軽く探りを入れたのだったが……

 すぐに、そんな自分の軽率な行動を後悔する事になった。


「……」


 ティオは相変わらず掴み所のない飄々とした笑顔を浮かべたまま、黙ってゆっくりとこちらに向き直っただけだったが……

 次の瞬間、ブワァッと、当りを荒々しい暴風が吹き荒れていた。

 いや、本当は、風は先程と変わらず、高くなった湿度に雨の予感をはらませながら少し強く吹いているだけであった。

 『紫の驢馬』が感じ取ったのは、ティオから発せられた、あまりにも強烈な「気配」だった。


(……し、しまった!……)


(……これは、ティオ殿の逆鱗だったか!……)


 『紫の驢馬』は、昨晩も『黄金の穴蔵』にて、このティオの息苦しくなる程の圧倒的な「気配」を感じた場面があった。

 ドゥアルテとの一騎打ちでの最終戦に際し、ドゥアルテの腹違いの弟であったチェレンチーが、ティオにある助言をしたのだ。

 それは「ティオ君が普段ずっと押さえている気配を解放すれば、それだけで兄さんは崩れるよ」といった内容だった。

 チェレンチーの事を信頼しているティオは、その言に従い、ドゥアルテとの最終戦において、自分の本来の気配を抑え込むのをやめた。

 いや、あれでもまだまだ全開には程遠かっただろうが、そのズシリと周囲の空気が重くなるぐらいのティオの圧倒的な「存在感」を前に、普段は威張り散らしていても本当は小心なドゥアルテは、果たしてすっかり当てられてしまい、ダラダラ冷や汗を垂らして震え出していた。

 結果、チェレンチーの予想通り、ドゥアルテは早々に調子を崩し、自滅するように負けていった訳だが……

 勝負の最中は、ティオが発散しているその強烈な「気配」を、そばに居た者達も流矢のごとく食らう事になってしまった。

 さすがに、赤チップ卓のある壇の周りに集まって外ウマの木札を手に勝負の行方を見守っている者達は気づかなかったようだが……

 その時、一介の従業員の振りをして、ティオのそばで不正のないようゲームの進行に目を光らせつつ、両替や換金などの雑用を一手に引き受けていた『紫の驢馬』は、ドゥアルテ同様ティオの気配をもろに受ける羽目になった。

 元々勘のいい『紫の驢馬』は、同じく気配に敏感なチェレンチーと共に、ドゥアルテ程ではないものの、冷や汗を掻き、見えない拳がみぞおちにめり込んでくるような圧迫感で胃を痛めた。

 結局、勝負が終わるより前に、非常識な程大敗している事もあって、ドゥアルテの精神が限界に達してしまった。

 ゲーゲー吐いては、ふらつく足で必死に逃亡を計ったため、このままでは勝負の続行が無理そうだと判断したチェレンチーが、ティオに「もういいよ、ティオ君」と止めたのを機に、ティオはスッと、周囲に撒き散らしていた暴風のような自分の「気配」を抑え込んだ。

 おかげで、なんとかドゥアルテは勝負を最後までやり切れたのだが、代わりに莫大な借金を背負う事にもなった。

 一方で、ティオが「気配」を収めてくれたために、チェレンチーと『紫の驢馬』も、自分達の胃の辺りを手で撫でながら内心ホッと息をついていた。


 あの時と同じ……いや、それ以上の強烈な「気配」が、うっかりサラの事を口にした『紫の驢馬』に対して、ティオから放たれていた。

 ズウン、と一瞬で辺りの空気が重くなり、深い水底に沈められたかのような圧力を全身に感じて、『紫の驢馬』は、思わず胸を両手で押さえ老いた背を丸めた。

 肉が絞られ、骨が軋み、内臓が潰されるがごとき、巨大で荒々しい「気配」が、『紫の驢馬』の身体を、意識を、存在を、その場を、完全に支配していた。


「ハハ、あなたらしくないですね、ご老人。」


 ティオは、改めてゆっくりと身体を『紫の驢馬』に向けると、外見上は先程までと何も変わらない能天気な笑顔で言った。


「ご老人は、裏社会と言えども一定の秩序は必要と考えていて、自分の人生を傾け、この街の裏社会をまとめ上げていったのではなかったのですか? そんな常識と良識を持つあなたが、サラのようなほんの子供に興味を示すなんて、おかしな話ですね。」


「そう、あれは、まだ子供です。いくら剣の腕が立とうと、傭兵団で団長に担ぎ上げられていようと、子供なのです。」


「ご老人がこの下町に敷いた秩序の中では、子供とは、その属する社会が大切に守り育てていくべきものなのではありませんか? 大人が子供を利用したり、踏みにじったり、搾取したりするのは、ご老人の考えにおいても非道な行いで間違いありませんよね?」


「そんな訳ですから、申し訳ありませんが、ご老人には、我が傭兵団の団長に一切関わらないようにして欲しいのです。」


「いえ、ご老人は、とてもしっかりとした考えの持ち主で、このナザール王都の裏社会の首領であっても、理不尽に悪逆非道な行いはしないと俺も良く知っています。しかし、やはり裏社会に生きる方ですからね。サラはまだほんの子供で、表の社会でのみ生きています。あなたの信条は、極力『表の事は表の人間の手で、裏の事は裏の人間の手で行う』ですよね? その思想にのっとって考えると、サラのように表の社会で健全に育ちゆく子供とは、裏社会の大人は関わらない方が望ましいと、俺は思うのですよ。」


 『紫の驢馬』は、眉間に深いシワを刻み、重い瞼を押し上げて、真っ直ぐにティオを見つめていた。

 はたから見れば、『紫の驢馬』の老いた瞼に半ば埋もれた細い目は鋭い眼光であった事から、睨んでいるように見えたかも知れないが、実際は『紫の驢馬』にティオに対する敵意はまるでなく……

 ともすればうつむいて目を逸らしたくなる威圧感に必死に耐えているために、勢い目つきがきつくなってしまっていたのだった。


 『紫の驢馬』が、そこまでしてティオから目を逸らすまいとしていたのは、王都の裏社会の首領としての誇りを保つため、といった理由ではなかった。

 そもそも、裏社会での長年の経験から人物の本質を見抜く慧眼を培っていた『紫の驢馬』は、出会って早々に、このひ孫程に歳の離れた若者には絶対勝てないと悟っていた。

 『眠り羊亭』に招いた当初から、ティオに敵対する気など更々なく……

 この類い稀なる天才に興味を持って、彼をもっと良く知り、友好的な関係を築こうと思っていただけだった。

 王都の裏社会の首領の立場的には……

 フラリとこの地に現れたティオという若者が、ナザール王都に潜む賞金首を一斉に検挙させたり、『黄金の穴蔵』で大商家の頭取を丸裸にしたりと、その有能振り故に周囲に甚大な影響を及ぼす嵐の目となっているために、彼の真意を探って、こちらに害がないかどうか判断する必要があったのだが……

 『紫の驢馬』個人としては、ティオの才気に惚れ込む勢いで好感をいだいていた。


(……見たい……もっと良く見たい……)


(……これが、普段ティオ殿が抑えている彼本来の「気配」か。……いや、これでもまだ全開には到底及ばないのだろうが。……)


(……おお、なんという貴重な体験か! 老い先短い私の身で、これ程の人物と相対する機会は二度とあるまいよ!……)


(……一分一秒でも長く、この姿を自分の目に映し、この迫力を自分の脳裏に刻んでおきたいものだ!……)


 金にも酒にも女にも、地位も名誉も権力も、およそ世間一般的な男が喉から手が出る程に欲するであろうもの全てに興味がなく、特にこれといった趣味も持たない、禁欲的で自制心の強い『紫の驢馬』にとって、実益を兼ねた唯一の楽しみと言えるものが、「人間観察」であった。

 そんな『紫の驢馬』に、ティオという人間は、どんな高価で希少な財宝よりも輝いて見えていた。

 それが自分の手には余る宝である事はもとより承知していたが、それでも、ほんのひとときであっても……

 (この奇跡のような体験をしかと味わいたい)という欲求を『紫の驢馬』は抑えきれずにいた。

 辺りに無数の小さな雷が満ち、ピリピリと皮膚が刺され、ジリジリと肺が焦げるかのような苛烈な空気の中で、『紫の驢馬』は必死に身体の芯から込み上げてくる震えをこらえて、自分の視線の先に立つティオの姿を真っ直ぐに見つめ続けた。


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