野中の道 #81
「親父は、あのティオってヤツを部下にするつもりなんですか?」
グビッとジョッキからビールを飲んで、既に少し顔を赤くした頬傷の男が尋ねてきた。
卵を食べながら考え事をしていた『紫の驢馬』は、その声で意識を向かいの席へと向けた。
「いや。そんな事は出来ない。」
「ですよね!……アハハ、安心しました。あんなひょろひょろしたヤツ、俺達の組織でやっていける訳ないですもんね。」
どうやら頬傷の男は、『紫の驢馬』がティオを自分の部下にするのではないかと心配していたらしい。
もしそうなれば、頻繁に顔を合わせる事になり、同じ組織内でそれなりに友好的な関係を築く必要も出てくるが、「あんなヤツと馴れ合うのはまっぴらご免」といった所なのだろう。
またぞろいろいろと誤解している様子の頬傷の男に、『紫の驢馬』は、歳をとって毛量の衰えた眉を片方上げて言った。
「誘ってはみたが、にべもなく断られたのだ。ティオ殿がこの組織に入ってくれるなら、これ程心強い事はないだろうが、本人にその気がまるでない状態では、私にどうする事も出来ない。ティオ殿は、特に表の社会で立身出世するつもりもないらしいが、かと言って裏社会に関わるつもりも更々ない様子だった。それに、自分より優れた人間を部下に欲するなど馬鹿げた事よ。もし、この組織にティオ殿を招くとしたら、私は引退して今の地位を譲るべき所だ。」
「ええ? じょ、冗談でしょう? 親父?」
「……」
頬傷の男はビールを口に運びながら思い切り顔をしかめて、沈黙した『紫の驢馬』を探るように見つめていたが……
「ま、まあ、なんにせよ、アイツがこの組織に来なくて良かったですよ。アイツと一緒にシノギをするなんて、考えたくもないですからね。」
と、しばらくして気分を切り替えたらしく、そんな事を言っていた。
頬傷の男のこういう単純ながらも楽天的な所は、この生業に向いていると『紫の驢馬』は思っていた。
裏社会では、日常的に暴力が絡む事件が起こり、血が流れ、人が死に、また、裏切りや離反、敵対など、気の重くなるような場面も多いため、いちいちそれらに神経をすり減らしているようではまともにやっていけなかった。
頬傷の男のように、「まあ、済んじまった事はしょうがねぇ」と、酒を飲んで一晩寝れば何があってもカラッと忘れるぐらいでないと長く続かなかった。
『紫の驢馬』は、豆のスープを綺麗に飲み干し、とっておいた黒パンの端で噐を丁寧に拭いて、それを口に放り込んだ。
「お前はどうしてそこまでティオ殿を嫌う? お前の兄貴分だった男は、私も早晩処分するつもりだったと説明しただろう? この街で賞金首の筆頭になっていた奴の情報を一般人のティオ殿が警備兵に売ったとして、恨むのは筋違いだぞ。」
「そ、それは!……そうです、けど……」
「お、俺は元々、ああいうヘラヘラした口先だけのヤツが嫌いなんですよ。男はもっとこう、ビシッと一本自分の中に芯みたいなものを持ってないとダメでしょう? まあ、腕っぷしが強くないのは仕方ないとしても、ちょっとでも強くなろうとする気持ちはないとダメですよ。……正直、親父がアイツをそこまで気に入ってるのが、俺には全く理解出来ないですね。」
「俺がちょっとアイツの胸ぐらを掴んで脅したからって、『殺すぞ』なんて言うのは、いくらなんでも酷くないっスか? アイツに肩入れし過ぎだと思いますぜ。」
『紫の驢馬』は、男のその言葉に「ムウ」と眉間にシワを寄せた。
頬傷の男の方は、尊敬と共に畏怖の対象である組織の首領に、思い切って胸に溜まっていた事を吐き出して、どこかスッキリしたような顔をしていたのを見るに……
どうやら、この一連の会話で一番言いたかったのは先程の部分だったようだと『紫の驢馬』は気がついた。
要するに……
頬傷の男が、ティオの告発により警備兵に捕まえられて処刑された兄貴分の男の事でカッと頭に血がのぼり、思わずティオの胸ぐらを掴んだ際、『紫の驢馬』が彼を制止するためにとった対応についての不満であった。
いや、正確には、「胸ぐらを掴んで脅した」どころの話ではなく、頬傷の男は、上着に仕込んでいたナイフを抜き払ってティオの喉元に突きつけていた。
強い殺気を放っていた事からして、あの一瞬、男が本気でティオを殺したいと思っていたのは間違いないだろう。
まあ、頬傷の男は単純な性格なので、恩のある人間が死んだ原因を作った人間だからと言って、四六時中延々と思い返して恨み続けるような事はない。
ティオに対しても、殺意を持ったのはあの一瞬のみで、今は「気にくわない」という感情は持ちつつも、ビールを飲んで子羊の肉に舌鼓を打つぐらいには忘れていた。
充分に釘は刺しておいたし、『紫の驢馬』がティオに目を掛けている事は理解しているようなので、今後ティオを襲ったりする事はないと思われた。
まあ、たとえ、男が『紫の驢馬』の目の届かぬ所でティオを襲撃しようとしても、ティオならば容易に対処出来るのは想像がついたので、その点については心配していなかった。
問題は、頬傷の男が言っている「殺すぞ」という発言をした記憶が、『紫の驢馬』には全くなかった事だった。
『紫の驢馬』は、しばし腕組みをして目を伏せ考え込んだのち、ようやくハッと気がついた。
「……ひょっとしてお前は……私が『死にたいのか?』と言ってお前を止めた事を言っているのか?」
「え?……ええ、はい。アイツに手を出したら、『殺すぞ』って事でしょう?」
「……ハアー……」
『紫の驢馬』は、さすがに額に手を当ててうつむき、長いため息を吐いていた。
「殺すぞ」という言葉は、世間一般では物騒でも、裏社会に属するガラの悪い男達の間では日常的に飛び交っている。
喧嘩の時に本気で言う場合もあるが、「テメェ、俺の飯取ったな? ぶっ殺すぞ!」「笑わせんな、腹痛ぇ、殺すぞ、テメェ!」「今度その変な服着たら殺すからな、ハハハ!」といった具合に、もはや乱暴な修飾語のようにありとあらゆる場面で使われていた。
しかし、高い知性を持ち部下に対しても誰に対しても折り目正しい態度で接する『紫の驢馬』は、軽々しくその言葉を口にする事はなかった。
そんな冷静沈着な、尊敬する頭に「殺すぞ」と言われた事は、頬傷の男にとっては、単純な性格の彼が今になってわざわざ持ち出してくる程ショックだったと思われる。
「……お前は本当に馬鹿だなぁ。」
「……は、はぁ。俺は確かにバカですけれども。」
「まあ、それはお前のいい所でもあり、悪い所でもある。馬鹿なために策を弄せず、裏表がなく、カラッとしているのは、私がお前を気に入っている部分でもある。良くも悪くも、お前がそばに居ても気疲れせずに済むからな。」
「そ、そうなんですか?……ヘヘ、ありがとうございます。親父に褒められるとは思ってなかったですよ。」
「……」
嬉しそうに頭を掻いている頬傷の男を前に、特に褒めたつもりのなかった『紫の驢馬』はしばらく言葉を失ったが……
「これだけは、正しておいた方が良さそうだな。いいか……」
ややあってから、そう言って口を開いた。
「私が『死にたいのか?』と言って、お前を止めたのは、ティオ殿のためではないぞ。あれは、お前を死なせたくなくて掛けた言葉だ。」
□
「……え?……俺を『死なせたくない』って?……ええ? ど、どういう意味ですか、親父?」
「言葉通りだ。お前が死ぬかも知れないと思って、とっさに『死にたいのか?』と口にしたんだ。『死にたくなければ、今すぐやめろ』という意味だ。」
「……俺が、死ぬ?……な、なんでですか?」
「……」
未だに『紫の驢馬』の言わんとしている事が理解出来ていない頬傷の男は、ビールの入ったジョッキを宙に持ち上げたまま、口を魚のようにパクパク動かしていた。
『紫の驢馬』は、食事中わきに置いていて充分冷めた薬草茶の入った木製のコップを手元に引き寄せ、静かに口にしながら言った。
「ティオ殿は自分でも平和主義者だと言っていたがな、むやみに人を傷つけるような人間ではない。安易に暴力や武器や乱暴な言葉を用いて、他人を脅したり従わせたりするような事はしない。我々の周りには、そういった輩が当たり前のように居るがな。……ティオ殿は、極力、人を殺めたり傷つけたりする事を避けて生きている、そういう御仁だ。」
「だが、そんなティオ殿でも、危険にさらされれば、とっさに自分の命を守ろうとして反撃してしまう事もあるだろう。その勢いで、つい、望まぬ被害を、自分を襲ってきた相手に与えてしまうかも知れない。」
「そう危惧したからこそ、私はお前を止めた。」
「……」
頬傷の男は、しばらくポカンと口を開けたまま呆けた顔で静止していたが、トンと、手にしていたジョッキを口をつけぬままテーブルに置くと、向かいの席で静かに茶を啜っている『紫の驢馬』に身を乗り出して確認してきた。
「……つまり、あれですか? 親父は、俺があの若造を攻撃すると、アイツに反撃されて死ぬかも知れないと心配して、俺と止めたって事っスか?」
「そうだ。」
「そんなバカな! アイツに、あんなヒョロヒョロの弱っちいヤツに、俺がやられる訳ないじゃないですか! アイツに俺のタマが取れる筈がないですよ!」
「……その事も、言っておいた方がいいだろうな。お前はいろいろ思い違いをしているようだと、先程からの言動で気になっていたが……」
「ティオ殿は強いぞ。」
「お前など、足元にも及ばないだろう。」
「はあ? アイツのどこが……」と言いかける頬傷の男の言葉を、『紫の驢馬』は遮るようにピシャリと言った。
「ティオ殿と対峙して、その事に気づけないお前は、実力が足りていないという事だ。」
「で、でも、アイツは、俺がちょっとナイフを向けただけで、真っ青になってブルブル震えてたじゃないですか! それどころか、ナイフもフォークも使えないって! そんな憶病者が強いなんて事がある訳ないでしょう?」
「ティオ殿が刃物を怖がっていたのは、過去に悲惨な体験をしたからだ。いわゆるトラウマという奴だな。臆病だとか、胆力が足りないとか、そういうのとはまた別の話だ。」
「お前だって、どうしたって嫌いな食べ物があるだろう? 確か、生のタマネギだったか? 無理やり食べれはするが、口に入れると吐きそうになる、不味くて不快感が凄まじい、そんな感じか? ティオ殿の刃物恐怖症は、それと似たようなもの、いや、それのもっと酷いものだ。過去の記憶の傷が深層心理に深く刻まれていて、自分の意思とは関係なく、身体が拒絶反応を示す。もっと時間が経って辛い記憶が薄れれば、あるいは改善されるかも知れないが、今はまだ無理のようだな。」
「しかし、刃物がトラウマとなった事件が起こる前には、どこかの盗賊団に所属していて、あの若さでシノギの絵図を描いていたという話だからな、相当優秀だった事だろう。当然、その頃はナイフや剣を含めて武器も扱っていたに違いない。」
「だけど、親父、どんな理由があろうと、今剣を持てないんじゃ意味ないじゃないっスか!」
「確かに武器を持つと、戦闘で発揮出来る武力は数倍になる。しかし……」
「ティオ殿は、素手でも充分強いぞ。お前相手なら、素手で簡単に倒せる。武器も要らんよ。」
『紫の驢馬』は迷いなくそう断じたが、頬傷の男はどうにも理解出来ないらしく、また、『紫の驢馬』がそこまで言いきるティオの強さを認めたくない様子で……
「そんな事ある筈ない!」「『黄金の穴蔵』には自分の護衛に『牛おろしのボロツ』を連れてきてたって話ですぜ!」
と、顔を真っ赤にして騒ぎ立てていた。
確かに、パッと見てティオを武勇に優れた人物だと思う者は居ない事だろう。
ボサボサの髪に、大きな眼鏡を掛け、全身を覆うようにボロボロのマントを羽織るという、みすぼらしい変人のような身なりをしている。
185cmを越える長身はハッと人目を引くものの、そのせいもあって、縦にヒョロ長い印象が強く、またマントで体つきが分かりずらい上に、ティオが良く猫背を装っていたりする事もあって、人々は貧弱で鈍くさいヤツだと思い込まされてしまっていた。
しかし注意深く観察すると、ティオの所作は頭のてっぺんから爪先まで、足の運びから指先の仕草一つまで、非常に洗練されていてムダがない。
『黄金の穴蔵』では、自分を非力な愚か者に見せるために、わざと身体のバランスを崩したり、手を滑らせたりといった事をしていたため分かりにくかったが……
今日『眠り羊亭』にやって来た時は、取り繕う気持ちがなかったらしく、すらりと背筋を伸ばし、堂々としつつも余裕のある動きだった。
人生のほとんどを血気盛んなならず者達に囲まれて過ごしてきた『紫の驢馬』は、そんなティオの纏う空気が、武芸の達人のみが纏うそれである事を確信したのだった。
剣の才は余りなく勢いと度胸だけで裏社会を渡ってきていた頬傷の男には、そんなティオの、波一つなく凪いだ湖面のような、研ぎ澄まされた刃のような、鋭利を極めた先の静謐な気配を感じとる事が出来ないのも仕方のない事だと『紫の驢馬』は考えて……
男にそれ以上詳しく説明する事は、ムダなのでやめてしまった。




