野中の道 #79
「親父、ここ、いいですか?」
『紫の驢馬』がアジトの食堂で一人少し早めの夕食をとっていると、頬傷の男が声を掛けてきた。
『紫の驢馬』は、一旦スプーンを止め、男に視線を向けて「ああ」と答えたのち、また黙々と自分の夕食を食べはじめる。
頬傷の男は、引き結んでいた唇の端を嬉しそうに上げて、ガタガタと椅子を鳴らしながら向かいの席に着いた。
『紫の驢馬』が食堂で食事をとる時は、余程急いでいない限り幹部であろうとも、皆気を遣っているのか、はたまた気後れするのか、食堂を使おうとしなかった。
頬傷の男は、そんな空気の中、『紫の驢馬』に声を掛けて一緒のテーブルに着いてくるような、向こう見ずとも豪胆とも言える所があり、そんな男の性格を『紫の驢馬』は気に入っていたが……
育ちの悪さからくるテーブルマナーの酷さには、たまに眉をひそめたり、目に余る場合は口を挟む事もあった。
アジトでの食事は、それぞれ違った時間帯で活動している住人も多いので、好きな時にとれるようになっていた。
住み込みで働いている熟年の男の料理人が居て、彼がたった一人でこの家での仕入れから調理まで全てをまかなっており、普段メニューは彼が好きに作っているが、リクエストを伝えれば喜んで応じてくれた。
男が休んでいる時は、厨房には持ちの良い料理が用意されていて、住人達は、そこから好きに取って食べていた。
男がこんな場所で毎日料理を作っているのは、過去にうっかり喧嘩で人を殺してしまったのを『紫の驢馬』が仲裁して助けた事に恩義を感じているためで、料理の腕自体は大きな料理店でメインを張れる程であり、住人達から彼の料理に不満が出る事はまずなかった。
男自身、仕入れの費用は好きに使って良く、自由にメニューを決められ、また、住人や出入りの者達が行儀は悪いものの良く食べるため、今の自分の仕事に満足している様子だった。
『紫の驢馬』は、男の料理の腕を惜しんで、ほとぼりが冷めた頃に王都から離れた町で店を開かせようかと考えていたがのだが、男は今の環境が気に入っているらしく、すっかりアジトに居着いてしまっていた。
住人やアジトに出入りする者達は、料理だけでなく食材自体を勝手に厨房から持っていって食べてしまう事もままあったが、男が眠っている時に自分で料理まで作って食べるのは、『紫の驢馬』ただ一人だった。
頬傷の男がやって来た時も、『紫の驢馬』はいつものように、黒パン、豆のスープ、チーズ、茹でたジャガイモ、酢漬けの瓜、それらに薬草茶を添えるというメニューを食べていた。
とても王都の裏社会を仕切る首領の夕食とは思えない質素さで、住み込みの料理人はたびたび「もっと凝った料理を食べていただきたい」と嘆いていたが、「これが健康にいいんだ」と言って、『紫の驢馬』は、いつも大体同じ料理をとっていた。
たまに魚料理を食べる事もあり、部下達との会合では皆に合わせて乾杯の時のみ酒を口にするといった感じだった。
一方で、頬傷の男は、野菜や穀類もそこそこに骨付きの子羊の肉を煮込んだ料理をメインに添えてジョッキで酒をあおっては、「美味い!」と声を漏らしていた。
とにかく腹が膨れ、味が良く、スタミナがつくものを優先しているという傾向で、その豪快な飲み食いに、住み込みの料理人もさぞ腕の振るいがいがあった事だろう。
「下町の作業は進んでいるのか?」
「あ、はい! 大工達を集めてパパッとあのオンボロ教会を綺麗にさせましたぜ! これでもう、雨風に困る事はないでしょう。毛布やなんやらも指示通りジャンジャン運び込んでます。炊き出しも始めました。噂を聞きつけて、さっそくあちこちから病人がやって来てますぜ。」
「順調ならいい。引き続き、この調子で頼むぞ。」
「はい!」
『紫の驢馬』は、頬傷の男が何か話したそうにチラチラ見てくるので、こちらから水を向けてみた。
頬傷の男の話では、どうやら幹部に指示した流行り病に苦しむ下町の住人達の救済策は、今の所良い走り出しを見せているようだった。
ティオにも、汚染された井戸の足元に赤く塗った石を置くという策を、組織が管理している厩舎を彼が出た所でちょうど捕まえる事が出来たので、手紙を渡して報告していたが……
『問題ないと思います。もし、不審な者が井戸近辺をうろついているなど、下町で目撃された場合には、こちらにご一報下さい。』
という返事をその場で口頭で貰っていた。
その他にも、ティオがドゥアルテ商会で残りの代金と引き換えに無事十二頭の馬を受け取った事や、その後、約束と通り『紫の驢馬』の組織が管理している厩舎に赴いて、十二頭の内の四頭を預け、代わりの馬を四頭連れていった事などを、部下達から既に報告を受けていた。
中でも、「良い馬だから」と敵対組織のアジトから押収して飼育していたものの、あまりに性格に難があって厩務員達が閉口していた白馬と青鹿毛の馬を、ティオがすんなり手なずけて連れていった話は、『紫の驢馬』のツボに入っていた。
白馬と青鹿毛の馬については、前々から『紫の驢馬』は「欲しい者が居るならタダで渡していい」と厩務員達に伝えていたものの、見た目の良さに惹かれて近づいても威嚇されて逃げ出す者ばかりで、今まで誰も引き取り手が居なかった。
無料で構わないと厩務員達はティオに言ったらしいが、「それはさすがに悪いです」と言ってそれぞれ銀貨百枚払っていったのも実にティオらしいと『紫の驢馬』は思った。
使えもしない管理が大変なだけの馬をいつまでも置いているのもどうかと思っていた所に、ひょっこりティオがやって来て二頭を連れていったのは、もはや運命めいたものさえ感じてしまう『紫の驢馬』だった。
(……まるで、ティオ殿の手に渡るように、私があの二頭を確保していたかのようだ。……)
(……不思議な話だ。ティオ殿が馬を欲しがっているのを知った時に、あの二頭の事が頭をよぎった。ティオ殿なら、あのどうにも手に余る荒くれ馬をなんとかしてしまうかも知れないという予感があったが、本当にあの二頭があっさり懐くとはな。一体どんな芸当を使ったのか。馬にも、ティオ殿の非凡さが分かるのか。いや、野性的な本能が強いという意味で、人間より見た目や言動に騙されず本質が見抜けるという事も考えられるな。……)
そんな事を思って、内心楽しく笑いつつも、顔には一切出さずに黙々と食事をとっている『紫の驢馬』に、向かいの席の頬傷の男が「親父」と声を掛けてきた。
視線を上げると、頬傷の男は、骨付きの子羊の肉を骨を掴んで食べたために手がソースで汚れており、ペロペロ舐めた上、服の前で拭こうとしていたので、『紫の驢馬』は眉をひそめアゴをしゃくって、テーブルの端に用意されていた濡れ布巾を示した。
頬傷の男は慌てて布巾を引っ掴み、ゴシゴシ拭いたのち、グシャグシャのままポイッと横に放って、再び「親父」と呼びかけてきた。
『紫の驢馬』は、「なんだ?」と短く問いながら、頬傷の男が放った布巾を手に取り、折り畳んでから元の位置に戻したが、男は『紫の驢馬』も手を拭いたと思っていたのか、彼が自分の粗相を正した事に全く気づいていない様子だった。
「親父はどうして、あのティオってヤツの事をそんなに買ってるんですか?」
「うん?」
「アイツは確かにちょっと勘がいいとは俺も思いましたよ。俺が手配した警備の態勢に気づいていやがりましたからね。」
「……そう言えば、お前は勝手に警備の人員を増やしていたのだったな。ティオ殿はこちらを攻撃してくるような人物ではないから、警備は最低限でいいと言っていたものを。……まあ、それはもういいか。お前に『羊屋』の警備を任せたのは私なのだからな。」
「俺は、ティオってヤツの事は全く知らなかったし、親父に何かあったらと心配で……ええ、確かに、あの野郎があの場に配置した二十人近い人間を全て把握してた事には正直驚きました。でも、たくさんの人間に取り囲まれた場所だって分かっていながら、なんの武器も持たずにのんきにやって来るなんて、アイツ、バカじゃないんスか? 頭のネジがどっか飛んでるって言うか。危機感が足りないってのは、俺達みたいな人間にとっては絶対にダメでしょう?」
「……」
『紫の驢馬』は、ティオが裏社会の人間が多く取り囲んでいる会談の場所に一人フラリといつもと変わらぬ様子で表れた理由に関しては想像がついていたが……
今はその説明はせず、ペラペラ熱心に喋ってくる頬傷の男の話を、自分の食事を進めながら聞いていた。
「まあ、親父があのティオって若造が気になるのは、少しは分かりますよ。親父は、いつも、『一生裏社会で生きていくとしても、学は無いよりあった方がいい。暇があるなら知識と教養を身につけろ』って俺達に言ってますもんね。でも、みんな、親父の話はありがたく聞いてはいても、実際はあんまり勉強してないですよね。俺は、少しは努力してるつもりです。一通り簡単な文字は読み書き出来るようになりましたもんね。でも、やっぱり、本を読むのはマジで苦手で、必死に読もうとしても、すぐに眠くなってあくびが出ちまうんですよ。……そんなヤツらばっかりだから、親父はあのティオってヤツに興味を持ったんですよね? アイツは確かに、俺達とは毛色が違って、裏社会じゃ珍しいちょっと頭の良さそうなヤツでしたからね。」
「……ちょっと?……」
「ええ、ちょっと頭の良さそうなヤツでしたよ。……でも、アイツ、『刃物が怖い』? とか言って、すぐにブルブル震えてたじゃないっスか。いくらちょっと頭がいいからって、ナイフの一本の扱えないんじゃ、結局の所、なんの役にも立ちやしませんよ。意気地のないチキン野郎ですよ。同じ男として、見てて情けなくなりますぜ。」
「……」
食べ終わった子羊の骨を手に持ってブンブン振るったり、カランと木皿に放り出したりしながら、得々と語る頬傷の男を前に、『紫の驢馬』は眉間にシワを寄せてハーッと長いため息をついた。
「……全くお前は、何も分かっていないな。一体どこから説明したものか。……」
と、片手で顔を覆って呟くと、豆のスープを掬っていたスプーンを一旦置き、膝に掛けおいていた布で口元を綺麗に拭ったのち、キョトンとした顔をしている頬傷の男に改めて向き直った。
「お前は酷い思い違いをしているな。仕方ないから、少し説明してやろう。」
「まず、第一に、ティオ殿の頭の良さは『ちょっと』などと言うレベルじゃない。」
「お前には『本当の頭の良さ』と言うものがどういうものか具体的に分からない事だろう。お前は『頭がいい』というのを『文字の読み書きが出来て、計算が素早くこなせる』程度のものだと想像しているのだろうが、それは違う。……そうだな、お前にも分かるように説明すると……」
「例えば、比類なき剣豪が居たとする。その者は、恐ろしく剣の腕が立ち、誰が相手でも決して負けず、胆力もあって、戦に出れば一騎当千の働きをする。そんな人間ならば、軍隊でメキメキ昇進する事だろう。多くの人間を部下に持ち、隊長や、あるいは将軍という地位にも取り立てられるに違いない。……まあ、正確には、剣の腕が立つ事と、部下を率いる事は、全く別の資質なのだがな。軍隊においては、『強さ』が何より優先されるものだ。確かに軍隊の頭が強ければ、部下の兵士達の志気は上がるからな。リーダーとしての働きは下手であっても、誰よりも強い人間をトップに据える事には充分意義ある。」
「少し話が逸れたが……腕に覚えがあって強ければ、軍隊で上の地位に就ける、というのはお前にも分かるな?」
頬傷の男は、そんな『紫の驢馬』の問いに対して、反らせた胸をドンと拳で叩いて自信満々に答えた。
「当然ですよ! 要するに、『剣の腕が強ければ偉くなれる』って事ですよね! どんな相手にも負けないような化け物じみた強さがあったら、そりゃあ、国の軍隊で将軍にだってなれますよ! やっぱり強さってのは、何より大事ですからね!」
「俺も、度胸は誰にも負けないって気持ちでいつもいますが、さすがに剣の強さで言ったら、俺より強いヤツはいっぱい居ますね。必死に訓練しても、どうしても届かない所があるって言うか。才能ってあると思うんスよね。俺ももっと剣の才能があったらなぁ。」
「……自分の実力を過大評価しない辺りは、お前の褒めるべき所だな。」
と、『紫の驢馬』は苦笑いを唇の端に浮かべながら零した後で、大事な事を繰り返し強調した。
「そう、この広い世の中には、驚くべき才能を持ち、凡人には到底辿り着けない領域に到達して、凄まじい強さを発揮する人間が居る。そういった剣豪ならば、軍隊や戦場で大いに活躍し、後の世に『英雄』と讃えられる事になるだろう。」
そして、更に言葉を進めた。
「ティオ殿の『頭の良さ』は、例えるなら、そういった剣豪の剣の腕に匹敵する。」
「剣豪が、その剣の強さで、将軍といった高い地位を得たり、戦場で活躍し味方を勝利に導いたり、やがて『英雄』として歴史に名を残すように……」
「ティオ殿は、その頭の良さで、一国の宰相にまで簡単に上り詰める事が出来るだろう。いや……」
「ティオ殿ならば、その気になれば、権謀術数で国を落とす事も可能だろうな。」
『紫の驢馬』は、テーブルの中央にカゴに盛られて置かれていた固茹でした鶏の卵を一つ手に取り、頬傷の男に薄い唇の片端を持ち上げて笑いかけた。
「国は、武力のみで取るにあらず。……むしろ、策謀に長けた『頭の良い』人間の方が、国取りは得意なものよ。」




