野中の道 #78
『紫の驢馬』は、水でゆすいできたペンの先を柔らかい布で丁寧に拭ったのち、机の上に置かれていた文具入れにしている寄木細工の平たい箱に収めた。
つっかえ棒をして木戸を持ち上げた窓の外に見える景色は、うっすらと夕暮れの橙色に染まりはじめていた。
『紫の驢馬』の私室は、現在使っているアジトの二階にあった。
アジトと言っても、王都の下町の一角にある一見普通の民家である。
複雑に道が入り組んだ奥にあり、周囲にあまり人が住んでいない場所を選んでいるため、日中に駆け回る子供の声や赤子のぐずった泣き声が時折聞こえる他は、下町の住宅地とは思えない程静かだった。
王都の下町では常に増改築が行われ、無秩序に雑多に住居や店舗が増減を繰り返しているが、この辺り一帯は比較的古い地区で、住んでいる人間も数十年と家族で居着いている者がほとんどだった。
王都のなわばりを狙って近郊の新興勢力や敵対組織に常に命を狙われていると言っても過言ではない『紫の驢馬』が、安全かつ静かに暮らすために選んだ場所は、やはり第一に防犯面が重要視されており、この地区ならば、見慣れない人間が出入りすると非常に目立つため、チェックがしやすかった。
もちろん、家の周囲には、『紫の驢馬』が信頼を置いている組織の人間が三百六十五日二十四時間態勢で警備にあたってもいる。
同じ家の一階に常に誰かが詰めているだけでなく、交代で周囲を哨戒し、中には、隣近所に一般人の振りで住み込んでいる者もあった。
アジトとして使われている家は豪邸には程遠かったが、外から見るよりも中は意外に広かった。
アジトらしい点としては、石と粘土で作られた塀と樹木の垣根で建物の周囲をさり気なく囲んでおり、路地から中の様子がうかがえないようになっている事と……
元々ちょっとした食料の貯蔵庫だった地下を大規模に改造して、二十人近い人間が寝起き出来る空間が作られている事だった。
何かあった時に組織の人間をかくまったり、敵対組織とやりあう時にこちらの戦士達が一時的に集合したりする時に使われえているが、ここ十年近く大規模な抗争がなかったため、現在は、武器や物資を保管する物置のような状態に半分なってしまっていたが。
一階には十人がいっぺんに食事を摂れる広めの食堂を中心に、居間、調理場、風呂場、厠等の生活スペースの他に、寝室が二部屋あり……
二階には、『紫の驢馬』の部屋を挟むように部下達の寝室が設けられ、三階にも物置や周囲の警戒監視用の部屋と共に何部屋か個室があった。
一室に二つベッドを入れたり床に寝たりもすれば、地下の隠し部屋も含めて、いざという時は四十人以上はゆうに生活出来る造りで、日々の生活の場であると共に、非常時の要塞としての要素も兼ね備えていた。
もっとも、現在は『紫の驢馬』に表立って攻撃を仕掛けてくるような大規模な組織はなく、時折なわばりの境や内側で揉め事が起こる事はあれど、長年かけて王都中に敷かれた情報網により、争いの火種は大火になる前にすみやかに摘み取られているので、数年前『紫の驢馬』がこのアジトに移り住んでから、常に出入りしている部下は十人前後といった所だった。
『紫の驢馬』の私室は、ちょうど建物の中央部分にあった。
上からも下からも最も攻め入りにくい箇所で、警備の面からこの場所以外の部屋で寝起きする訳には行かなかったためである。
しかし、部屋の中は、他の個室の二倍の広さがあるとは言え、ごく質素なものだった。
木製のタンスの中に入っている服は木綿や麻などの素材のシンプルなものが数着、ベッドも部下達と替わらない簡素な造りである。
ただ、壁際に大きな本棚が置かれており、その中にはギッシリと蔵書が詰まっていて、『紫の驢馬』の勤勉さをうかがい知る事が出来た。
また、部屋の中央の書き物用の机は、滑らかに磨き上げられ天板が厳かな光沢を発する見事なもので、ペンやインク、紙などといった備品も高価なものが一式取り揃えられていた。
これは、『紫の驢馬』が高級志向だった訳ではなく、使用感の良いものを突き詰めていった結果、値の張るものになってしまっただけだった。
『紫の驢馬』は、そんな使い慣れた自分の机の前の椅子に腰をおろし、書き上げたばかりの書面に誤りがないか慎重に確認した。
それは、昼間にティオが書き起こして『紫の驢馬』に手渡していった、流行り病の対処法と、汚染された井戸の位置が書かれた地図を、丁寧に書き写したものだった。
□
『紫の驢馬』は、ティオとの会食を終えると、すぐにアジトへと戻り、幹部に招集を掛けた。
それは、他でもない、ティオからもたらされた流行り病の対処法を、早急に下町で実践するためだった。
『紫の驢馬』は、下町を幾つかの区域に分け、集まった幹部達をそれぞれ最も馴染みの深い場所に担当を振り分けると、汚染された井戸の使用禁止を住民達に漏れなく伝えるよう指示を出した。
その会議において、幹部の一人から「下町の住人には、口頭だけでは、使っていい井戸といけない井戸の区別がしにくいのでは?」との意見が出て対処を考える一幕があった。
ティオからの希望は、「王都の井戸を汚染している者達が、自分達の手口がバレていると気づかないようにしてほしい」との事であった。
それを考慮すると、井戸に蓋をしたり、井戸の側に目立つ看板を立てたりする事は出来ない。
そこで、幹部達と様々な案を出しあった結果、「汚染された井戸の足元に、赤く塗った石を置いておく」という方法が決まった。
「赤い石の置いてある井戸は使わないように」と伝えておけば、学のない下町の住人もさすがに間違える事はないだろうし、王都に潜んでいる敵は、おそらく下町の事情には詳しくない、貴族に通じる富裕層である事から、石が置かれている程度では変化に気づく事はないと思われた。
とりあえずこの案を採用し、『紫の驢馬』は幹部達をそれぞれの担当区域に向かわせ、念のため、後でティオに事情を伝える手紙をしたためる事にした。
『紫の驢馬』は、更に、流行り病への対処として、下町にある今は使われなくなっていた光の女神教の教会の内部を片づけさせ、そこに流行り病を発症した人間を集めるように指示を出した。
病がこれ以上広がらないように、患者を隔離して治療を施すためだった。
発症した者は誰でも連れてくるように住民に伝え、そこでの治療に必要な人員や衣料品、食料などは、『紫の驢馬』の組織が全面的に提供する事とした。
『紫の驢馬』は、下町の医者達に声を掛けると共に、物資や食料等を調達する命令を矢継ぎ早に部下達に出していったが、身銭を切ってまで住民を助ける行為に、あまりいい顔をしない者も中には居た。
しかし……
「我々の生業は、彼らの生活の上に成り立っているのだ。こんな時に、人々を助けないでどうする。この街の住民が豊かになれば、我々が受け取る上がりも自然と増えるものだ。これは単なる慈善事業ではない。しかし、自分が金を貰っている者達の生活を思いやる気持ちがない者は、裏家業の人間として失格だぞ。」
そんな『紫の驢馬』の言葉に、「さすが親父だ!」と感銘を受ける者もまた多く居た。
結局、鶴の一声で、下町の流行り病の患者への支援は決まり、部下達は忙しく立ち働く事となった。
こうした、貧しい弱者達からただ搾取するだけでなく、地域の生活や社会に深く根づいた活動が、『紫の驢馬』の名が下町の人々に畏敬の念を持って語られる由縁だった。
国王の敷いた法規だけでは手が回らず、無秩序に犯罪が横行しがちな下町に住む住人達にとっては、裏社会の首領である『紫の驢馬』とその組織が睨みを聞かせているおかげで、むしろ一定の秩序が保たれている。
よそ者やあまりに乱暴な無法者が暴れるような事があった時は、組織の人間に助けを求める事が出来たし、土地や金を巡って住民どうしで揉め事が起こった時は、『紫の驢馬』に調停を仰ぐのが浸透していた。
確かに、彼らの働いて稼いだ金は、繁華街で散財して吸い上げられたり、店を営む者はみかじめ料や上納金として組織に売り上げの一部を納めていたが、貢いだだけの効果が確かにある事を、下町の住民達は良く知っていた。
そういった意味では、厳しく税金を取り立てるものの、自分の生活のどこにその見返りがあるのか実感出来ない王国の政治よりも余程信頼されていた。
もちろん、『紫の驢馬』の組織は裏社会の人間達であるので、逆らえば闇に葬られるという恐怖が常につきまとうものではあったが。
『紫の驢馬』は、流行り病への対策を組織の人員に浸透させるのと同時に、もう一つある情報を共有させた。
それは、傭兵団の作戦参謀であるティオに対する内容だった。
「これからも、今まで通り、我が組織が表立って戦争に加担する事はない。しかし、今日の話し合いで、ティオ殿と情報を交換する事が決まった。ティオ殿や傭兵団の人間とは敵対せず、もし顔を合わせるような事があれば、友好的に接するように。」
「特に、ティオ殿は、今回流行り病を収める方法を我々にもたらしてくれた恩人であるから、決して失礼のないようにな。」
『紫の驢馬』は、集まった幹部達に、傭兵団の作戦参謀というティオの肩書きと名前や容姿を覚えさせ、また、組織の下の者達にも彼を丁重に扱う事を徹底させるよう指示を出した。
義理人情を重んじ、「義理には義理を」「礼節には礼節を」「恩には恩を」返すよういつも部下に言い聞かせている『紫の驢馬』の言葉を、幹部達は真剣に聞いていた。
……ただ、昼の会食の場に同席していた頬傷の男は、うなずきながらも、ティオへの不快感からしかめっ面を隠せずにいたが。
こうして、『紫の驢馬』は、ティオと約束していた、情報交換の仕組みも整えた。
「傭兵団の作戦参謀ティオ」の名で『黄金の穴蔵』の「支配人」宛てに手紙等の連絡が入ったら、即座に自分に知らせるようにと命じ、部下達はその指示通りに動く事となったのだった。
□
(……それにしても、なんとも見事な筆致だ。……)
『紫の驢馬』は、自分が書き写した書面のインクが完全に乾くのを待つ間、ティオの原本を手に取ってしげしげと見つめた。
受け取った時から、書き写していた間は特にずっと見続けていたが、褪せる事なく感嘆の気持ちが込み上げてくる。
文字を書かない人間にも、その伸び伸びとしつつも端正に整った形状は何かしらの美を感じさせるものであっただろうが、『紫の驢馬』のように、半生をかけて文字を書き続けてきた人間には、ティオの文字の驚異的な美しさが理解出来るために、ただただ圧倒されるばかりだった。
特に『紫の驢馬』は、実際にティオが目の前でペンを走らせている姿を見ているため、そのあっけない程にサラサラと、なんの力みもなく一見簡単そうに短時間で書き上げた事実を思い出して、尚更戦慄を覚えた。
ティオの文字は、無駄なく、隙なく、過不足なく書き連ねられており、ティオ自身は綺麗さを意識せずに書いていようとも、そこには自然と完成された機能美が宿っていた。
例えるなら、名工が長年培ってきた匠の技で完璧に鍛え上げた刃だけが持つ、研ぎ澄まされた鋭い光のようなものである。
また、その洗練された線と点の集合の内には、良く良く観察すると、ティオという青年の持つ、溌剌とした生命力と精緻な知性が感じられた。
実務的な内容を淡々と綴っただけの書面だったが、それでも、『紫の驢馬』は、額に入れて飾っておきたい衝動に駆られていた。
先程は、急ぎ部下達に指示を伝えるにあたり、ティオが書いたものをそのままテーブルに広げて使ったが、汚したり折ったりといった事態が気になるため、時間のある時に複製しておこうと思い、会議の後にさっそく私室にこもって書き写していたのだった。
自分が書き写したものとティオの原本を見比べると、決して下手ではないものの自分の筆の鈍さに劣等感を禁じ得なかったが、使う分には書き間違いさえなければ問題はない。
『紫の驢馬』は、これから先は自分が書いたものを使用するとして、ティオから受け取った方は、机の一番大きな引き出しにそっとしまった。
こちらの方は、余裕のある時に、長期保存出来るよう板に止める加工をしておこうと考えていた。
(……この文字の上手さだけでも、王宮の文官として十二分に活躍出来る事だろうに。……)
と、『紫の驢馬』は、内心嘆息しながらひとりごちる。
しかも、ティオは、この書面の内容を、『紫の驢馬』がしたようにただ書き写したのではなかった。
彼は、現在ナザール王都に蔓延して人々を恐怖に震わせる流行り病の原因をすみやかに特定し、その治療や対処法への正しい知識を『紫の驢馬』に示した。
それだけでなく、王都の下町の地形と井戸の状況と位置も独自に調べて熟知していた。
この、流行り病への対処法が書かれた書面と、汚染された井戸の位置が描き込まれた地図は、彼の頭の中に当たり前のようにある知識や記憶から淀みなく抽出され具現化されたものであった。
その豊富な知識と、それを効果的に扱うだけの高い知性、そして、煩雑な下町の地形を調べて完全に把握する程の驚異的な情報収集能力と情報分析能力。
ティオは、流行り病に関する情報を『紫の驢馬』に受け渡す際、「情報は、その価値を知り、正しく使いこなす人間が持たねば意味がありません」と言っていたが……
ティオこそが、まさにその言葉を体現する人間であるように『紫の驢馬』には思えるのだった。
(……いや、ティオ殿の器は、こんな田舎の小国で王宮勤めをするには収まりきらない。……)
(……一体、彼が居るに相応しい場所は、この世界のどこにあるのだろうな。……)




