野中の道 #72
「今から、そこに書き出した内容をザッと説明します。ご老人なら、文章に目を通せば分かる事とは思いますが。……あ、次の書類を書き出す作業をしながらになる不作法をお許し下さい。」
ティオは書き上がったばかりの文書を、テーブルの上に身を乗り出す格好で向かいの席の『紫の驢馬』に手渡すと、引き続き新しい紙を一枚板にセットし、インク壺に休めていたペンを手に持った。
そして、また、カリカリと小気味いい音を立てながら書き出し、その勢いを緩める事なく、同時に『紫の驢馬』に向かって喋りだした。
「それは、流行り病の症状が出た時の対処法です。」
「病の治し方、と言う事ですか?」
「そうですね。治療法と、その時看病する人間が注意すべき点。そして、流行り病の予防の仕方についてです。」
「確かに、流行り病に罹っても、症状が軽い者はしばらくして回復していますが……ここに書かれている通りにすれば、全員治す事が出来るという事ですかな?……注意事項? 予防?……これは?」
「一つずつ簡単に説明します。……詳しくは、そこに書かれた説明を後で読んでみて下さい。」
『紫の驢馬』が渡された書類に目を落とすと、まず、番号を振って箇条書きで項目が並び、その下に、番号に対応した細かい説明が書き込まれていた。
『紫の驢馬』のように、文字も読め複雑な内容も理解出来る人間は、説明を読んで詳しく理解する事も可能だろうが、彼の組織に所属する部下達や下町の人間の大半は、文字の読み書きが出来ず、難しい内容を頭に入れるのが困難な者も多かった。
そんな彼らには、理解はさておいて、単純に箇条書きにされた部分を丸覚えさせて徹底させ……
一方で、『紫の驢馬』のように指示を出す立場で、読み書きが出来、文書の内容を理解可能な人間は、詳細な説明部分も適宜読んで把握する、という二つの方法が取れるようになっていた。
「まず、今このナザール王都で蔓延している流行り病は、主に汚染された水や食品を口にする事で罹るものです。」
「汚染された……というと、毒、という事ですかな?」
「正確には違います。ある種の細菌……目に見えないとても微細な生物が原因です。カビは日常生活で良く見るかと思いますが、あれよりももっと小さなものだと思ってもらえればいいでしょう。多少ならその細菌を口にしても健康を害するまでには至らないのですが、その量が多くなると体調を崩してしまうのです。その問題となる細菌が害を及ぼす程に増殖した状態を『汚染された』状態と言っています。」
「ほ、ほう。」
「しかし一般的に『汚染された』状態の水や食品であっても、免疫力の高い、要するに『元気で身体が強い』人は、その許容量が多く、多少摂取してもなんともなかったり、症状が出ても軽く済みます。一方で老人や小さな子供のように体力のない人は、少量でも酷く症状が出るという事態が起こります。これが、発症するかしないかや、症状の重さの個人差を生んでいるのです。同じ食べ物を食べても、倒れる人間とそうでない人間が居る、という訳です。」
「フムフム。」
「ですが、まあ、汚染された状態の物は、どんなに体力に自信があっても極力口にしない方が良いでしょうね。」
「つまり、流行り病の症状が出た人間が飲んでいた水や食べていた食物と同じ物は避ける、という事ですかな?」
「そうですね。……その事に関しては、後で予防についての話の中でまたお話しします。」
「先に治療法と、その時看病する者や周りの人間が注意すべき点について説明します。」
ティオは、一旦手元の紙に視線を落とし、シュシュッとバツ印を書き加えたのち、視線を『紫の驢馬』に戻して続けた。
『紫の驢馬』はティオの話に真剣に耳を傾けながら、彼のペンの動く先をチラと見遣ったが、どうやらティオは、今度は文章ではなく、何か地図のような物を描いているようだった。
「この流行り病は、症状として、激しい下痢と嘔吐が特徴敵です。」
「この症状が出たからといって、全員が全員亡くなる訳ではないのは、ご老人も既にご存知の事かと思います。先程も言った通り、体力のある人間は、しばらくふせっても回復しますが、問題は老人や子供など体力のない人間で、下痢と嘔吐の連続で体力を消耗し、中には命を落とす者も居る事でしょう。」
「しかし、基本的に余程元々身体が弱っていない限り、そして、症状が出た時に早急かつ適切に対処すれば、回復は早まり、重症化や死亡の割合はグッと抑えられるでしょう。」
「そ、それは大変助かりますな!」
「そこで、症状が出た時の対処法ですが、下痢と嘔吐により体内から大量に水分が失われるのが一番大きな問題です。安静にさせて、充分に水分を摂らせます。その時に飲ませるのは、水に塩を溶かした物……出来れば砂糖や蜂蜜を入れるといいんですが、高価なので、無理ならば、酢か柑橘系の果実の絞り汁を入れて作って下さい。分量の方は、その紙の下の方に書いておきました。……そして、後は下痢や嘔吐をしたら、拭いたり着替えさせたり、清潔に保って安静にする事ですね。しばらくすると、体内から汚染された成分が排出されますから、そうしたら、麦粥など消化の良い物から始めて、少しずつ栄養のある食事を摂るようにしていけば、徐々に体力が回復すると思います。回復期に摂るべき料理なども書いておきましたので、参考にして下さい。」
「……意外と難しくはないのですな。何か、特別な薬でも飲ませるものかと思っていました。」
「効果のある薬草の種類と使用方法も書いておきました。主に殺菌と体内浄化、滋養強壮の効果があるものですね。王都の市場でも簡単に手に入るので、余裕があれば検討して下さい。……しかし、治療の基本は、安静にさせて充分水分を補給をさせ、汚れた衣服を着替えさせたり身体を拭いたりする事になりますね。」
「ただ、この時、看病にあたる人間は、注意しなければならない事があります。」
「先程、この流行り病は『汚染された水や食品が原因で、これらを口にする事で病に罹る』と言いましたが、実は病に罹った人間の便や吐瀉物は、酷く『汚染された』状態になっています。なので、看病にあたる者や、周囲の人間は、決してこれらを口にしない事です。まあ、わざわざ口に入れたりはしないでしょうが、便や吐瀉物が手についた状態でうっかり何か食べ物を掴んで口に入れたりすると、その人間も感染してしまいます。『二次感染』と呼ばれる状況です。」
「それを防ぐために……まず、症状が出た人間は、すぐに隔離して下さい。他の家族、体力のない子供や老人が接触して感染が広がらないようにするためです。次に、看病にあたる者は、患者の便や吐瀉物を処理する必要が出てきますが、その後はしっかり手や腕を洗う事。そして、同様に患者の衣服や身体を拭いた布、寝かせていたシーツなどは、汚染されているものと考えて、良く洗濯をしたのち、更に煮沸消毒して下さい。食事に使用した器なども同様に、湯を沸かしてその中にしばらく漬けておけば、菌は死滅します。汚れの余りに酷いものは、捨てた方が無難かも知れませんね。」
「この、隔離、洗浄、消毒を怠ると、患者の周囲に居る者や看病にあたっている者も感染して、みるみる病が広がりますので、良く良く注意して徹底させてもらいたいです。」
「……な、なるほど。確かに、一人が倒れると、はじめは元気で看病にあたっていた者もバタバタと倒れていっていたのはそのせいでしたか。怖がって症状の出た者を放置し、見殺しにしてしまった場合も多かったですな。」
「この流行り病は、汚染されたものを口にしなければ罹りません。病に倒れた人間のそばに居ても、触れても、それだけで移るという訳ではないのです。その特性を知って注意深く看病すれば、二次感染も防げて、助かる人も増える事でしょう。確かに注意は必要ですが、むやみに恐れる必要はないのです。」
「慎重に、注意深く、だが、恐れず、ですな。しかと心に留めておきましょう。」
『紫の驢馬』は、ティオから受け取った文書に書かれた、「治療」の項目を見つめながら、胸に刻み込むように何度もうなずいていた。
□
「そして、続きはこちらを見ながら説明させてもらいます。……どうぞ。」
そう言ってティオが『紫の驢馬』に手渡してきたのは、続いて書き上がったばかりの紙だった。
まだインクが濡れているのに気をつけながらのぞき込むと、そこには先程チラと見た通り、地図が描かれていた。
「……こ、これは!……」
「この王都の地図です。と言っても、一部だけですが。繁華街や貧民街をはじめとした、ご老人の力が強く及ぶ下町に絞っています。」
「……」
『紫の驢馬』はしばし、ティオの描いた地図を手に絶句していた。
王都の下町は、この街が出来てからの人口の増加と共に、無計画に無秩序に建築、増築を繰り返した結果、道が非常に入り組んでいる。
また、貧しい人々が大量に肩を寄せ合うように住んでいるため、小さな家々がゴチャゴチャと密集して立っている場所も多かった。
この王都の下町を長年自分の庭としてきた『紫の驢馬』でも、じっくり確認してみない事には詳細まで正否は分からなかったが、ティオがスラスラと迷いなく短時間で描き上げたその地図は、恐ろしく良く出来ていた。
方角、距離、道と水路の位置、建物の形や大きさや数……
路地や水路を辿るように周囲の地形を描いた上で、目印になる建物や大きな木などが描き込まれており、所々店の名前が記されていた。
細か過ぎず、大雑把過ぎず、必要な情報がすんなりと頭に入ってきた。
(……確か、この靴屋はつい一ヶ月程前に出来た筈だ。私が持っている地図には記載されていない。これは最新版の地図か。……)
『紫の驢馬』も、王都の下町を根城に自分の傘下の組織を動かすにあたって、何枚か地図を持っていた。
正確に言うと、王都と言っても、大通りに面した立派な商店が連なる東地区の辺りや、豪華な貴族の屋敷が立ち並んでいる中央区の辺りなら、まだある程度細かい地図は作られており、稀に店で売られていた。
しかし、他は「鍛冶屋街」「大工街」「繁華街」など、その地区の特色によりザックリと位置が示されているのみだった。
そう、下町の詳細な地図は無かったため、『紫の驢馬』は、必要に迫られて、地図製作を専門とする者を何人も雇い、自分専用に作らせていたのだ。
そして、住人の出入りが激しく絶えず変化していく下町の様相を把握するために、その地図は何年かごとに作り直す必要があった。
ティオが描いた地図は、『紫の驢馬』が今まで手にしたどの地図よりも正確かつ、情報が整理されていて非常に見やすかった。
(……この下町の地図は店では売られていない。と言うか、そもそも無い。……私が特別に作らせ部下達と共に使っている地図を、ティオ殿がなんらかの方法で手に入れた、とは考えにくい。それに、この地図は、私の使っているものとは明らかに様相が異なる。……)
(……となると、やはりこれは……ティオ殿が自分でこの街を歩いて把握した地形を描きだしたものか。……)
(……しかも、なんの資料も見ず、あっという間に描き上げていたのを見るに、ティオ殿の頭の中には、これと同じものが丸ごと入っている事になる。……)
(……い、いや、実際ティオ殿の頭の中には、もっと詳細なものが入っているのだろう。これはあくまで、私に説明するために、分かりやすく目印だけを描き出したもの。……それでも、私の持っている地図より正確で詳しいとは!……)
『紫の驢馬』は、今ティオに説明を受けていた王都に蔓延する流行り病の事を思わずしばし忘れ、ティオの驚異的な情報収集能力と情報分析能力に、改めて呆然となっていた。
(……こんな調子で、おそらく王都中を把握しているとなると……私が見つけられずにいたお尋ね者の潜伏先をいくつも知っていたのも頷ける。この『眠り羊亭』の名を聞いただけで、迷わずやって来れたのも当然か。この下町を目をつぶってでも歩けそうな勢いだな。……)
(……うん? この印はなんだ?……確か、この場所には……)
はじめは、ひたすら感嘆して地図に見入っていた『紫の驢馬』だったが、その地図上に点々と何かが記されているのに気づいた。
その小さな丸とバツで示されているものが何なのかと、『紫の驢馬』が眉間にシワを寄せて考えていると、尋ねるより前にティオが自分から解を口にした。
「地図に描き込んだ丸とバツは、この下町にある井戸です。」
「……井戸?」
「はい。そして、丸で描いた井戸は、使用可能な井戸。バツで描いた井戸は、使用不可の井戸です。」
「し、使用不可とは? これらは、現在も住民が利用しているものではないのですか?」
「ええ。しかし、バツをつけた井戸は、即刻使うのをやめてもらいたいのです。」
「それらの井戸は、『汚染された』井戸です。」
「その井戸の水を飲んだり、料理等で使って口にすると、流行り病に罹る事になります。」




