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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第十三章 野中の道 <第七節>補佐の矜持
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野中の道 #53


「しまっ……」


 おそらく、男は「しまった!」と言いそうになったのだろう。

 しかし、ギリッと奥歯を噛んで、喉から出かかっていた言葉を飲み込んでいた。

 いかにも非力そうな無抵抗のチェレンチーに対し、一方的に激高し怒鳴りつけた上、思わず殴り飛ばしてしまった男は、床に倒れ込んだチェレンチーの姿を見て、自分が暴力を振るった事実を実感し、罪悪感を覚えたようだった。

 だが、現在チェレンチーに「支払い金額を上げろ」と要求を飲ませようとしている真っ最中であるため、弱気な所は見せられず、慌てて眉を吊り上げた怒りの形相を取り繕っていた。


 また、男は、騒ぎを聞きつけて他の誰かが駆けつけてきはしないかと、開いていた窓の外に目を走らせ、ドアの外の音に耳を澄ませている様子だった。

 幸か不幸か、現在傭兵団の団員達は全員兵舎から出払っていて、訓練場や近衛騎士団の馬場で訓練に集中していたため、会議室の状況に気づく者は一人も居なかった。


(……僕を思わず殴ってしまった事に動揺している。カッとなりやすい所はあるけれど、根は小心な人なんだろう。……)


 チェレンチーは床に倒れ込んだ状態で殴られた頬を押さえながら、男の様子を冷静に観察していた。

 殴られた際に口の中が切れたらしく、口内に不快な血の味が広がってきたが、眉をしかめるのみで、何も言わずにこらえていた。

 戦闘経験はないに等しいチェレンチーではあるものの、幼い頃から十歳上の腹違いの兄にいわれのない暴力を日常的に振るわれてきたため、殴られた事に対するショックは薄かった。

 殴られ慣れている、という自分の耐性を皮肉に思いつつも、今回はそんな経験が役に立って冷静さを保つ事が出来ていた。


 チェレンチーの脳裏に、男が訓練場の端で自分を待っていた時の様子が思い浮かぶ。

 「エイヤーッ!」「ウオーッ!」と掛け声も勇ましく戦闘訓練に精を出している傭兵団の団員達の姿を前に、男は肩をすくめて落ちつきなくキョロキョロと辺りを見回していた。


(……屈強な傭兵団員達が一緒の場面なら、いや、一対複数なら、彼はここまで強気になれなかっただろう。相手が僕一人だから、他の人間の気配がしないこの兵舎の奥の会議室に二人きりだから、思わず気が大きくなってしまったんだ。……まあ、僕は見るからにひ弱そうだからね。ハハ。……)


 ボロツならば、即座に殴り返すか、それ以前に男は彼を恐れて元々手など上げてこなかったに違いない。

 ティオも、また、のらりくらりと、物理的にも口先でも男をかわして巧みに切り抜けた事だろう。

 チェレンチーは、こういった状況で二人のように上手く対処出来ない自分を頼りなく思ったが……

 今のチェレンチーは、そんな自分を決して悲観してはいなかった。


(……僕が二人のように出来ないのは当たり前だ。そんな自分の力のなさを嘆いてもはじまらない。……)


(……僕は、僕に出来る事をしよう。そして、なんとか一人でこの場を丸く収めなければ。……)


 チェレンチーは、痛む体をなんとか起こして、再び椅子に腰掛けた。

 ポケットからハンカチを取り出し、口の端に滲んだ血をぬぐうと、立ち尽くしている男に向き直き直り、手の平で空いている席を指し示した。


「どうかお掛け下さい。話をしましょう。」

「……は、はぁ? この状況で話をする? お、お前、頭がおかしいじゃないのか?」


「そ、そんな事より、金だ、金! さっさと金を出せばいいんだよ!」


「俺は聞いたぞ! お前ら傭兵団が、有名な賭博場で大勝ちしたってな! 今ここには、目玉が飛び出るような大金がある筈だ! 俺達庶民が一生汗水垂らして働いても手に入らないような大金がな!」


「だったら、たった銀貨五十枚なんて、お前らにとってははした金だろう? 俺に渡したって何も困りゃしないだろう? と、とっとと出しやがれ!」

「……」


 チェレンチーは椅子に座った背を正し、テーブルの上に置いた指を組んで、ジッと男を見つめた。


(……三日前の『黄金の穴蔵』での出来事を、この人は噂で聞いて知っているんだな。……まあ、あの夜ティオ君がたった一晩で金貨一千枚以上も勝った一件はかなりセンセーショナルな出来事だったから、騒ぎになるのも納得だけれど。……)


(……それにしても、繁華街に出入りしなければ耳に入ってくるような類いの噂じゃない。要するに、この人は、この数日の内に繁華街に行っていたという事になる。……)


(……うん、大体見当がつくな。……今日、この人が傭兵団の兵舎にやって来て、明日納品する武具の代金の値上げを訴えてきたのは、金に困っているからだ。しかし、金欠の原因は、さっきこの人が言っていた『依頼された武具の作成に予想以上にお金がかかってしまった』というものではなく……おそらく、繁華街で作った賭博の借金だろう。そして、その繁華街で、傭兵団の人間が『黄金の穴蔵』で大金を稼いだという噂を聞いて、それならばとここに金策にやって来た。そんな所だろうな。……)


(……まあ、個人交渉による値段の釣り上げは契約違反だし、大金があるなら簡単に金を引っ張れると思われているのだから、傭兵団がなめられているのは間違いないんだけど。……)


 チェレンチーは握っていたハンカチをズボンのポケットにしまうと、改めて、静かな眼差しで真っ直ぐに男を見た。


「話をするのが、私の仕事です。」


「私は、ご覧の通り、あまり体力に自信がなく、剣を取って戦う事も得意ではありません。しかし、そんな私にも、この傭兵団においての役目があります。それは、こうして外部の方と話をする事です。事務仕事が主ですが、上司だけでは手が回らない部分の仕入れの交渉は、こうして私が務めています。ですから、あなたともきちんと会話をして、納得していただく。それが、今私がすべき仕事なのです。私は傭兵団における自分の仕事に誇りを持っています。この仕事を真剣に務め上げなければという責任も感じています。……話をしましょう。どうかお座り下さい。」


 男に殴られた直後だというのに、チェレンチーには動揺した様子も不機嫌になった様子も微塵も見えなかった。

 それどころか、今までと変わらない物腰柔らかな態度の奥に、どこか揺るぎない信念のようなものを感じさせていた。

 結局、鍛冶師の男は、チェレンチーに圧倒されて黙り込み、チッと舌打ちしながらも、自分が先程蹴倒した椅子を直して、再びテーブルに着いた。


「まず、あなたのお姉さんのお話は、とても痛ましい事件だと思います。しかし、それは、傭兵団の人間が犯した犯罪ではありません。その件について、我々が責められるいわれはないと思います。身内が傷つけられていたたまれないあなたの気持ちは理解いたしますが、どうか冷静な判断をお願いします。」


「確かに、我々傭兵団には、入団するまではゴロツキやならず者と呼ばれていた犯罪者崩れの者も多く居ますし、中には実際犯罪歴のある者も居ます。しかし、傭兵団の団員を募集する際、このナザール王国の国王陛下より、身分や生い立ち、これまでの賞罰にこだわらないという方針が決定されました。長引く内戦で戦場で戦う兵士が足りない状況を打開するために、かつて犯罪を犯した者であっても心を入れ替えて国のために戦うならば、兵士として雇い入れる、という訳です。私ども傭兵団の団員達は、今は皆、身近に迫った戦いのため、日々一意専心訓練に励んでいます。そして、近日中には、この国のために命を賭して前線で戦う事になるでしょう。」


 チェレンチーは、テーブルの上で組んだ指を一際強くギュッと握りしめ、一つ一つ力を込めるように言葉を発した。


「あなたが、そんな私達の事をどうしても気に入らない、自分の作った武具を卸したくない、そう言うのならば、仕方ありません。取引は解消させていただきます。手付金としてお支払いした金を返却の上、契約を破棄する旨を鍛冶屋組合にお伝え下さい。後は組合の担当者とこちらで手続きを済ませますので、今日はもうお引き取り下さい。」

「お、おい! いいのかよ? 俺が作った武具を収めなかったら、アンタらは困るんじゃないのか?」

「ええ、予定していた数が揃わずに、困りますね、確かに。しかし、嫌だという方に無理に仕事を押しつける事は出来ませんので、諦める他ありません。後の埋め合わせの方はこちらで考えます。もう、あなたには関係のない事です。組合の取引からあなたが抜ける件は、私の方から上司に伝えておきます。」

「……グウッ!……」


 チェレンチーは一旦言葉を切り、少し間を置いてから続けた。


「私達傭兵団は、正規兵ではありませんが、今はこの国によって雇われ国のために戦う組織です。確かに、傭兵団の団員隊の過去は決して世間に誇れるものではないでしょう。しかし、今は皆、犯罪に手を染める事もなく、一丸となってこの国のために戦おうと真剣に努めています。傭兵団は国に認められた組織であり、そこに属する我々も皆、誇りを持って自分の任務に向き合っているのです。それは、鍛冶師として自分の仕事に誇りを持つあなたと、なんら変わらないのではないのではないでしょうか? 今の我々には、国民からさげすまれるいわれはありません。まして、傭兵団だからと言って、取引の契約を軽んじて金額を釣り上げようとするのは、道理の通らない失礼な行為です。そもそも、これは、鍛冶屋組合を通して契約書も取り交わした正式な商談でもあります。たとえ我々が何者であろうとも、商売の上で正式に決まった約束を一方的に反故にするのは、重大なルール違反ではないのですか?」


「あなたは、今傭兵団には大金があると聞いてここに来たようですが、その金は私の上司が傭兵団のために大変な苦労をして工面したものです。そして、その金は、戦場で使う事になる武具や様々な物品を買うためのものです。要するに、我々の生命線となる大事な金です。私は、その大事な金を預かる立場にあります。傭兵団の、仲間の命を預かっている訳です。そんな大事な金を、仲間の命を預かる立場の私が、正式な手続きを踏まずに独断で使用する訳にはいきません。傭兵団の予算は、銅貨一枚たりとも無駄には出来ません。」


「そう言った訳で、商品の金額を上げてほしいというあなたの要求には応じられません。ですが、あなたが我々と取引をしたくないと言うのでしたら、それを拒否する事は出来ませんので、契約を破棄して下さって構いません。我々としても、心の中で傭兵団をさげすみながら嫌々作った方の武具よりも、私達の事を真剣に考えてしっかりと作ってくれた方の武具を身につけて戦う方が心強いものです。」


「私の方からは以上です。納得いただけたのなら、お引き取り下さい。私の方も、出兵が間近に迫ったこの時期、いろいろとやるべき事があり忙しい身の上ですので、これ以上時間を取られたくありません。」


 最初は勢いの良かった男だったが、いつしか肩を落とし、深く顔を伏せて黙り込んでいた。

 傭兵団員の中ではかなり異質に見える童顔で腰が引く礼儀正しいチェレンチーだったが、チェレンチーの話を聞く内に、彼の中にも、傭兵としての強い信念と覚悟がある事を、鍛冶師の男は思い知らされたのだろう。

 実際に戦場で共に戦う事はなくとも、チェレンチーもまた、まぎれもなく傭兵団の一員であり、仲間であり、心は皆と一緒に戦っているのだと。

 緊急に金を補填したくて、賭博で大金を得たという噂の傭兵団を訪れ、対応に出た人物が人当たりのいい優しげなチェレンチーだったため、これ幸いと脅す勢いで強気に出た男だったが、今はそんな自分の考えが甘かった事をつくづくと噛みしめていた。


 チェレンチーは男が黙ったのを見て取って、退出しようと静かに椅子を引き立ち上がった。

 そして、ふと、うなだれている男に、思い出したように声を掛けた。

 その声色は、つい先程まで傭兵団の作戦参謀補佐として対応していた時よりも、一段柔らかなものに変わっていた。


「これは個人的な話になりますが、あなたはとても良い鍛冶の腕をお持ちですね。今回は取引出来なくなり、大変残念に思います。しかし、これから更に鍛冶師としての仕事をこなし経験を積まれれば、きっと将来はもっと良いものを作れるようになる事でしょう。一個人として、あなたのこれからの仕事に期待しています。」

「……え? お、俺の鍛冶の腕が分かるのか? 組合を通して何十人も鍛冶師が注文を受けてるだろう? 一人一人覚えてなんて……」

「覚えていますよ。見本としてあなたの打った胸当を見させてもらい、上司と相談の上、今回武具を発注する鍛冶師の一人に入れてくれるよう組合の担当者に頼んだのですから。戦場で傭兵団の兵士の命を預ける武具ですから、鍛冶屋街の組合に属する鍛冶師の中でも特に腕の良い方にお願いしたかったのです。あなたの作った武具は、あなたのお父さんやお兄さんの作ったものに比べると、まだ経験の浅さ故に荒い部分も感じられましたが、それでも申し分のない出来で、妥協のないとても丁寧な仕事だと思いました。また、将来の伸び代も感じました。」

「……お、俺の鍛冶の腕を買ってくれてたのか。し、知らなかった。……」

「ですが、もったいない事です。それだけの腕を持っていながら、取引の契約を軽んじるのは、やめた方いいと思いますよ、余計なお節介かも知れませんが。職人としての腕と、商売の上での信用は、また別物です。どんなに腕が良くいいものを作れたとしても、取引相手の信頼を裏切るような事をしては、せっかくの腕が台無しです。信用第一として、誠実な商売をされた方がいいかと思います。そうすれば、派手に儲かる事はなくとも、少しずつ客が増え、いずれは、あなたの腕に見合った評価を広く世間から得られる事でしょう。」

「……うっ!……グウゥ……」


 男は、粗末なズボンの上でググッと爪が食い込む程強く拳を握りしめていた。

 深くうつむき、クシャクシャにしかめて真っ赤になった顔から、ポタ、ポタタ、と熱い涙がテーブルの上に落ちていった。


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