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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第十三章 野中の道 <第七節>補佐の矜持
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野中の道 #51


「それじゃあ、皆さん、乗馬の練習を続けましょう。ティオ君みたいに格好良く馬を乗りこなせるように、頑張りましょうね!」


 青鹿毛の馬を駆って『月見の塔』へ偵察に出掛けるティオの姿を見送ったチェレンチーは、笑顔でパンパンと手を叩いて皆の意識を自分に集めた。



 ティオが居ない間の乗馬指導は、チェレンチーが主体となって行われる事が決まっていた。

 傭兵団の訓練場で行われている戦闘訓練も同時進行で行われるため、小隊長達は、ボロツとジラールを含め乗馬訓練と戦闘訓練の二つのグループに分かれた。

 片方のグループが乗馬の訓練をしている間、もう片方が一般団員達の戦闘訓練の監督をするといった形式だった。

 傭兵団の訓練場における戦闘訓練には、ハンスが常駐でついており、近衛騎士団の馬場で行われる乗馬訓練には、基本的にずっとチェレンチーがつていて、小隊長達の乗馬の手ほどきをするという役割分担であった。


「……ケツ痛ってぇ。死ぬ。俺はもうダメだぁ。……」

「……尻の皮が真っ赤に腫れて、体を拭く時の水がメチャクチャ染みるんだよ! こんなのはじめてだぜ!……」

「……ヤベェ、乗馬なめてたわ。俺、今晩眠れねぇかも。ぐわぁぁ。……」


 その夜、夕食と会議を終えた消灯の点呼までの自由時間、小隊長達は、自室のベッドの上でうめいていた。

 四人部屋の同室であるボロツが、ベッドの端に腰掛けて腕組みをし、死にかけた芋虫のように横たわっている男達を冷ややかな目で眺めていた。


「情けねぇなぁ、お前ら。もっと根性見せろ。……まあ、今日一日でだいぶ馬に乗れるようになったのは褒めてやるよ。やっぱ、俺様の教え方がいいんだろうな! ガッハッハッハッ!」


 と、コンコンと部屋のドアがノックされて、ボロツが「おう!」と返事をすると、ドアを開けてチェレンチーが顔をのぞかせた。

 「ヒイッ!」と、チェレンチーの姿を見て、小隊長達がこぞって青ざめる。

 一方チェレンチーは、いつものように人当たりのいい笑顔と腰の低い態度で部屋に入ってきた。


「皆さん、大丈夫ですか?」

「……こ、これが大丈夫に見えるのかよ? ケツが痛くて、寝返りも打てねぇよ。……」

「ああ、やっぱりそうなりますよね。先程の幹部会議中も辛そうにしている方が何人も居たので、心配していました。乗馬を始めた頃はみんなそうなるものです。……あ、ティオ君が腫れに効く薬草をすり潰してシップを作ってくれたので、今晩はこれを患部に当ててうつぶせで眠って下さい。」

「気が利くじゃねぇか、チャッピー。……おう、オメェら、ちゃんと礼言っとけよ!」

「は、はい、ボロツさん!……あ、ありがとうよ、チャッピー。……」


 ボロツに言われて、それぞれのベッドの上でグッタリしている小隊長達は、シップを持ってきてくれたチェレンチーに口々にモゴモゴ礼を言っていた。


「ゆっくり休んで下さいね。そして、明日もまた頑張りましょう! では、僕はこれで。」


 チェレンチーは終始温和な笑みを浮かべていたが、「また明日」と言われて、小隊長達は思わず「ヒィッ」「ゲェッ」と潰されたカエルのような声を上げていた。


「……明日も馬に乗るのかよ。マジか。俺はもう嫌だぁ。……」

「……俺もだぜ。傭兵団に入っていろいろ訓練頑張ってきたけどよ、今回の馬が一番辛ぇ。……」

「……休みたいぃ。一日中寝ていたいぃー。……」


 あまりに小隊長達が意気消沈しているので、こわもての見た目に似合わず世話焼きのボロツが励ますように言った。


「頑張れ、お前ら。もう戦場に出るまで時間がねぇって、ティオの野郎も幹部会議で言ってただろう? 本当ならもっと時間をかける所だが、今はチンタラやってる余裕がねぇんだよ。だからどうしても急ごしらえの詰め込みになっちまうが、その代わり、何もティオの野郎みてぇに上手くなるのは求めてねぇ。一人でも馬の世話が出来て、鞍やらなんやらつけられて、乗り降りが出来て、後は、戦場で困らねぇ程度に、方向転換と、加速と減速、たまに駈足で走れるぐらいまで上手くなればいいんだからよ。」


「まあ、俺様が見てやっから安心しろって! それに、ジラールの旦那もチャッピーも、丁寧に教えてくれてるだろ?」


 ボロツは、ドンと、鍛えられた筋肉に覆われた自分の分厚い胸板を拳で叩きながら仲間達を鼓舞したが……

 男達は、チェレンチーの名前を聞くと、またビクッと顔を引きつらせていた。


「……た、確かに、チャッピーの教え方は丁寧だよなぁ。失敗しても怒らねぇし、何度同じ事を聞いてもしっかり説明してくれるしよ。」

「一見優しく見えるよなぁ。……でも、アイツ、何気に一番鬼じゃね?」

「分かる! ニコニコした笑顔で『じゃあ、出来るまで何回でもやりましょうね!』とか、サラッと言いやがるんだよ!」


 意外にも面倒見はいいが、教え方があまり論理的ではなく、「気合いだ!」「やる気出せ!」と根性論になりがちなボロツや……

 教え方は理路整然としているが、口下手でコミニケーション能力が高くないため、「それはあれだ」「そこはさっきも言った」と、あまり親切ではないジラールに比べて……

 初心者にも分かりやすく丁寧に教えてくれて、どんな酷い状況でも嫌な顔一つせずいつも笑顔で応対してくれるチェレンチーは、理想的な教官だったのだが……

 実は、人当たりが柔らかいだけで、決して妥協はしなかった。

 あまりの辛さに小隊長達が「もうダメだぁ!」と根を上げても、「少し休もうぜ!」と訴えかけても、いつもと同じ笑顔で「じゃあ、十分だけ休みましょう。その後、また、さっきの練習をしましょうね。」と言われるのだった。


「くそぅ! チャッピー相手ならサボれると思ってたのによぅ!」

「いや、サボろうとすんなよ。お前ら、真面目にやっとかねぇと、後で自分が困るぞ。戦場じゃあ、命かかってるからな。厳しく教えてくれるのは、むしろありがたい事だぜ。……まあ、チャッピーのヤツは、ティオの野郎に乗馬の事を任されて、張り切ってんだろうぜ。チャッピーは、ティオの事をまるで神様か何かみてぇに信じてっからなぁ。アイツに言われた事は、いつもキチーッとやりやがるんだよなぁ。」

「それもそうっスけど、ボロツさん、チャッピーのヤツ、なんで馬になんか乗れるんスかね? 剣はろくに振れねぇくせに。」

「あー、チャッピーはな、元は結構金持ちの家の生まれなんだよ。でも、母親が使用人で、チャッピーは庶子とか言うんだっけか? だから、家では、腹違いの兄貴と正妻に酷ぇ扱いされてたっぽいぜ。そんで、勘当されて、この傭兵団に来たんだと。こんなとこに来るヤツは、いろいろ事情があるよなぁ。まあ、そんな訳でよ、チャッピーも一応金持ちの家の教育を受けてんだよ。文字が書けたり計算が出来たりして、ティオの補佐してんのもそんな理由だな。んで、その教育の一環で、乗馬も習った事があるんだとよ。」

「ゲエッ! 乗馬を習うような金持ちの家のボンボンだったのかよ、アイツ!」

「あー、でも、なんか分かる気がするわ。どこかおっとりしてて、俺達と違って丁寧な喋り方してるもんなぁ。」

「いや、でも、アイツ、最近はかなり明るくなったんじゃねぇ? 傭兵団に入ったばっかの頃は、暗ーい顔して下ばっかり見てたよなぁ? 元気がないっつーか、いっつもオドオドしててよ。でも、今は、どもらなくなったし、なんか堂々としてる感じじゃね?」

「明るくなったのはいいんだけどさぁ。……チャッピーのヤツが、あんなスパルタ野郎だったなんてな! ティオの野郎も容赦ねぇけど、チャッピーも大概だぞ、ありゃ。いつもニコニコ笑ってるくせに、あんなに厳しいなんて聞いてねぇよぅ!」

「ハハハ! チャッピーのヤツは、本当は、お前らよりずーっと肝が据わってるぜ。元々俺は、アイツの根性を買ってこの傭兵団に入れたんだしな。お前らもいい機会だから、乗馬と一緒にその甘ったれた性根もチャッピーにしごいてもらえよ。まあ、せいぜい頑張れよな。」

「そ、そんなぁ、ボロツの旦那ぁ!」


 チェレンチーが去った後、しばらくボロツと小隊長達はチェレンチーの話題で盛り上がっていた。



 傭兵団の中でのチェレンチーの評価は、ティオが作戦参謀となってチェレンチーを自分の補佐に据えて以降、ジワジワと高まっていっていた。

 しっかりとした教育を受けてきた事で、傭兵団でティオをのぞいて唯一読み書き算盤が出来るチェレンチーは、頭のいい人間であると尊敬の目で見られるようになると共に、正確で実直な働きぶりから周囲の信頼を集めていった。

 また、荒っぽい輩の多い中で、いつも微笑んでいる柔和な彼の性格に癒やされる者も多かった。

 そして、乗馬の訓練が始まってからというもの、小隊長達の中で、チェレンチーの印象はまたガラッと変わっていった。


 今まで長くチェレンチーの心を抑圧していたドゥアルテ家との因縁がすっきりと片づいた事で、チェレンチーはこれまで以上に伸び伸びと生来の資質や性格を発揮していっていた。

 口調や態度は丁寧で、腰は低いながらも、しっかりとブレる事のない意思を持っており、譲ってはいけない部分は決して譲らない。

 一方で、誠意を持って論理立てて訴えれば、きちんと耳を貸し、お互いの妥協点を探る柔軟さも持ち合わせていた。

 チェレンチーは自分の生まれた大商人の家を離れる事で、皮肉にも、それまで彼の中に埋もれていた商人としての才能を花開かせ、ティオの補佐として事務や経理の仕事を手際良くこなしつつ、傭兵団の金庫番として、商人達との交渉にその才覚を遺憾なく発揮するようになった。


 乗馬の訓練をチェレンチーが担当した事で、そんなチェレンチーの外柔内剛たる本質に気づいた者も多かったのだった。



「おおい、チャッピー、お前に客だぞー。」

「僕に客、ですか? 誰だろう?」


 近衛騎士団の馬場を借りての乗馬の練習中に、傭兵団の団員がチェレンチーの所に彼を呼びにやって来た。


 元々の近衛騎士団の訓練が行われていない時間だけ馬場を貸してもらう約束を、どうやって知り合ったのか、ティオがツテのある近衛騎士団の上層部の人間に交渉して了承してもらっていた。

 そろそろ傭兵団が内戦の前線に出るのも秒読みとなり、一刻も早く小隊長達に乗馬の技術を身につけさせようと、貴重な時間を彼らの指導に専心していたチェレンチーは、予定にない急な呼び出しに、その人当たりのいい面を少しばかり曇らせた。

 傭兵団の兵舎の方から駆けつけてきた団員の一人に呼ばれ、ちょうど馬場の中央で馬に乗っていたチェレンチーは、馬場の端までそのまま移動して、そこで馬から降りた。


「なんか、鍛冶屋の人間らしいぜ。お前に話があるんだってよ。」

「今日は納品や支払いの予定はない筈なんですけど。今ティオ君は『月見の塔』に偵察に行ってしまっていて、帰ってくるのはまだ先ですね。……分かりました、僕が対応します。連絡ありがとうございました。あなたは自分の訓練に戻って下さい。」

「おう、じゃあな。」


「すみません、みなさん、少し外します。ジラール小隊長、しばらくお願いします。」

 チェレンチーは、乗馬の指導をしていた小隊長達と、自分と共に指導にあたっていたジラールに断りを入れたのちに、乗っていた馬を厩舎の外の繋ぎ場に止めて、近衛騎士団の馬場を離れたのだった。

 チェレンチーが去った事で、一息つけるとばかりに気が緩んだ者達が居たが、すぐにジラールに注意されていた。



 チェレンチーが足早に傭兵団の兵舎に戻ると、団員達が熱心に戦闘訓練を行っている訓練場の端に、一人の若い男が落ち着かなげにキョロキョロ辺りに視線をさまよわせながら彼を待っていた。

 確かに見覚えのある鍛冶屋の男で、チェレンチーを見ると「よう!」と親しげに声を掛けてきた。

 いかにも下町の鍛冶屋らしい太い腕と砕けた雰囲気を持った男だった。


「今日はどうしました? 何か問題でもありましたか?」

「……ええっと、その、なんて言うか、ちょっと相談があってさ。……」

「建物の中へどうぞ。話をうかがいます。」


 あまり人に聞かれたくないらしく男が辺りを気にしている様子に、チェレンチーは宿舎の中にある会議室へと男を招き、「こんなものしかありませんが」と、常備してある香草を浮かべた水を木の器に注いで出した。


「それで、お話と言うのはなんでしょうか?」

「ああ、折り入ってアンタに頼みがあるんだが、その、明日納める事になってる商品の代金を、ほんの少しばかり上乗せしてほしいんだよ。」

「……理由を聞かせてもらえませんか? なんの理由もなくお支払いする代金を上げる訳にはいきません。もう契約書も交わしていますし、金額を変更するとなると、訂正した書類を新たに作成しなければなりません。」

「ああ、いや、そういう契約書とか、面倒な物は作らないでほしいんだよな。俺とアンタだけの約束って感じでさ。」

「……」


 チェレンチーは、訓練場の端で自分を待っている男の落ち着きのなさを見た時から嫌な予感がしていたが、ここにきていっそう不穏な空気を感じ取っていた。

 正直、貴重な乗馬の時間を割かねばならない事をうとましく思っていたが、表情にはおくびにも出さず、いつもの柔和な笑みを絶やさなかった。

 ティオは留守にしており、それ以上に、多忙なティオに負担を掛けたくないと思っていたチェレンチーは、自分の方で処理出来る問題は可能な限り処理してしまおうと、男の話を聞く事に決めたのだった。


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