野中の道 #41
(……き、来た!……)
(……来た来た来た来た、来たあぁぁーー!!……やっぱり思った通り「あれ」だったぁぁー! よおっしゃあぁぁ! やったぜ、うらあぁぁー!「見たい」って答えといて、マジで良かったあぁぁー!……)
『紫の驢馬』の命令で、テラスの入り口のドアの外に控えていた護衛が、茶のおかわりと『紫の驢馬』が前もって預けていた物を女将に持ってくるよう伝えるために一階に降りていって程なく、ティオの脳内に、例の光の反応があった。
遠くにあった光が、ゆっくりと移動して、二階への階段を女将と共に上がってくるのを確信して、ティオは心の中で大きくガッツポーズを決めていた。
ティオのテンションは、この時上がりまくっていた。
昨晩、『黄金の穴蔵』で「1点につき黒チップ1枚」という史上最高額の高レートのゲームでドゥアルテに勝った時も、どこか虚しい程退屈でシンと静まり返っていたティオの心が、子供のように思い切りはしゃいでいた。
が、そんな本心が漏れまくった隙だらけの感情を、目の前に座った狡猾な老人に悟られる訳にはいかず、ティオは必死に顔に気持ちが出ないよう、澄ました表情で唇を引き結んでいた。
それでも、テーブルの下で、軽く握った状態で膝の上に置いていた手が、余りの興奮でブルブル震えていたティオだった。
「お待たせしました。」
二階のテラスに現れた、『紫の驢馬』が亡くなった友人の代わりにずっと面倒を見ていたというその男の娘である『眠り羊亭』の女将は、完全に裏社会の人間ではないものの、すっかり場慣れした落ち着いた様子で、銀の盆に乗せてきた陶器の茶器をテーブルに並べていった。
今まで使っていた茶器を片づける代わりに、新しく、白い陶器に上品な花の模様が描かれた揃いのポットとソーサーつきのティーカップを手際良く配置し、中に入っていたお茶を注いでいく。
先程のお茶は、バターをたっぷりと入れた塩味の濃厚な一品だったが、どうやら今回のお茶は、スライスした柑橘系の果実を合わせたさっぱりとした口当たりのもののようだった。
料理の締めに甘いもので充足感を得るのに合わせたお茶から、食後に口内を清涼とした状態にするお茶に変わっていた。
発酵の浅い茶葉から出た茶の色が緑がかって美しく、そこに爽やかな酸味と香りを発する果実の風味が添えられている。
茶器も、茶に合わせて、藍色の小花模様をあしらった繊細で軽やかなデザインの物に換えられていたのは、おそらく『紫の驢馬』による気遣いで、彼の教養の深さを感じる選択だった。
が、今現在の問題は、そのお茶一式と共に女将が銀の盆に乗せて持ってきた、木で出来た小さな箱だった。
その箱を女将は、新しい茶の用意を終えると、静かに『紫の驢馬』の前に置き、深々と礼をして退っていった。
女将がドアを閉じて二階のテラスから姿を消すと、ティオは、『紫の驢馬』から「どうぞ、ご賞味下さい」と勧められた茶を口に運んだ。
「これは美味しいですね。とても上質な茶葉に加えて、アレンジも素晴らしい。口の中がさっぱりとして、また、胃の消化も進む気がします。」
ティオは品良くカップの細い取っ手を指先で摘み、茶に舌鼓を打っていたが……
実際は、ティオの頭の中は、女将が最後に『紫の驢馬』の前に置いていった小さな木箱でいっぱいだった。
(……間違いないな。あの中に入ってる。もうこれだけ距離が近くなれば、間違いようがない。……)
(……めまいがする程強烈な反応だ。……フウ、正気を保たないと。……)
ティオの頭は、酒に酔ったような感覚に包まれていた。
ティオ自身は、生まれつきの体質のせいで、一口でも酒を口にするとすぐに酷い眠気に襲われて意識が途切れてしまうため、一度も「酒に酔う」という体験をした事がなかったが……
今のティオの状態は、普通の人間が酒に酔った時の体感に非常に近いものだった。
平衡感覚がおかしくなる程グワングワンと脳が揺すぶられているが、それは決して不快なものではなく、快楽と陶酔に近い性質を持っていた。
例えば、強い芳香を持った花の香を嗅いだ時のように、ジーンと頭の奥が痺れると共に、うっとりとその香りに精神が持っていかれる。
問題は、それが至高の芳香である反面、ティオにとってあまりにも強い影響を及ぼす香りであるために、普段は冷静沈着に冴え渡っているティオの頭脳明晰なその思考を、曇らせ、揺らし、鈍らせてしまう事だった。
もちろん、ティオはそんな自分の性質を良く分かっており、今は要注意人物である『紫の驢馬』の目の前にいる状況である事からも、必死に気を引き締めていたが……
それでも、やはり、ティオの頭の中の一部は、どこかふわんと夢色の雲が掛かった状態に陥っていた。
(……フ……フフ、フフフ……ウフフフフ、アハハハハハハ……)
(……っと、ヤバイヤバイ! 今、一瞬意識が飛びそうになってたわ。それだけヤバいブツだって事だな、これは。いや、マジで気をつけないと。……)
ティオは、静かにゆっくり深呼吸して、ついつい上滑りしそうになる自分の感情を押さえ込むと、改めて、『紫の驢馬』の前に置かれた小さな木箱を、視界の片隅に入れた状態でそれとなく観察した。
(……それにしても、「からくり箱」とは、『紫の驢馬』もまた凝った趣向を用意したもんだなぁ。本当にこのご老人は、食えない人物だぜ。……)
と、ティオがゴチャゴチャうるさい内心とは正反対のすました顔でお茶を飲んでいると、『紫の驢馬』が例の小箱を、ティオの方へと白いテーブルクロスの上を滑らせてズイッと押し出してきた。
「ティオ殿、これがあなたに是非差し上げたいと思っていたものです。」
「これは見事な寄木細工ですね。……少し手に取って見てみても構いませんか?」
「どうぞどうぞ。存分にご覧になって下さい。」
「では、お言葉に甘えて見させていただきますね。」
本当はティオには、その箱の中に物が入っており、その中に入っている物こそが本題だと分かっていたが、敢えて箱の見た目にのみ言及した。
いちべつしただけの状況で、箱の中に物が入っている事だけでなく、それが何かまで分かっているのはあまりにも不自然なので、気づかない振りをしたものの、本心ではほぼその箱の中身にしか興味がなかった。
手に取って見ると、それは、ティオにははじめから「箱」だと分かっていたが、一見蓋も引き出しも何もない、ただの立方体に見える代物だった。
ただ、その立方体の表面には、幾何学的な模様が細やかに施されている。
素材が木材であるのは、少し観察すれば誰でも分かる所だが、その複雑な模様を描き出している何種類もの色彩が、元々の木材の色だというのは、知識がなければまず導き出せないだろう。
木材は、切り出した木の種類ごとに異なった色をしており、薄いベージュ色から、茶色、赤茶色、もっと深い焦げ茶色まで、様々なバリエーションがある。
その素材そのものの色を絵の具のように捉えて、細かなパーツに切り出し、それを並べる事によって美しい模様を描き出すのが、寄木細工の妙だった。
当然、これには木工職人としての高い技術が必要となってくる他、木材の色の違いを把握して幾何学的に配置するための美的感覚と数学的な能力もなければいけなかった。
ティオが手にしたその一見ただの立方体に見える小箱は、非常に高い技能を持って作られた逸品であった。
「凄い技術ですね。俺は芸術関係には疎いのですが、この模様は木材本来の色彩を見事に活かしたとても繊細で素晴らしいものである事は分かります。」
「さすがはティオ殿、寄木細工をご存知でしたか。褒めてもらえて光栄です。……いや、なに、ティオ度も昨晩訪れた『黄金の穴蔵』では、ドミノゲームのために専用の牌を使用している訳ですが、そのために抱えている木工職人の中に、一人飛び抜けて腕のいい者がおりましてね。それは、その者に作らせた物です。市場には流通しておらず、私が趣味でいくつか作らせているのですよ。」
「確かに『黄金の穴蔵』ともなれば、質の良いドミノ牌を必要としている事でしょう。実際俺も昨夜手にして感心しました。特に赤チップ卓で使用しているドミノ牌の質の高さは、他では真似出来ないものでしょう。ご老人の強いこだわりを感じました。」
「フフ、それでもティオ殿にはあっさり裏からでも見分けられてしまった訳ですがね。」
「それは済みませんでした。……しかし、ここまで見事な寄木細工の品となると、表に出回っていないのがもったいないですね。これ程の品質なら、富豪や貴族の方達にも、芸術品としての需要があるのではないですか?」
「さて、どうでしょうな。少なくとも、これを作れるのは、私のかかえている工房でもたった一人だけなのですよ。量産出来るものではありませんし、技術を他の者に教えるのも難しく、教えた所で再現するのは困難でしょう。」
「ならばますます価値は高くなるのではないですか? ドミノ牌も、ご老人にとっては大事な仕事道具ではあるのでしょうが、これ程の腕とセンスを持つ職人が、その才能を存分に振るう機会がないのは、もったいない気がします。」
「フム。確かに、宝の持ち腐れはいけませんな。雇い主としては、職人の才能を存分に活かす機会を考える義務がある。……ティオ殿の言うように、これは、貴族や上流階級の人間への贈り物となる芸術品として活躍するかも知れません。いろいろ考えてみる事にしましょう。」
「ハハ、希少な芸術品も、ご老人にかかっては、政治的に有効な道具としての価値がまさりますか。」
ティオは『紫の驢馬』相手にしばらく当たり障りのない会話を続けていたが、やはりずっと中身が気になって仕方なかった。
そして、つい、こらえられずにポロリと漏らした。
「それで、開けてみても良いのですよね?」
「ム!」
「こちらは『からくり箱』ですよね。寄木の模様が上手く継ぎ目を隠していますが、中身が空洞になった『箱』なのでしょう? ただ、普通の箱とは違って、見てすぐ分かるような蓋はなく、いくつかの部位を正しい手順で動かしていってはじめて開くという仕組みの『からくり箱』ですね。寄木細工のからくり箱は、俺も初めて見ました。」
「……気づいておられましたか。さすがはティオ殿ですな。……フッ、私の部下などは、これらが私の拠点の部屋にいくつも置かれていても、誰一人として『箱』とは気づきませんでしたよ。変わった模様の置物だとでも思っているようでした。当然、これを開けた者もおりません。」
「いや、実は俺も、過去に『からくり箱』を作った事があるんですよ。ああ、まだある事件のトラウマで刃物恐怖症になる前の事です。余った時間を潰すための手慰みに、仕掛けのある箱を作成してみたんです。『からくり箱』自体は、盗賊団に居た折、とある金満家の屋敷で見た事があって少しばかり知識がありました。それで、自分でも作れないものかとやってみたんですが、これがとても難しかった。寄木細工もですが、ほんのわずかな狂いが致命的なものになるので、木工の技術が余程高くないと作れない代物なんですよね。」
「そういった事情でしたか。……さあ、どうぞどうぞ、開けてみて下さい。持ち主の私も、あまり手順の複雑なものは、時々開け方を忘れるのですよ、フフ。」
「では、失礼して。」
ティオは、寄木細工が繊細な幾何学模様を描き出す10cm四方の立方体を改めて手に取ると、迷いなくその一面のある箇所を指でスライドさせた。
先程寄木細工をぐるりと一周鑑賞する際に、もうどういった仕組みで出来ているか判別していたで、迷いなくからくり部分を動かし、次々と紐解いていく。
向かいの席に座った『紫の驢馬』も、そんなティオの手元を、細い目を見開いて食い入るように見つめていた。
三十以上もの工程の仕掛けを、正しい手順でスイスイとこなしていくティオの指先の動きは、一切のムダがなく、それでいて鮮やかだった。
そして、程なく、ティオは、最後の仕掛けをカコッと動かすと、立方体の一面をスルスルと取り外した。
その外れた一面が、普通の箱で言う蓋となる部分だった。
「開きました。」
そう言って、ティオがコトリとテーブルの上に置いた寄木細工のからくり箱の中には、一粒の宝石が収められていた。




