野中の道 #33
「自分の命よりも大切なものを失うのは、さぞ辛い事でしょう。それでも、生き長らえたのなら、これからも生きねばなりません。時間は刻々と流れ、人生は無情にも続いてゆく。」
「失った大切なものの代わりとなるものが、やがて見つかるかどうかは、誰にも分かりません。しかし、生きる活力となる大切なものを持たぬ人生は、あまりにも無味乾燥で不毛だ。先程も話しましたが、そんな生き方は、人間性を摩耗させ、人格さえも壊しかねない。」
「この先も生き続けていくためには、いつかどこかで、大切なものを失ってしまった過去の人生に決着をつけ、新しい未来を歩み始めねばならないでしょうな。新たに見つけた大切なものと共に。」
『紫の驢馬』は止まる事なく吹き過ぎてゆく風の中で、飛ばされぬよう帽子のつばを押さえながら、目を細めてどこか遠くを見つめていた。
「一度大切なものを失った経験があると、新たに大切なものを作るのが怖くなるものです。新しく大切に思うものが出来ても、それもまた、すぐに失ってしまうのではないかと、つい悪い想像をしてしまう。かつて、何ものにも傷つけられる事のないようにと、自分の命以上に大切に思い、必死に守り続けていたものでさえ、まるで川の瀬に浮かぶ泡のごとくにあっけなく失ってしまったのだから、と。」
「しかし、良く考えてみて下さい。……この世界で、絶対に壊れないもの、決して変わる事のないもの、永遠に失われる事のないものなど、元よりありえないのです。この世界の全てのものは、生まれ出で、移りゆき、やがて滅する。その変化の遅い早いはあれど、命の長い短いはあれど、性質が堅固か脆弱かはあれど、この世に生まれたからには、いずれ来る死は免れない。そう、見方を変えれば、皆、儚いうたかたであるとも言える。私も、あなたもまた、この世に生きるものであるならば、そのたよりない泡の一つだ。」
「それでも、我々は、自分の生きるよすがを、そのうたかたに求めねばなりません。」
「いつ壊れるとも知れない、儚く脆い小さな泡……その泡に心を寄せ、大切に思い、必死に守り生きてゆく……それより他に、永遠でも不変でも不滅でもないこの世界で、人間らしく生きていくすべはないのですよ。」
「自分自身もうたかた、この世界もうたかた、そして、自分がかけがえなく思うものも、また、うたかた。」
「それでも、無数の泡が身を寄せ合い、有限と変化と必滅の生を生きる。……それがこの世界の有り様だと、私は思っておりますよ。……まあ、お若いあなたには、まだまだ辛く感じる場面も多い事とは思いますがね。」
『紫の驢馬』は、『眠り羊亭』の二階のテラスの突端にある木製の手すりをシワの刻まれた手で掴み、休みなく吹きつけてくる風の中に少し身を乗り出すようにして、眼下の王都の下町の家並みを見遣った。
「これは私の話になりますが……私は、この王都の裏社会に自分の目指す秩序を敷くために組織の頂点を目指そうと決めた時、敢えて自分の人生に『特別なもの』を作るのをやめました。いや、ある意味、私が最も大切にしていたのは、『秩序』であり、それ以外の二番目以降のものを捨て去ったとも言うべきかも知れませんな。私は人からは器用な人間だと思われているようですが、そうでもしなければ、この悲願の達成はなかった事でしょう。同時に二つも三つも掴もうとしたのなら、どれかはこの手の内から零れ落ちる。あるいは、最も欲しいものを失う可能性もある。だから、私は、たった一つだけ、自分の人生で大切なものを選んで、後は捨て去ったのです。」
「ずっと『執着』を持たないようにしてきました。……財を成す事もしなかった。贅沢な生活……美味い食べ物、高価な服、豪華な邸宅……そういうものに縁のない日々を今も送っております。若い頃は付き合っていた女も何人か居ましたがね、裏社会の頂点に就いた頃には、もう皆手を切っていましたな。それからも、美しい女をはべらせる事もなく、妻も持たず、もちろん、子供も孫もなく、家族と言えるものを作るのを意図的に避けてきました。」
「そういう、自分にとって特別な存在を作ってしまっては、『愛情』という『執着』に縛られていては、『裏社会の生ける法』としての公正さが、自分の中から失われてしまうような気がして怖かったのですよ。私は、何ものに対しても、いついかなる時も、平等でなくてはならない。それが、私が裏社会の頭目となるに当たって、自分に課した枷でした。」
「まるで『滅私奉公』ですね。自分の血を繋ぎ、自分の子に孫に、未来永劫子々孫々まで、己の地位と権力を余さず伝えていこうと血眼になる国王よりも、あなたはよほど聖人君主に思えます。……実際、この内戦が長引いている原因の一つが、謀反を起こして『月見の塔』に立てこもっている第二王子の軍勢に、国王がいつまでも煮え切らない対応をしているせいですからね。世継ぎではないが、自分の息子が命を落とす危険を恐れて、『月見の塔』を攻め切る勇気が出ないのでしょう。ある意味人間らしい感情なのでしょうが、一国の王としての判断の前に、一個人の、父親としての感情を挟み過ぎているように思います。国王の決断が遅くなったせいで、最初は国王軍が有利だった戦況が今や混乱を極め、多くの兵士が疲弊し死者も出ると共に、その影響は王都の不況にまで及び、更に王都周辺の町や村まで波及しようとしている。今現在も、一体どれ程の人間が内戦の被害をこうむっている事か分かりません。」
「まさに、私はそういった判断の誤りをなくすために、自分の中の『執着』を捨てて生きてきた訳です。」
「そんな、金、権力、名誉、恋人、家族といった普通の人間が持つ大切なものに価値を置かず、執着を持たず……ある意味人間的な幸福を敢えて捨てて生きてきた私でしたが……それでも、この城下町の眺めには、『愛着』を感じているのですよ。」
「私は王都がこの土地に建設された当時からこの街におりますが、あの頃からは随分様変わりしたものです。……みるみる人が増え、次々建物が建ち、様々な大量の物品が商いされるようになって、表の社会でも裏の社会でも大金が動くようになりました。街の内情が変われば、それに伴って街の風景も変わってゆく。そして、それは、これからも続いてゆく事でしょう。」
「私は、そんなこの街に、『愛着』を持っております。」
「『執着』を持たぬように生きてきた私ですら、いつの間にか、こうして『愛着』を持つに至った訳です。……まあ、私の人生も、もう残りは長くありますまい。己のここまでの人生を振り返って、私にはなんの後悔もありません。金や財宝といった形で何かを残す事がなくとも、自分の血を子供や孫に繋げる事もなくとも、また、私が一生を懸けて築いたこの街の『秩序』が、私の死後に程なく崩れ去るとしても……」
「今こうして、王都の下町の風景を見ていて胸の奥から込み上げてくるこの『愛着』と静かな充足感は、私にとってかけがえのない宝となっておりますよ。私は、自分の生き様に満足しております。これまで、私は、自分の思うように生きた。もちろん、理想通りに成せなかった事も多くありますがね、それでも、精一杯悔いなく生きてきたという確かな誇りが私の中にはある。」
『紫の驢馬』は眼下の城下の街並みを目を細めて眺めながらしみじみと語った後、少しおどけるような口調でつけ足した。
「湿っぽい話になってしまいましたな、申し訳ない。いやいや、私の人生ももう残り少ないとは言いましたが、そう簡単に倒れるつもりは毛頭ありません。まだまだこのように元気はつらつとしておりますからな。私の目の黒い内は、この王都の下町で不埒な輩に好き勝手させませんよ。」
そして、改めて、人生の大半を駆け抜けてきたその年月の長さの証のごとく老いた体を持つ自分とは対照的に、まだ二十歳にも満たない若々しい青年であるティオを、まぶしげに見つめた。
「今まで多くの人間を殺し、その命を奪ってきた私がこんな事を言うのも空々しいと思われるかも知れませんが、それでも敢えて言いましょう。ティオ殿……」
「『命』とは、とても尊いものです。」
「『命』がある限り、生きている限り、人間には可能性がある。何かを成し遂げる事が出来る。作り、伝え、育む……そうした生産性、創造性がある。何かを生み出す力がある。……しかし、死んでしまえば、それで終わりです。もう、この世では何も成せなくなってしまう。だから、『命』は大切にしなければならないと思っております。」
「私は、若気の至りで怒りに任せてある男を殺してしまった。その話は先程いたしましたな。その男に対しては私は特に罪悪感はいだいておりませんが、その一件がきっかけで、『命』の大切さに気づかされ、二度と浅慮な真似はすまいと、戒めとして自分の腕にロバの入れ墨を刻んだ訳です。」
「そして、それから長い月日が流れ、人生の中で様々な事を経験して、歳をとった今、老いた私の目には、『命』というものは、いっそう美しく輝いて映るのですよ。」
「人が、そんな大切な『命』を失うのを目の当たりにすると、とても惜しいと感じる。残念で、虚しく、悲しい気持ちに駆られます。特に、ティオ殿、あなたのように若い人の死は、胸を刺す程に痛ましい。」
「これは、単なる私の勝手な願いではありますが……」
「あなたの『命』を大事にして下さい、ティオ殿。」
「あなたはこんな所で死んでいい人間ではない。もしも、警備兵にお尋ね者の情報を売った一件で、私に目こぼしされたと思っているのなら、その分も……強く、しぶとく、たくましく、生きて下さい。人に嘲笑されるような醜い生き方でもいい、安易に楽で綺麗な死を選んではいけない。生きて下さい。」
「ティオ殿、あなたとは昨日会ったばかりではありますが、私は、あなたが死ねば、悲しく思いますぞ。」
「あなたには、是非これから先も生きて、生き延びて……そして、これから先の人生で、あなたが、何を成し、何を成さないのか……それを見てみたいと思っておりますよ。」
そう言って、『紫の驢馬』は、達観した老獪な表情の中に、正真正銘の博愛と慈愛の笑みをたたえて、真っ直ぐにティオを見つめた。
「しかし、今私の語った内容は、聡いあなたの事、既に気づいていた事でしょう。大切なものを失ったのち、はっきりとした目的を見いだせないままにただ漫然と一人きり生きていた、そんなあなたの精神がそろそろ限界に近づいている事を、あなたは心のどこかで知っていた。あなたは無意識の内にも、新しい生きるよすがを、このうたかたの世界の中に求めていたのかも知れませんな。あなたにとっての転機が訪れようとしていたのでしょう。」
「あなたは、一人で旅を続けるのが自分に合っているのだと言っていましたが、今現在は、このナザール王都に留まっているだけでなく、傭兵団に所属しておられる。しかも、自ら作戦参謀を名乗って傭兵団を導いている立場にある。どういった経緯かは知りませんが、単なる偶然の成り行きか、運命のいたずらか、いずれにせよ、あなたが今、これまでとは違った環境に身を置いている事には、大きな意味があるのではないかと私は思っておりますよ。」
「たとえ一時的な仮の宿りだとしても、あなたをこの地に引き止め、傭兵団で要職に就くに至らしめた何かがあった事は確かでしょう。その意味を、改めてじっくりと考えてみるべきなのではないですかな、ティオ殿? そう……」
「あなたの、新しい生きるよすがについて。」
□
(……俺の、新しい「生きるよすが」……)
『紫の驢馬』の言葉を「そんなものは見つかる筈がない」と一蹴したい気持ちと同時に、目の前の老人の厚意を感じ取って、素直に我が身を振り返る気持ちが、ティオの中にはあった。
(……)
ティオがこの地を訪れたのは、今は反乱軍が占拠している『月見の塔』に自分が探し求める物がある事を旅の途上で知ったからだった。
しかし、ただ『月見の塔』にある「それ」を回収するだけならば、何も自分に不似合いな傭兵団に入って作戦参謀などという面倒な役目を担わずとも、もっと効率的な道があった筈だと、ティオも重々分かっていた。
(……王城の宝物庫に盗みに入った事を、サラに気づかれなければ……)
王城の奥にある王宮の宝物庫に保管されていた数々の宝石を盗んだ事をサラに知られたティオは、サラに黙っていてもらう代わりに、サラが団長をしている傭兵団を強化し、内戦の戦場で勝利に導いて、内戦そのものを早急に終わらせる手伝いをする事を誓った。
このままではいつ内戦が終わるとも知れず、『月見の塔』内部にある探し物を手に入れるには長い時間待たねばならなかったため、内戦の早期終結はティオにとっても望ましい状況ではあった。
しかし、わざわざ傭兵団の一員として忙しく働き、勝利に貢献する労力を考えれば、一旦このナザール王都を離れ、内戦が終わった頃に再び戻ってきた方が、ティオにとっては簡単だったに違いない。
だが、サラと交渉している時、ティオの頭から完全にその考えが飛んでいた。
(……あれは、今思うと、間違った選択だったよな。……いや、違う。……)
(……そもそも、俺は、何で傭兵団なんかに入ったんだ?……そう、傭兵団に入りに行くってサラが言ったから、つい、ノコノコとついてきちまったんだった。あの時から、俺の判断はおかしかった。俺とサラが持つあの赤い石の影響があったってのもあるんだろうけど。……いや、それも違う。もっと前だ。……)
(……王都の城門近くの路地で、ゴロツキにからまれている所をサラに助けられた。その後、俺は、自分からサラに声を掛けたんだった。……)
ティオの脳裏に、呼び止められて振り返ったサラのキョトンとした顔が思い浮かんでいた。
(……サラ……)
(……俺は……)
そして、その数日後、ティオは自分の正体を知られたサラに、秘密を守る事と引き換えに誓う事になったのだった。
『俺に出来る、全ての事はする。』
『俺は、この傭兵団を……』
『サラ、お前を、守るよ。』




