野中の道 #30
『紫の驢馬』は『眠り羊亭』の二階テラスの端の手すりへと歩み寄り、ティオも彼についていった。
黒雲が空に押し寄せてきてはいるものの、二階のテラスからは城下の街並みを超えて、月見の塔が立つ丘、そして地平の彼方で青く霞む隣国との国境線がある山脈まで、一望のもとであった。
王都の中央を流れる川は、ちょうど月見の塔と王都との中間地点で二つに分かれ、その細い支流の方がこちらに向かってきている。
逆に言えば、王都を流れる川が本流と支流に分かれる前、一つの川であった上流のすぐわきに月見の塔の立つ丘が鎮座しているという状態であった。
『紫の驢馬』の視線は、隣国のある遥か彼方の山脈でもなく、目下内戦の真っ最中である月見の塔のある丘でもなく、すぐ眼科の城下の街並みに向いていた。
『眠り羊亭』があるのは、高級商店が居並ぶような大通りからは距離のある、小さな住宅が煩雑に寄り集まった下町である。
その古い建物から新しい建物まで様々に入り混じる統一感のないゴミゴミとした家並みを、『紫の驢馬』は、思い入れのある眼差しで見つめていた。
「元々私は、お尋ね者の情報を大量に警備兵に流した人物を捕らえて報復しようなどとは思っておりませんでした。さすがに、あまりに多くの犯罪者が一斉に検挙されたのを知った時には驚きましたがね。」
「しかし、調べていく内に、今回警備兵に捕まった者達には、ある法則がある事に気づいたのです。そう、犯罪者達の情報を流した人物は、片端から手当たり次第に彼らを売り渡した訳ではなかった。」
そこで『紫の驢馬』は視線を、数歩離れて自分の後ろに立っているティオにゆっくりと向けた。
少し強く吹き始めていた風が、その時一際勢いを増し、ティオの伸びっぱなしのボサボサの黒髪を乱して吹き抜けていったが……
くすんだ眼鏡のレンズの奥にある彼の瞳は、微動だにせず静まり返っていた。
「今回の一斉検挙の対象となったのは、まず真っ先に、凶悪犯でしたな。」
「殺人、傷害、強盗、放火……こういった中でも、その手口が極めて残虐なもの、何度も繰り返されているもの、無差別なもの、そういう手合が捕まった。……一口に殺人といっても、長年の恨みつらみが爆発したものや、弱者が自分の身を守るために仕方なくしたものは、金のために見ず知らずの人間を殺したようなものとは性質が異なる。自分とは関わりのない、なんの因縁もない人間を金のためだけに殺す方がずっと凶悪だ。その殺し方でも、女を暴行した上に殺したり、幼い子供まで容赦なく殺したりといったものは特に。」
「先程うちの若い者が『兄貴が殺された』と言って騒いでおりましたが、その処刑された男もこの手合でした。……前は、あれでもまともだったのですよ。うちの若い者が言っていた通り、仲間意識が強く、私の命令にも従順で、下の者達の面倒も良く見ていました。勇敢な切り込み隊長として、王都近郊の敵対組織をいくつも潰すなど、組織のためにも貢献してくれていました。……ところが、最近は自分の中の残虐性を抑えられなくなりタガが外れてしまったようで、たいして金持ちでもない家にフラリと押し込んでは、盗みのかたわら、女は犯して殺し、幼い子供まで殺していました。……あの男の様子がおかしくなってきた時、私は奴に釘を刺したのです。これ以上お前がなんの罪もない一般人を気まぐれに殺すようになら、この私がお前を殺さなければならなくなるぞ、とね。奴は私の前で酷く反省して、しばらくは大人しくしていました。しかし、やはりそれでも歯止めがきかず、また残虐な殺しをするようになったのです。私も、奴を始末しなければならないと心を決めていた所でした。しかし、私に始末されるのを恐れたあの男は、何人か居る情婦の所を転々としながら身を隠すようになって、なかなか足取りが掴めなかったのです。……それが、警備兵に、組織でも知られていなかった潜伏場所で見つかって捕らえられたのには、随分驚きましたな。その後、罪状がはっきりしていた事と、奴の犯した犯罪が残虐かつ常習性があった事から、すぐに処刑がなされました。……私としては、当然の成り行きで仕方のない事だと思っています。いや、むしろ、奴をこちらで捕らえられず長い間野放しにしてしまった事を恥じております。」
「他にも、捕まえられたのは、そういった凶悪犯だらけでしたな。裏社会に生きる私でも眉をひそめるような輩ばかりでした。……ティオ殿も、ああいう手合には腹に据えかねる所があるのですかな?」
「いえ、特に深くは考えていませんでした。ただ、お尋ね者の賞金首の中でも、凶悪な犯罪者は賞金額が高いので、それで必然的にそういう人間の情報を多く流す事になったというのはあります。」
「しかし、あなたは、警備兵の詰め所前に張り出されていた賞金首全てを売った訳ではなかった。先程言ったような、怨恨殺人や自分の身を守るため殺人の情報は流さなかった。つまり、残虐ではなく再犯性の低い事件は見逃した訳です。また、冤罪が疑われるものもそうでした。重犯罪として騒がれ賞金つきで情報を募集しているものの、いまだ犯行の動機や手口が不確定な件には一切触れなかった。」
「一方で、看板に張り出されていなかった麻薬の売人の居場所は、王都で確認されている者を全て教えていましたな。」
「ティオ殿ならご存知の事でしょうが、私の組織は麻薬の売買は禁止しているのですよ。……麻薬については、裏社会での扱いは場所によって様々でしょう。組織的に売買ルートを確立し、資金源としている所も多くあるようですな。ですが、私は麻薬は嫌いでしてね、うちの組織内ではあれの販売は一切禁止しているのですよ。まあ、これは、私の個人的なポリシーと言いますか。麻薬は、人間本来の生きる力を削いでしまう。依存性が非常に高く、一度はまれば人生が破綻するまでやめられない、いや、破綻してもやめられない、と言うべきでしょうか。それでも、ざまざまな理由から麻薬に手を出す人間は後を絶ちませんが、その多くは『辛い現実から目を背けたい』といった理由でしょうな。一時的な現実逃避、麻薬はそれを可能にしてくれる。しかし、その代償として、人間から生きる力を失わせ、ますます人は辛い現実に立ち向かえなくなっていく。特に今は、内戦が思いがけず長く続いている事と、流行り病のせいで、王都の住人は疲弊しています。そんな中、一時の安楽を求めて麻薬に手を出す者も増えているようですが、あれはいけない。ただでさえ弱っている国力をますます衰えさせる結果となるでしょう。」
「だから、私は、自分の組織では麻薬を扱わず、麻薬で商売している者を見つけたらすぐに取り締まるようにしていたのですよ。ところが、最近、王都周辺で幅を利かせはじめた敵対する組織が、安易に金を稼ごうと王都に麻薬を持ち込んできていました。苦しい生活を強いられている王都の住人の中には、その麻薬に手を出す者も増えていて、私にとって悩みの種だったのですよ。こちらが手塩にかけて整えていた庭を踏みにじられ荒らされると共に、敵が資金を増やして力を増す訳ですからな。」
「そんな中で、ティオ殿が、王都に隠れている麻薬の売人の情報を警備兵に流してくれたので、こちらとしては大助かりだった訳です。」
「大助かりと言えば、王都周辺の街道を荒らしていた盗賊団が検挙されたのもそうでしたな。」
「あの二つの盗賊団は、うちの組織とは敵対関係にある組織の傘下にあるものでした。……ティオ殿の情報網なら既にご存知の事かと思いますが、王都の周辺にはいくつか他にも裏社会の組織があります。それらが王都への進出を狙って、私の所のシマを時々荒らしに来る訳です。特に今、王都は内戦と流行り病で混乱していますから、その隙をついて、この半年程攻勢が酷くなっており、こちらも対応に奔走していた所でした。しかも、奴らの手口は、街道を通る民間人を手当たり次第襲って殺し、身ぐるみを剥ぐという残虐なものでした。商売用の高価な荷を積んでいる金持ちは何人も用心棒を雇っている事が多いので、そちらは狙わず、丸腰の弱い一般人を狙うのです。」
「ところで、ティオ殿は、昔どこかで盗賊団に入っていた事があると先程言っておられましたが、そこではやはり、荷馬車を襲ったりなどしていたのですかな?」
「ええ。まあ、盗賊団の生業としては一般的なものだと思います。後は、財産を貯めていそうな金持ちの屋敷に忍び込んでお宝を頂戴したりとか、そういったものです。盗賊団を抜ける前の俺は、計画を練る事から現場で指揮を執る事までいろいろやっていました。」
「そこでは、殺しも当たり前にしていたのですかな?」
「いえ。俺が所属していた盗賊団は、頭目の方針で殺しは厳禁とされていました。襲撃の際もなるべく相手に怪我を負わせる事のないようにとの命令でしたから、俺もそれに従っていました。とは言え、金持ちの屋敷は当然ながら、高価な荷を積んでいる馬車には護衛の私兵はつきものですからね。斬り結んで血が流れる事もままありましたよ。俺は、自分が戦いたくなかったので、なるべく直接的な衝突を避ける方向でいつも計画を練っていました。」
「なるほど、やはりそうでしたか。では、ティオ殿の居た盗賊団の頭目は、その辺の線引きをしっかりしていた人物だったのでしょうな。……しかし、世の中の盗賊には、好き勝手に暴れる輩も多いものです。警備の厳しい金持ちを襲う危険を嫌い、無防備な民間の旅行者ばかりを狙い、容赦なく斬り殺して、僅かな金品や荷物、果ては着ている衣服まで剥いで盗んでいく、そういう倫理観の欠けらもない外道どもが。……まあ、表の社会に生きる人間からすれば、私のような者もその部類だと思われているのでしょうがね。」
「ともかくも、王都近くの街道を荒らしていた二つの盗賊団は、私にとっていい目の上のコブでした。こちらも早めに処理しなければと思っていたのですが、何しろ奴らは王都近郊の森の中にアジトを構えているようで、なかなかその場所が掴めなかったのですよ。……これも、ティオ殿が奴らのアジトを特定し、その情報を警備兵に流してくれたおかげで一斉検挙に結びつき、こちらの手間が省けた形になりました。」
『紫の驢馬』は、トットッと二階のテラスの木製の手すりを人さし指で軽く叩いたのちに言った。
「要するに何が言いたいかと言うと、ティオ殿が警備兵にお尋ね者の情報を流した一件で、私はさほど被害は被っていないという事なのですよ。むしろ助かった面が大いにあった。プラスマイナスではプラスの方が大きかった訳です。」
「俺は、特に、あなたの利になるように動いたつもりはありませんでした。ただ、情報を売って金にするにしても、心が痛まない人間をなんとなく選んでいただけです。」
「分かっています。実際、私の組織の人間も何人も捕まりましたからな。ティオ殿が私の組織のために動いたのではない事は察していました。」
「ただ、そう、今回の一件を調べる内に、私は、警備兵に情報を流した人物が持つ『人としての規範』と、私の持つ『人としての規範』が似通っていると感じたのですよ。」
「ティオ殿は、自分の中の倫理観や良心に従って、とりわけ極悪だと思われる犯罪者の情報を警備兵に売ったのでしょう。しかし、それは、私が普段裏社会の法として組織内外の人間を裁いている基準に極めて近しいものだった。だから、結果として、私としてはさして痛手は受けず、私と主義主張の反する敵対組織の人間が多く捕まる事になった訳です。麻薬の売人にしても、街道を荒らしていた盗賊団にしても。」
「まあ、確かに、私の組織の人間も何人か捕らえられはしましたがね。しかし、彼らは、あからさまに表の法に反した犯罪行為をしていたのだから、仕方のない事です。国のお役人には国のお役人の指針があり、義務がある。そして、善良な一般市民は、知り得た犯罪者の情報を、街の治安維持のためにも、お役人に提供する事が推奨されている。」
「ティオ殿、あなたが私の組織に所属する人間なら、仲間を売るのは許されない行為だった事でしょう。あるいは、私の組織に所属していなくても、裏社会の人間なら、反目し合う組織間の力関係を揺るがす行為として問題になったかもしれませんな。……しかし、あなたは、今は表の社会の住人だ。傭兵団の作戦参謀として、国王軍の一員となり、内戦の終結に向けて働いている立場にある。そんなあなたが、王都に住む一般人として警備兵に助力し犯罪者の情報を伝えた事に対して、私がどんな咎を申し立てられると言うのでしょう? あなたは、王国に属する人間として、当たり前の事をしただけです。」
「私の部下の中には、先程の若い衆のように『仲間を売った仇だ』と、あなたを逆恨みする者が居るのは確かです。しかし、私は、彼らに報復を許すつもりはありません。私はこれでも、暴力や恐怖で人の行動を縛るのは最低限にしたいと思っておりますからな。特に、人の命を奪うのは、他にどうしようもない場合だけと決めています。もっとも、話の通じない、向こうから喧嘩を売ってくるような血の気の多い輩には、こちらも裏社会に生きる人間として容赦はしませんがね。……ですから、一般市民が『紫の驢馬』の子飼いの犯罪者の情報を売ると凄惨な報復を受けるなど、そんな事実も噂も、私にとっては不名誉な話なのですよ。」
「それでは……」
ティオは、穏やかな好々爺の笑みを浮かべて語る『紫の驢馬』に改めて向き直り、問うた。
「今回俺が警備兵に犯罪者達の情報を売った一件は、『紫の驢馬』の立場としては見逃す、という事ですか?」
「見逃すも何も、はじめからティオ殿は何も悪い事はしていなかったではないですか。先程も言ったように、私にあなたを咎める筋合いも権利もありません。」
「ただ、あまりに大量の犯罪者が一斉に検挙された事に驚いたのは事実です。これだけの情報を持っていたのはどんな人間なのかと興味が湧いていた所、あなたが『黄金の穴蔵』に現れたので、これを機に少しお話させていただきたいと思って、今日こうしてお誘いしたという訳です。」
「そう、私は、ただ純粋に、ティオ殿、あなたと腹を割って話してみたかったのですよ。」




