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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第十三章 野中の道 <第四節>泡沫のよすが
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野中の道 #27


「ヒッ!」


 ガッと、頬傷の男に胸ぐらを掴まれ、シャッと上着の懐から抜き払ったナイフを喉元に突きつけられて、ティオは声にならない悲鳴を上げていた。

 同じテーブルについていた『紫の驢馬』の数歩後ろから、向かいの席のティオの所まで距離を詰めて行動を制するまで、ほんの一瞬の事だった。

 訓練された男の動きはムダがなく素早く、また、人に凶器を向ける事にためらいがなかった。

 おそらく、今まで何人もの人間を殺傷し、それ以上に数え切れない程の人間を暴力によって制圧してきた経験が男の中に息づいているのを感じさせる。

 ティオも反射的にガタッと席から立ち上がったものの、そこで胸ぐらを掴まれてしまっていた。


 が、ティオが蒼白な顔でダラダラ冷や汗を垂らし、ガクガク震えているのは、頬傷の男に今にも喉元を掻き切られそうな状態だからではなく……

 自分のすぐ目の前に、小振りながらも良く研がれたナイフの刃があるからだというのは……

 ティオにナイフを突きつけている頬傷の男本人は知るよしもなかった。


(……は、刃物!……ヤ、ヤバイ、意識が……飛ぶ……)


 チカチカとティオの視界が恐怖のあまり瞬いた。

 とっさにギュッと目をつぶるも、その閉ざした瞼の奥で、無数の小さな閃光が未だ星のごとく明滅すると同時に、ドッと巨大な暗闇が押し寄せてくる。

 ザアッと音を立てるように全身の血が引き、足元がふらついたが、ググッと木製のテラスの床を踏み締めて、なんとかこらえた。


 ……キイィィィーン……


 聞き覚えのある、不快な金属音に似た特徴的な響きを、耳の奥で一瞬聞いた気がした。


「やめろ! 死にたいのか!」


 『紫の驢馬』の声が辺りに響き渡ったのを、ティオは目を閉じたまま聞き取っていた。


「ティオ殿を放せ! 私の大事な客人だと散々言って聞かせただろうが! 危害を加えるな!」

「し、しかし、親父、コイツのせいで兄貴は! 他にも、何人も組織の人間が警備兵に捕まって……」

「私の命令が聞けないのか! 放せと言っているだろう! 今すぐ解放しろ!」

「……グッ!……」


「……わ、分かりました。……」


 『紫の驢馬』に厳しく叱責された頬傷の男が、全く納得のいっていなさそうな声色ながらもその命令に応え、掴んでいた胸ぐらを放したのを感じる。

 チッというあからさまな舌打ちと共に、手にしていたナイフを上着の懐の鞘にカチンと収める音を聞いて、ティオはようやくそっと目を開けた。


「……命拾いしたな、小僧。だが、次はどうか分からねぇぞ。……」


 頬傷の男は、『紫の驢馬』には聞こえないように声をひそめて、未だ青ざめて震えているティオの耳元で憎々しげにそうつぶやくと、ススッとさがっていった。


(……お、落ち着け、落ち着け。……もう、大丈夫だ。俺の前に刃物はない。もう平気だ。……)


 ドッとテーブルにもたれるように片手をつき、背中を丸めて、しばらくティオは、乱れた呼吸を必死に整えていた。

 もう片手で、先程まで頬傷の男に掴まれていた胸元をグッと押さえて、ドッドッと破裂しそうな勢いで鳴っている心臓を鎮めようと努める。



 その時、ティオの意識は、眼前の頬傷の男や『紫の驢馬』を捉えてはいたが、その割合はティオの感覚の一割にも満たなかった。

 ティオには、もっと優先的に意識を割かねばならないものがあったためだった。


(……お、俺は、無事だ。……何も危険はない。……だから……)


(……大人しくしてろ!……)


 ティオが意識の大半を傾けていたのは、『精神世界』にある自分の精神領域だった。


 このナザール王都の裏社会を仕切る『紫の驢馬』との会見では、かの老人が正体を明かして初めてじっくりと話をするという事もあり、ティオは彼に神経を集中させていた。

 実際、『紫の驢馬』は、ティオが予想していた通り、なかなか腹の中の読めない深謀遠慮な人物で、腰の低い態度でにこやかに笑っていても、どこか猛毒の蛇に睨まれているような緊張感を覚える状況が続いていた。

 そのため、『紫の驢馬』との会談中は、『精神世界』の方の意識レベルを落として、精神体をほとんど眠った状態にしていたティオだったのだが……

 頬傷の男にナイフを突きつけられた瞬間、その状況が一転した。

 ……ゴゴゴ、ゴゴ……

 鋭く光るナイフの刃を目の当たりにしたティオは、恐怖で一瞬パニック状態に陥り、そんなティオの『物質世界』での動揺が、『精神世界』における彼の精神領域に、同じ瞬間、大きな変化をもたらしていたのだった。

 ティオと同一の存在である、果ての見えない巨大な壁のごとき構造物が、地鳴りのような音を立てて不気味に蠢いていた。

 ティオは慌てて、混乱している自分の気持ちを必死に抑え込もうとした。


(……クソッ!……どうしてもこればっかりは、精神が掻き乱される! 俺が動揺すると、同一存在のコイツが連動して勝手に動き出しちまうのは、本当に厄介だ!……)


 ティオは普段、自分の精神領域にある巨大な構造物をなるべく安定させるために、心を乱さないよう慎重に生活していたが、それでもトラウマとなって深く記憶に刻み込まれてしまっている刃物に対する恐怖心だけは、どうにもならなかった。

 刃物を見ると、強烈な恐怖の感情で身がすくみ、血の気が引き、息が苦しくなり、胸がズキズキと痛む。

 突然体に酸素が供給されなくなったかのごとく、チカチカと視界が瞬いたかと思うと、瞬く間にそれが一気に暗転してくる。

 体に力が入らず、ふらつき、酷い時は吐き気を催したり気を失う事もあった。

 ティオは、経験からくる状況の先読みで、最悪な状況に陥る事をなるべく回避しており、また強靭な精神力によって大抵の事はさして動揺せずに済ませていたが……

 刃物に関してだけは、ティオがトラウマとなる大きな傷を心に負った事件から二年以上経った今も、ほとんどなすすべなく精神が恐慌状態に陥ってしまっていた。


(……ったく、情けないったらないな!……)


 ティオの中には、頬傷の男の粗暴な行動を責める気持ちは全くなく……

 代わりに、自分の不甲斐なさを恥じ、叱咤していた。


(……ほ、『宝石の鎖』! ソイツを抑え込め! 暴れさせるな!……)


 ティオの意思を受けて、精神領域にある、ティオが例の巨大構造物を制御するために作り上げた宝石の鎖が、ビイィィィン! と唸りを上げた。

 元々ティオは、四六時中、巨大構造物を『宝石の鎖』で拘束していた。

 その一端として、その構造物と同一存在である自分の精神体にも絶えず『宝石の鎖』をビッシリと巻きつかせている状態だった。

 ティオの精神体に巻きついている『宝石の鎖』は、ティオの「鉱石との親和性が高い」という異能力によって、彼の手足のように自由自在に動かす事が出来た。

 この時も、『宝石の鎖』は、ティオの意思を受け、不気味に蠢いていた巨大構造物を、ギリギリと改めてきつく縛り上げていっていた。


(……ふうー……)


 なんとか巨大構造物の不穏な動きが収まったのを確認して、ティオはようやくホッと胸を撫で下ろし、自分の意識をもう何割か『物質世界』へと移した。


「……ティオ殿、大丈夫ですかな? 誠に申し訳ない。部下のしつけがなっておりませんでした。」

「……あ、ああ、ご老人、大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません。」

「まだ顔色が良くありませんな。」

「しばらくすれば落ち着きます。いや、ハハハ、お恥ずかしい所をお見せしました。」

「いえ。こちらの落ち度です。……それにしても、本当に刃物が苦手なのですね。」

「仮にも傭兵団員だというのに、情けない話ですよね、ハハハハハ。」


 『紫の驢馬』が心配そうにこちらの様子をうかがってくる前で、ティオは特に自分の不調を隠す事なく、ドッと糸が切れたように椅子に腰を下ろして、しばらく両手で頭を抱えるようにしてうつむいていた。

 一応いつものようにヘラヘラした笑顔で受け答えはしているものの、一度酷く落ち込んだ体調は急には治らず、未だドッドッと心臓が不快に早鐘を打ち、溢れる冷や汗が伸ばしっぱなしの黒髪を額に貼りつかせていた。

 精神的にはもうほとんど立ち直っていたが、体調が戻るのにはまだ若干の時間を要する状態だった。

 ティオは、完全に回復するまで、大人しく背を丸めて小さくなり、近くに置いてあった自分のグラスを震える手で取り上げては、中に入っていた香草を浮かべた水を少しばかり口に含んだ。


(……ヤッベー!!……)


 精神領域での異常事態が落ち着いた事を受けて、普段の精神状態に戻ってきたティオは、次に、現実的な問題に頭を悩ませる事となった。

 表面的には飄々とした笑顔を『紫の驢馬』に向けながら、ティオは、頭の中でグルグルと高速で思索していた。


(……今の、ちょっと蓋から漏れてた、よな?……)


(……大水晶球に探知されたり……は、してない筈だ。たぶん。さっき漏れたのは、大水晶球が探知出来る量を下回ってる。……大丈夫だ、大丈夫、うん。……)


(……クソッ! こんな所まで逃げてきたのに、捕まってたまるか!……)


(……いや、最悪、もし万が一探知されていたとして……あの国からここまで、今すぐ古代鳥を飛ばしても十日はかかる計算だ。普段なら、さっさと逃げて、その十日の内にアイツらに捕まらないぐらいどっか遠くにトンズラする所だが、俺は今この場所を離れられない。……十日か。後十日で、内戦が終わって、諸々スッキリ片づくか? いや、さすがに無理だろう。……今は、大水晶球に探知されていない事を祈るしかないな。……いや、平気だ。あの量なら、大水晶球には引っかかってない。大丈夫だ。……)


(……ったく、なんであんな面倒臭いもんがあるんだよ! せっかくあれこれ苦労してあの国からおさらばしたってのに、大水晶球で世界中を二十四時間三百六十五日監視されてたんじゃ、一瞬だって気が抜けねぇじゃねぇか! しかも、大水晶球の探知性能は、一年半前から元の約十倍に向上してる! まだ完全な形で修復された訳じゃ全然ないけどな。古代文明の遺産で、重要な部品がいくつもぶっ壊れたり紛失したりしてたから、現状これ以上の復元は無理だ。でも、今残っている部分だけは、最大限元々の機能を発揮出来るように直したんだよな、俺が。……そう、俺がぁ!なんで直しちまったんだよ、俺のバカ野郎うぅ!……いや、だって、錬金された水晶って言ったって、一応鉱石だからなぁ。しかも、直径10mもあるんだぜ! テンション上がりまくって、「あー、壊れてんだぁ。可哀想だから、俺が直せる所までは直しとこう、うんうん。」ってなるだろう? あの時は、俺もまだ、あの国を出る事は全然頭になかったしさー。それが、後になって俺自身の首をグイグイ締める事になるなんて、思いもよらなかったんだよ! ああぁぁー、後悔先に立たずとは、まさにこの事かぁー!……)


(……って、今はそんな事を考えてる場合じゃない!……大丈夫だ。さっきのは大水晶球に探知されてない。落ち着け。……)


 ティオは、ほんの一瞬の内に物凄い勢いで考察を終えると、「とりあえず問題ない」と片づけて、その事については考えるのをやめた。


 代わりに、自分が散々賞金首の犯罪者をこのナザール王都の警備兵に売った事で、目の前の『紫の驢馬』に問い詰められていた状況を頭に叩き込み直す。

 ティオが居場所や隠れ家の情報を流した犯罪者は、街道を襲っていた盗賊グループを入れれば四十人を下らなかった。

 その中には当然何人も、王都の裏社会のドンである『紫の驢馬』が仕切る組織に属していた者も居た事だろう。

 つまり、ティオがした事は、『紫の驢馬』の庭を荒らした行為であり、彼の怒りを買うのも当然の成り行きだった。


(……さて、どうしたものかな。もう、俺が賞金首の情報を売った人間だってのは、完全にバレちまってるみたいだしなぁ。……)


 ようやく刃物を突きつけられた事で青ざめていた顔色が元に戻ってきたティオは、背を正して、テーブルの向かいの席の紫の驢馬に穏やかな笑みを浮かべながら、内心思案していたが……

 それは、『精神世界』での異常に対応している時や、その後、その時の影響で自分の居場所が割れ、追っ手がかかる可能性に頭を悩ませていた時に比べると、ずっと軽い気分であった。


(……まあ、なんとかなるだろう。……)


 という、明確な根拠のない、漠然とした感覚がティオの胸の中に漂っていた。

 いよいよ事態が切迫したら、「すかさずケツをまくって逃げる」というのがティオの常套手段であり、自分の逃げ足に自信のあるティオは、この『紫の驢馬』が会談の場所に選んだ『眠り羊亭』の周りに敷かれた手下達の包囲網を掻い潜って逃げ切れる事を確信していた。

 しかし、そんな事をすれば、『紫の驢馬』の信用を失って、関係は一気に険悪なものとなり、彼がこうして自分との話し合いの場に着く事は二度とないであろう事から、あくまで逃亡するのは最終手段にしておきたい所だった。

 が、おそらくそんな心配はないだろうとティオは踏んでいた。

 これもまた根拠はなかったが、ティオの勘がそう告げていたのだった。

 ティオの勘は鋭い。

 特に、自分の身が危険に晒されたり、命に関わるような状況においては、ガンガンと激しい頭痛を感じるかのごとく、頭の中で警鐘が鳴り続ける。

 だが、今はそんなティオの危険察知の感覚は静まり返っていた。

 要するに、総合的に考えて、今のこの状況は自分にとってさほど危なくない、という事になる。


(……ふわ、眠い……おっと。……)


 刃物の恐怖が去り、差し当たって事態が逼迫していないと判断したティオは、ドッと眠気に襲われていた。

 うっかり大口を開けてあくびをしそうになるのをググッと唇を引き結んでこらえ、引き続き『紫の驢馬』に愛想笑いを向ける。


(……昨日寝てないからなぁ。さっきたんまり飯も食ったんで、眠くってしょうがないぜ。……)


 そんな、ティオが内心必死に眠気と戦っている事など知るよしもない『紫の驢馬』とその護衛の頬傷の男は、何やら揉めていた。


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