野中の道 #17
ナザール王国王都の下町に建つ一見ありふれた大衆食堂『眠り羊亭』の、貸切となった二階のテラスのテーブル席に座した『紫の驢馬』は、ティオを前に語った。
淡々とした語り口ながら、そこには硬い岩を並べたようなどこかゴツゴツとした印象があり、老人の長い人生経験からくる確信のようなものが感じられた。
次第に傾き出した天気は、灰色の綿雲を風と共に頭上に次々と運び、テラスに沿うように伸びた緑の木々の梢をざわつかせていた。
「この世の腐敗は人の心が生み出すもの。……であるならば、たとえ、我々のような『社会に害をなす』と言われる『はみ出し者』を排除した所で、一向に世の中は良くならない事でしょう。あるいは、この世界に住む全ての人間の心が美しく清らかなものとなり、皆が皆他人を思いやって助け合うようになれば、楽しく愉快な社会になるのかもしれません。しかし、私はもうかなり長い時間生きてきましたが、この世界に一向にそんな気配は見えません。人の心には、いつの世もあいも変わらず、醜いものが巣食っております。ただそれは、社会が豊かで栄えている時にはあまり顔を出さず、逆に荒廃して生活に窮するような状況になると顕著に表に現れるように感じられる、そういった違いはありますが。人間追い詰められた時程、その本性が出ると良く言いますからな。……ともかく、この世界に生きる全て人の心が一点の曇りもなく晴れ渡る事は、いまだかつてなく、そしてこれから先もない、と私は思っておりますよ。」
「そう、表の世界に生きる人々は、この社会が歪み汚れているのは、我々のようなはみ出し者が居るからだと良く言っておりますが、私に言わせれば、それは因果が逆なのです。世の中が、社会が、歪み汚れているからこそ、我々のような裏社会でしか生きられない者が次々と生まれてくる。人の心の澱が生み出す社会の腐敗が、社会悪が、我々を生み出しているのです。貧困、暴力、犯罪、差別……そんな社会の汚泥に一等酷くまみれてしまった人間が落ちてきた先が、我々の生きる裏社会なのです。いや、もはや、我々が居るから世が乱れるのか、世が乱れるから我々のような者が生み出されるのか、卵が先か鶏が先か、この因果はあまりにも密接に不可分に結びついていて、どちらが原因でありどちらが結果であるのか分からなくなってしまっているようにも感じられますな。人の心が社会の歪みと腐敗を生み、その歪みと腐敗から生まれ落ちた我々が、また社会に歪みと腐敗を広げもたらしている、といった所でしょうか。負の連鎖とも言うべきものですな。」
「現実として、表の社会の枠からはみ出して裏社会に落ちてくる者は日々絶えません。……それこそ、世界の全ての人間の心が清らかになり、一切汚れを生み出さないという状況にでもならない限り、世の歪みや腐敗はなくなる事はなく、我々のような人間もまた、居なくなる事はないでしょう。そして、人間の心は有史以来、一度たりとも真っ白になった事はなく、現に、この世から戦がなくなった試しがない訳です。」
「私は何も、犯罪に手を染める者を肯定している訳ではないのですよ。しかし、その背景には、必ずと言って良い程、貧困や差別といった社会の歪みが原因としてある。もちろん、どんな窮地に陥っても、裏社会に関わる事のない人間も居る事でしょう。飢えようともいたぶられようとも、犯罪に手を染めず暴力を嫌う、気高い精神の持ち主も居る事は居る。しかし、多くの者は弱く、自分の命を繋ぐために必死になってもがいている内に、表の法から滑り落ちてしまう。社会が悪い、時代が良くない、国王の政治が駄目だ、だから、我々のような境遇の者が居るのだ……などと言う気はありません。被害者振る気はないのです。表の法に従わない我々には、確かに非がありますからな。それは、我々が軟弱で卑怯で汚い人間だからなのだと言われれば、それまでだとも思います。」
「しかし、私は、現実主義者なのですよ。そう、理想や理屈どうこうという事よりも、今自分の目の前で起こっている事を一番重要視しております。そして、現実として……今現在、我々のように表の社会からはみ出した人間が多く居て、おそらくこれからも、そんな人間は生まれ続ける事でしょう。」
「人の心の汚い部分が社会の腐敗を生み出し、社会の腐敗があるために我々のようなはみ出し者が生まれ、そしていつまでも人間の心は綺麗にならず、故に社会は完全には良くはならず、我々のような者達もまた生まれ続ける。これが、私の捉えた現実の有り様なのです。」
『紫の驢馬』は、まだ半分近く残っているカップの上でポットを傾けてゆっくりと中の茶を注いでいき、カップの縁ギリギリの所でピタリと止めた。
作法としては褒められたものではなかったが、そのカップの取っ手を指で摘んで口元に運び、一滴も零す事なく静かに呑み下す様は、どこか洗練されて上品にさえ見えていた。
また半分程残して、『紫の驢馬』は、カップを受け皿の上にカチリと折り目正しく戻した。
「表の社会の枠組みからはみ出す者が常におり、彼らが裏社会に落ちてくるのが現実なのだとするならば……まずは、その受け皿が必要なのではないですしょうか? ならず者を減らす、あるいは、彼らを生み出す社会の歪みを正す、それ以前に、現実的に、社会の落伍者を受け入れる何らかの組織や団体が必要ではないかと私は思うのですよ。」
「つまり、ご老人、あなたは、その受け皿の役目をしているのだと言いたいのですね?」
ティオは、『紫の驢馬』が、お茶のお代わりを目の前の自分のカップに注ごうとするのを断って、自らポットを手に持ち、空になっていたカップに適量スーッと茶を注ぐと、口に運んだ。
「ハハ、そんなご大層な大義名分をおおせつかったつもりではなかったのですがね、長年裏社会の首領をしている内に、自然と私の傘下の組織はそんな役割を担っておりましたな。……実際、次々と溢れてくる社会のはみ出し者達を、何の縛りもなく放っておくとろくな事になりません。彼らは、表の世界で真っ当に生きている者達の生活を踏みにじる事を厭わず、自分の欲望のままに、奪い、傷つけ、犯し、殺し……そして、ますます社会は混乱をきたすばかりです。ですから、私は、『裏の道には裏の道の法があり、守らねばならない秩序があるのだ』という事を、まっ先に彼らに教え込む訳です。中には、裏社会のルールさえも守れず、いつまで経っても周囲に害を撒き散らすだけという者もおりますが、大抵の者は、底辺ならば底辺なりに、居場所と役割と生きていくすべを与えれば、ある程度落ち着くものです。そう、表の社会に生きる者達から、鼻つまみ者、ならず者、ゴロツキと呼ばれる者達であっても、衣食住を整え、人間としての尊厳を保った生活が送れる環境ならば、それ程暴れる事はない。まあ、元々気性が荒く乱暴な者はどうしても一定数おりますがね、それは表の社会に生きる者にも言える事ではないですかな? いつまでも更生出来ずに被害甚大となれば、表であろうと裏であろうと粛清の対象となるものです。」
「要するに、私が言いたいのは、裏社会に生きる者であっても、最低限人間らしく生きる権利があり、また、そうするべきだという事です。……所属する組織があり、自分を認め必要としてくれる仲間が居て、帰るべき居場所を持っているというのは、何よりも心強いものではないですかな。その組織の中には、血は繋がっていないながらも、まだ世間を知らない若い衆を導く年寄りが居たり、切磋琢磨し合う同年代の者が居たり、また、自分が保護しなければならない歳下の者達が居て、そんな様々な年代の人間との関わりから学ぶ事も多いでしょう。喜びや悲しみを分かち合い、自由に自分の喜怒哀楽の感情を発散出来て、時には年配の経験者に厳しく叱咤される……血の繋がった家族ではないが、まるで大きな家族のような、そんな場所が必要なのです。」
「私は、このナザール王都の裏社会を仕切る首領として、この裏社会に落ちてくる者達を受け止める組織を作ってきたつもりです。出来る事なら、これからも、少なくとも私の目の黒い内は、この組織の秩序を維持していきたいと思っております。」
「さて、すっかり長い話になってしまいましたが、もう一度問いましょう。……ティオ殿は、こんな私の、そして私の指揮する組織の事を、どう思われますかな?……どうか忖度なく、ティオ殿の思った通りの事をぜひ言葉にしていただきたい。あなたの忌憚のない意見が聞きたいのです。」
ザザザ……と、天候の悪化に伴った一際強い風が二階のテラスを吹き抜けていった。
ティオの伸ばしっぱなしのボサボサな黒髪がいっとき風に乱れ、瓶底を思わせる分厚い大きな丸眼鏡の上で揺らいだが……
やがて風が行き過ぎて落ち着くと、そこには、独特な深い緑色の瞳が、向かいの席の小柄な老人を真っ直ぐに見つめていた。
ティオの面からは、今までのようなおどけたような浮ついた笑みが消え、代わりに、凪いだ湖面を思わせる、静かで穏やかな聖人のごとき微笑が浮かんでいた。
そんなティオの、いつも見せている掴み所のない飄々とした表情ではなく、透徹した知性と同時にどこか慈愛を感じさせる気配に……
『紫の驢馬』は、自分の問いかけに対して、ティオが改めて背筋を正し誠心誠意答えようとしている事をヒシヒシと感じていた。
「そうですね、俺の世の中に対する認識も、概ねご老人と同じです。先程も言いましたが、俺は、ご老人がこの何十年もナザール王都の裏社会にコツコツと秩序を敷いてきた、そのたゆまぬ努力と志に尊敬の念を覚えています。俺もご老人と同様に、たとえ社会の影の部分であろうとも、秩序とそれを実現させる最低限のルールは必要だと考えています。いや、ご老人の言うように、放っておけばすぐに無法地帯となって血の雨の流れかねない混沌とした裏社会にこそ、本来そうした厳しい秩序は求められるものなのでしょう。……まあ、俺は自称『平和主義者』ですので、暴力には賛成しかねますが、荒っぽい無法者達を鎮めるために、生物的な恐怖に訴える直接的な力の行使は、ご老人の立場ではいたしかない場合もあるのは理解しています。」
「実は俺も、ご老人の率いる組織とは雲泥の差ですが、社会の表側から零れ落ちた者達の受け皿とも言うべき組織に救われた人間の一人です。……俺がかつて盗賊団に入っていたという話は、先程少ししましたよね。俺はいわゆる戦災孤児で、幼い頃に両親を亡くして身寄りもなく、大小いくつもの戦争がいつまでも続いている治安の悪いあの土地では、とても一人きりでは生きていけませんでした。そんな俺を拾ってくれたのが、件の盗賊団です。その盗賊団は、騎士崩れの男が指揮を執っていて、俺の他にも身寄りのない子供達を集めて組織していました。俺はそこで、安心して休める住居と寝床、飢える心配をする必要がない毎日の食事を与えられ、仲間と居場所を持つ事が出来ました。そして、そのリーダーの男から、また仲間との共同生活の中から、この厳しい世の中を生きて行くすべを、強い精神を、人間らしい情緒を、とても多くの事を学びました。まさに、血は繋がっていなくても、大きな家族のようでした。まあ、リーダーが教えてくれたものの中には、剣やナイフの扱い、どうやったら相手を効率的に拘束出来るかといったような、健全な子供の育成としては知るべきではない内容も多々混ざっていましたが、盗賊を生業としていた組織としては仕方のない事ですね。……俺は、結局は、恩を仇で返すようにその盗賊団を一人で抜けてしまいましたが、リーダーや仲間のみんなには、本当に感謝しています。今の俺があるのは、リーダーが、仲間の皆が、居てくれたおかげだと思っています。……ですから、表の社会からどうしても零れ落ちてしまう者達の受け皿を作る、というご老人の理念は、俺には良く理解出来ます。」
「ティオ殿は、どうしてその盗賊団を抜けたのですかな?……あなたならば、その盗賊団の者達とも問題なく上手くやっていたのではないですか? また、その才気を買われて盗賊団の将来を任される重要な立場にあったのではないかと推察します。……差し支えなければ、その組織を離れた理由をお聞かせ下さい。」
「俺が盗賊団を抜けたのは、ある事件がきっかけです。事件の具体的な内容は個人的な事なので伏せさせて下さい。ともかく、俺はリーダーの決めた盗賊団のルールを破ったんです。おかげで、騎士崩れのリーダーの男と酷くもめました。でも、俺には俺の譲れない理由がありました。だから、リーダーに頭を下げて今後はルールを守る事を誓い盗賊団に居続ける事よりも、ルールを破って生きていくために盗賊団から抜ける事を選びました。……しかし、今振り返ってみると、それは本当に単なるきっかけだったのだと思います。俺はその事件が起こる以前から、盗賊として生きていく事に内心疑問を感じている所がありました。」
「ほお、それはどのように?」
「漠然としていて、俺も長く気づかずにいたんです。まあ、なんと言うか、『俺が居るべき場所はここではない気がする』といった感じですかね。俺は先程も言いましたが、暴力や争いごとが苦手なんですよ。特に今は、その後のとある凄惨な事件に遭ったせいで、それ以降トラウマで極度の刃物恐怖症になり、武器のようなものをほとんど扱えない状態だというものありますが、これでも俺は、生粋の平和主義者なんですよ。でも、盗賊団の生業というのは、人を襲ったり、屋敷に忍び込んだりして物を盗む事でしょう? 俺は、自分の采配でしのぎをする際、なるべく人目につかないように綿密に計画を立てるようにしていましたが、それでも、不測の事態は起こり得るもので、そんな時は敵と力で競り合う場面がどうしても出てきてしまいます。それが、やっぱりどうにも俺には耐えられなかったんでしょうね。出来れば人に暴力を振るう必要のないやり方で生活を営みたいという気持ちが、ずっと俺の心の底にはありました。確かに、仲間達とワイワイ暮らすのは楽しかったし、しのぎが成功した後、豪華な料理を囲んで宴会をして、高揚感や充実感に包まれたりもしました。それでも、俺の心の奥にあった小さな違和感の種ようなものは、どうしても誤魔化しきれなかった。……それが、リーダーの元騎士ともめた前述の事件で表出したのだと思います。」
「それから、まあ、いろいろあって、今はあてもなく世界各地を旅して回っています。この生活が俺に本当に合っているのかどうかは、正直良く分かっていません。でも、あの時盗賊団を抜けた事に関しては、俺を育ててくれたリーダーや、居場所を与えてくれた仲間のみんなには悪いとは思っていますが、間違った選択ではなかったと感じています。俺は、どうにも、盗賊団はしょうに合わなかったんだと思います。今も俺の中に憂いがない訳ではないですが、とにかく一人なので、共に苦楽を分かち合い助けてくれる仲間が居ない代わりに、組織の和を保つためのルールに従う必要もなくなりました。どこへ行くも何をするも自由なのは、まあ、気楽ではありますよ。……あ、いや、今はちょっと事情があって、なぜか傭兵団なんかに入っちゃってるんですけれどもね。傭兵団は、純粋なカタギとは言えないかもしれないですね、ハハ。」




